前世で私を毒殺した孫娘が、今世ではバカ息子の『運命の恋人』として公爵家を乗っ取りに来たので、まとめて地獄へ叩き落とすことにした。
執務室の分厚いマホガニーの扉が、乱暴に開け放たれた。
「父上! 大事な話があります!」
飛び込んできたのは、我が公爵家の跡取り息子、アルベルトだった。顔を真っ赤に紅潮させ、息を荒げている。その姿は、貴族の矜持など微塵も感じさせない。私は、手元の書類からゆっくりと視線を上げ、彼を見据えた。
「ノックもせずに押し入るとは、公爵家の跡取りとしての自覚が足りないようだな。それに、その浅ましい態度は何だ」
私の冷たい声に、アルベルトは一瞬ひるんだが、すぐに怒りの表情を浮かべた。
「そんなことはどうでもいいのです! 私は、クラリスとの婚約を破棄し、真実の愛で結ばれたリリアーナと婚約したいのです!」
真実の愛。
前世の記憶を持つ私にとって、その言葉は安っぽい恋愛小説の陳腐なセリフにしか聞こえなかった。私は、深くため息をつき、ペンを置いた。
「お前の主張は分かった。だが、その前にいくつか確認しておきたいことがある」
「チッ……なんですか」
舌打ち。親に向かって、しかも公爵家当主に向かっての舌打ち。この愚息は、本当にどこで教育を間違えたのだろうか。
「お前が『真実の愛』と呼ぶそのリリアーナという娘は、我が家の下働きだったな」
「下働きではありません! 彼女は、落ちぶれた男爵家の令嬢で……」
「黙れ」
私は、彼の言葉を冷たく遮った。
「私の調査によれば、彼女は男爵家の令嬢などではない。平民だ。それも、借金まみれの親から売られるようにして我が家にやってきた、ただの平民だ」
「なっ……! そんなの嘘です! リリアーナは……!」
「嘘かどうかは、お前自身で調べれば分かることだ。それとも、調べもせずに彼女の言葉を鵜呑みにしたのか?」
アルベルトは言葉に詰まった。図星なのだろう。
「さらに言おう。彼女は、我が家で働く間に、複数の使用人と肉体関係を持っていた。お前が彼女にのめり込むずっと前からな」
「な……!?」
アルベルトの顔から血の気が引いた。
「そして、お前がクラリス嬢との婚約を破棄すると知った彼女は、すでに次期公爵夫人としての振る舞いを始めている。私の名を使って借金を作り、高価なドレスや宝石を買い漁っているのだ」
「……うそだ……」
「現実を見ろ、アルベルト」
私は、机の引き出しから分厚い書類の束を取り出し、彼の前に投げ捨てた。
「これが、彼女の『真実の愛』の証拠だ」
書類には、彼女の借用書、使用人たちの証言、そして彼女が他の男に宛てた手紙など、彼女の本性を暴く証拠が克明に記されていた。アルベルトは震える手で書類を拾い上げ、読み進めるうちに、その場に崩れ落ちた。
「私が……騙されていた……?」
「お前は、彼女の美貌と甘い言葉に目がくらみ、公爵家の跡取りとしての責任を放棄した。クラリス嬢という素晴らしい婚約者を捨て、我が家の名誉を泥に塗ったのだ」
私は、冷徹な声で告げた。
「お前には、もはや公爵家を継ぐ資格はない」
「父上……! お願いです、許してください……!」
アルベルトは泣き叫び、私にすがりつこうとした。しかし、私は冷たく彼を突き放した。
「お前の軽率な行動によって、我が家はどれほどの損失を被ったか。クラリス嬢の実家である侯爵家との関係悪化、そして、王家からの信頼失墜。お前は、それらの責任をどう取るつもりだ?」
「……」
アルベルトは何も答えられなかった。ただ、絶望の淵で泣き崩れるしかなかった。
「お前の処遇については、追って沙汰を下す。それまで、自室で謹慎しておれ」
私は、そう言い捨てて執務室を出た。
扉の向こうには、冷や汗を流して控えている執事の姿があった。
