エピローグ
しばらく、誰も何も言わなかった。
さっきまで言葉で埋まっていたはずの部屋が、急に静かになった気がした。時計の針の音と、冷蔵庫の低い唸りだけが、やけに耳につく。
僕は空になったグラスを手の中で転がしながら、テーブルの一点をぼんやりと見ていた。
話し終えたはずなのに、どこかでまだ続いているみたいな感覚があった。
「……で」
先に口を開いたのは、君だった。
思っていたよりも、ずっと落ち着いた声だった。
「それで、終わり?」
少しだけ顔を上げる。
何を期待しているのか分からない目だった。ただ、続きを待っているようにも見えた。
「終わりだよ」
短く、そう答える。
「それ以上でも、それ以下でもない」
それが事実だった。
あいつらは、それぞれの道に進んでいって。
僕は、ここにいる。
それだけの話だ。
「……ふーん」
興味があるのかないのか分からない相槌が返ってくる。
少しだけ間があって。
「じゃあさ」
その一言で、空気がわずかに変わった。
「なんでやらなかったの?」
思っていたよりも、まっすぐだった。
変に遠慮した言い方じゃなくて、ただ純粋な疑問みたいに。
言葉に詰まる。
答えなんて、考えたことがなかったわけじゃない。
でも、ちゃんと誰かに聞かれたことはなかった。
「……なんで、か」
口の中で、ゆっくり転がす。
いくつか理由は思い浮かぶ。
面倒だったとか、タイミングがなかったとか、環境がどうとか。
でも。
どれも、少し違う気がした。
「怖かったんだと思う」
気づけば、そう言っていた。
「本気でやって、ダメだった時にさ」
少しだけ、笑う。
「それで終わりな気がして」
逃げ道を、なくすのが怖かった。
だから、最初から本気にならなかった。
そうすれば、「やればできたかもしれない」って言い訳が残るから。
「……ダサ」
間髪入れずに返ってきた言葉に、思わず苦笑する。
「言うなよ」
「だってダサいじゃん」
あっさりとした口調だった。
悪意はない。ただ、思ったことをそのまま言っているだけ。
それが、妙に刺さった。
「でもさ」
続けて、少しだけ首を傾げる。
「それって、今も同じってこと?」
言葉が、少しだけ止まる。
今。
その一言が、やけに重く感じた。
視線を落とす。
テーブルの上には、さっき伏せたスマホがある。
画面は暗いままだった。
「……どうだろうな」
曖昧に、そう返す。
本当は、分かっていた。
変わっていない。
あの頃から、ほとんど何も。
「じゃあさ」
少しだけ身を乗り出してくる。
「やればいいじゃん」
簡単に言うな、と思った。
でも、その言葉は、不思議と軽くは聞こえなかった。
「今からでも」
続けて、そう言う。
「終わってないならさ」
その一言で、思考が止まる。
終わってない。
そんな風に考えたことは、なかった。
もう遅いとか、今さらとか。
そういう言葉ばかり、頭の中にあったから。
「……簡単に言うなよ」
小さく、そう返す。
「簡単じゃないのは分かるけど」
肩をすくめる。
「でも、やらない理由にはならなくない?」
まっすぐな目だった。
逃げ道を用意しない目。
少しだけ、視線を逸らす。
そのまま、テーブルの上のスマホに手を伸ばした。
画面をつける。
さっきの通知が、まだ残っている。
楽しそうな写真。
見慣れた名前。
少しだけ指を止めて。
――閉じることもできた。
いつもみたいに、見なかったことにして。
でも。
ほんの少しだけ、迷って。
画面を開いた。
文章を、ゆっくりと読む。
知らない場所の名前とか、見たことのない景色とか。
それでも、どこかで繋がっているような気がした。
指が、勝手に動く。
メッセージの入力欄が開く。
何を書けばいいのか分からなくて、一度止まる。
「久しぶり」と打って、消す。
また打って、少し考える。
その繰り返し。
「……何してんの」
呆れたような声が飛んでくる。
「うるせえな」
小さく返しながら、もう一度画面を見る。
深く息を吐いて。
短く、打ち込んだ。
送信ボタンの上で、指が止まる。
ほんの一瞬だけ。
それから。
押した。
小さな音が鳴る。
それだけだった。
何かが劇的に変わったわけでもないし、すぐに何かが始まるわけでもない。
でも。
ほんの少しだけ、空気が変わった気がした。
スマホの画面を伏せて、ソファに体を預ける。
天井を見上げると、さっきよりも少しだけ奥行きがあるように見えた。
「……なあ」
ぽつりと呟く。
「もう一杯、飲むか」
自分に言ったのか、君に言ったのか、よく分からないまま。
キッチンの方に立ち上がる。
背中越しに、少しだけ笑い声が聞こえた気がした。
「未成年だから飲めないって、さっき言ったじゃん」
グラスに氷を入れる。
さっきと同じ音が、また鳴る。
でも。
今度は、少しだけ違って聞こえた。
おわり