「あの娘は、すでに捕らえてあります。どういたしましょうか」
「市中警備隊に引き渡せ。貴族への詐欺罪、そして公爵家への名誉毀損。重罪だ」
「かしこまりました」
執事が去った後、私は深く息を吐いた。
前世の記憶を持つ私にとって、この世界の貴族社会はあまりにも窮屈で、愚かだ。しかし、この家に生まれた以上、私は公爵家当主としての責任を果たさなければならない。
アルベルトを廃嫡し、新たな跡取りを探す。侯爵家との関係を修復し、王家の信頼を取り戻す。
やらなければならないことは山積みだ。
「はぁ……。本当に、面倒なことだ」
私は、誰にともなくそう呟き、再び執務室へと足を踏み入れた。
アルベルトの愚行は、私にとって大きな痛手だった。しかし、私はこの程度のことで挫けるつもりはない。
私は、公爵家当主として、そして前世の記憶を持つ者として、この世界を生き抜いていく。それが、私の選んだ道なのだから。
執務室の重厚な革張りの椅子に深く腰を沈め、私は静かに目を閉じた。
頭痛の種である愚息を排除し、公爵家の膿を出した。だが、私の胸の奥底で燻り続けていた黒い炎は、それだけでは消えない。
前世の記憶。
私は先程、アルベルトに『前世の記憶を持つ私にとって』などと心の中で嘯いたが、その実態は、ありふれた現代日本からの転生などではない。
私の前世は、この世界の平民だ。
名前はマルコ。王都の片隅で日銭を稼ぎ、細々と生きるしがない老人だった。
そして、あのリリアーナの『祖父』である。
時間が巻き戻ったかのように、毒殺された直後、私は数十年昔の公爵家に赤子として転生した。不可思議な運命の悪戯だが、神には深く感謝した。なぜなら、私にはどうしても晴らさねばならない『怨み』があったからだ。
マルコとしての晩年、私は重度の認知症を患っていた。
霧のかかったような曖昧な意識の中、自分が何者かも分からず、ただ粗末なベッドで寝たきりの日々を過ごしていた。だが、時折、残酷なほどに意識が鮮明に晴れる瞬間があったのだ。
あの日もそうだった。
「おじいちゃん、お薬の時間よ」
愛らしい声と共に、孫娘のリリアーナが木の実をすり潰したような汁を持ってきた。
私の娘が残した、たった一人の血の繋がり。貧しいながらも、目の中に入れても痛くないほど可愛がった孫娘。
だが、その日の私は、はっきりと見てしまったのだ。
匙を私の口に運ぶ彼女の瞳に浮かぶ、氷のような冷たさと、微かな嘲笑を。
そして、その赤い唇が紡いだ残酷な言葉を。
「……これでやっと、お荷物が片付くわ」
喉元を過ぎた液体は、薬などではなかった。内臓をドロドロに溶かし、焼き尽くすような激痛が走り、私は血を吐いて悶え苦しんだ。
薄れゆく視界の中、私が最後に見たのは、実の祖父が苦しみながら死んでいく様を、まるで路傍の虫の死骸でも見るかのように冷酷に見下ろす、あのリリアーナの顔だった。
あの時の絶望。あの時の悲哀。
そして、魂を業火で焼くような凄まじい怨嗟。
忘れるものか。私が認知症で何も分からないと高を括り、自分が贅沢をするのに邪魔になったという身勝手な理由で私を毒殺したあの女を。
公爵家の当主として成長し、いつか彼女が歴史の表舞台に現れるのを待っていた。
まさか、私の愚息を誑かし、この公爵家を乗っ取ろうと真っ向から乗り込んでくるとは思わなかったが。アルベルトが彼女を連れてきた日、私は狂喜のあまり笑い出しそうになるのを必死で堪えたものだ。
私は、泳がせたのだ。
アルベルトを誘惑させ、公爵家の名を使って莫大な借金を重ねるのを、すべて把握した上で黙認した。彼女が『次期公爵夫人』という幻の玉座に完全に腰を下ろし、最も有頂天になる瞬間を待っていた。
最も高い場所から、絶望の底へと叩き落とすために。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「入れ」
先程の執事が、静かに一礼して入室してきた。
「旦那様。例の女を、市中警備隊へ引き渡す手筈が整いました。現在、地下牢にて拘束しておりますが……引き渡し前に、一度ご覧になられますか」
「……あぁ、そうしよう」
私はゆっくりと立ち上がり、執務室を後にした。
地下牢は、ひんやりとした湿気を帯びていた。
鉄格子の向こうで、豪奢なドレスを泥と涙で汚したリリアーナが、石の床にへたり込んでいた。私の足音に気づくと、彼女はすがるような目を向けてきた。
「こ、公爵閣下! 誤解なのです! 私は本当にアルベルト様を愛して……!」
「真実の愛、だったか」
私が低く呟くと、彼女は必死の形相で何度も頷いた。
「そうです! 私たちは愛し合っているのです! お願いです、どうか慈悲を……!」
私は鉄格子に近づき、彼女を冷たく見下ろした。その視線は、かつて彼女が死にゆく私に向けたものと全く同じだ。
「リリアーナ。お前は、随分と毒の扱いに長けているそうだな。我が家の厨房に忍び込み、クラリス嬢の茶に微量の毒を盛ろうとしていたことも、すべて把握している」
ビクッ、と彼女の肩が大きく跳ねた。
「な、なぜそれを……」
「お前の手口など、とうに知っているのだ。相手が抵抗できないと分かれば、平然と毒を盛る。かつて、認知症を患った自分の祖父、マルコにしたようにな」
その名前を出した瞬間、リリアーナの顔から完全に血の気が引いた。
大きく見開かれた目は、極限の恐怖に痙攣している。
「どうして、その名前を……っ!? 祖父は、病死で……!」
「病死? 違うな」
私は、彼女の耳元に届くように、わざとあの時の彼女と同じ、歪んだ嘲笑を浮かべてみせた。
「『……これでやっと、お荷物が片付くわ』。そう言って、お前は私に毒を飲ませたな」
「ぁ……あ……?」
リリアーナの喉から、ひゅっと空気が漏れる音がした。
彼女の脳内で、目の前の冷酷な公爵と、かつて自分が毒殺したはずの薄汚れた老人の姿が、あり得ない形で重なったのだろう。理解を超えた恐怖に、彼女の顔が醜く歪む。
「あ、あああ……っ!? ま、まさか……嘘よ、そんなこと……!」
這いずるように後ずさり、壁に背中を打ち付けた彼女は、もはや人間の言葉ではない悲鳴を上げ始めた。私は、淡々と死刑宣告を下す。
「お前には、死すら生温い。市中警備隊には手を回してある。貴族への暗殺未遂と詐欺の罪で、お前は生涯、陽の当たらない死の地下鉱山で這いつくばって生きることになる。泥水を啜り、己の犯した罪の重さに絶望しながら死んでいけ」
「いやぁぁぁああああっ! おじいちゃん! ごめんなさい! 許して、許してぇぇっ!!」
もはや正気を失い、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして叫ぶ女を背に、私はきびすを返した。
「行くぞ」
「はっ」
執事を引き連れ、私は地下牢の階段を上っていく。
背後から響く絶叫は、私にとって極上の音楽のように心地よかった。
ああ、胸のつかえが下りた。
前世の怨みは、これで綺麗に清算された。
地上に戻ると、窓から眩しい夕陽が差し込んでいた。
「さて、侯爵家への謝罪と、新たな跡取りの選定だな」
やらなければならないことは山積みだ。
しかし、私の足取りは羽のように軽かった。
公爵家当主として。そして、地獄から舞い戻った復讐鬼として。
私は、この鮮やかなる第二の人生を、心ゆくまで生き抜いてやる。
誰にともなく、私は夕陽に向かって深く、満足げな笑みを浮かべた。




