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4話:冬

自分の将来はほんとに自分で決めたことですか?

千冬さんとは、塾で知り合った。


 正確には、最初から向こうは僕のことを知っていたらしいけど、ちゃんと話したのは後になってからだ。


「ここ、違う」


 初めて声をかけられた時、そう言って、僕のノートを覗き込んできた。


 少し冷たい声だった。


 でも、指摘は的確で、どこがどう間違っているのかを、無駄なく説明してくる。


 そのまま、当たり前みたいに隣に座って、問題の解き方を一通り教えてくれた。


「……分かった?」


 顔を上げた時にそう聞かれて、僕は曖昧に頷いた。


 本当は半分くらいしか理解できてなかったけど、聞き返す勇気がなかった。


「分からなかったら、ちゃんと聞いて」


 それだけ言って、また自分の問題に戻る。


 無駄なことを言わない人だった。


 でも、不思議と冷たい感じはしなかった。


 ただ、一直線に何かを見ているような、そんな印象だった。


 千冬さんは、いつも上位にいた。


 テストでも模試でも、ほとんど90点以下を取ったことがないって話だった。


 親が厳しいらしい。


 点数の話になると、少しだけ表情が固くなるのを、何度か見たことがある。


 それでも、勉強は続けていた。


 誰よりも長く机に向かって、誰よりも多く問題を解いていた。


 その姿は、ある意味で分かりやすかった。


 やれば結果が出る、っていう形をそのまま体現しているようで。


 ……でも、一つだけ、違うものがあった。


 秋人さんだった。


 同じ学校で、同じように成績が良くて。


 でも、決定的に違う。


 あの人は、余裕がある。


 千冬さんは、余裕がない。


 それが、見ていて分かった。


「……また負けた」


 模試の結果を見ながら、ぽつりと呟いたことがあった。


 声は小さかったけど、はっきり聞こえた。


「そんなに気にしなくてもいいんじゃないですか」


 何となく、そう言った。


 深い意味はなかった。


 ただ、その場の空気を軽くしたくて。


 でも。


「気にするに決まってるでしょ」


 即座に、返された。


 少しだけ強い口調だった。


「同じだけやってるのに、あっちはもっと上に行くんだよ」


 視線は、机の上に落ちたまま。


「……なんで?」


 その一言は、誰に向けたものでもなかった。


 たぶん、自分自身に向けていた。


 それ以上、何も言えなかった。


 僕には、分からなかったから。


 同じだけやる、っていう感覚が。


 そこまで何かに打ち込んだことがなかった。


 ある日。


 帰りに、たまたま見かけた。


 学校の駐車場の隅で、親と話している千冬さんを。


 声は抑えていたけど、言っていることは分かった。


「もっと効率よくやりなさい」


「○○くんは、そんなに時間かけてないでしょう」


 秋人さんの名前が、出ていた。


 比較されているんだ、とすぐに分かった。


 千冬さんは、何も言い返さなかった。


 ただ、黙って聞いていた。


 その横顔が、少しだけ歪んで見えた。


 ――ああ、きついな、って思った。


 でも。


 それだけだった。


 その後も、千冬さんは変わらなかった。


 相変わらず、遅くまで残って勉強していたし、点数も取り続けていた。


 ただ、どこかで、少しずつ削れている感じがした。


 張り詰めている、というか。


 余裕が、どんどんなくなっていくみたいな。


 秋の終わり頃だった。


 志望校を書く日。


 教室がざわついていた。


 みんな、どこを書くかで悩んでいる。


 僕は、適当に無難なところを書いた。


 深く考えたわけじゃない。


 どうせ、その通りにいくとも思ってなかったし。


 さっさと書いて提出して教室を出た。早く屋上でお昼を食べたかったんだ。


 ふと、興味がわいて3階の教室を見ると、千冬さんがペンを止めていた。


 珍しいな、と思った。


 あの人が迷うなんて。


 しばらくそのままで。


 やがて、何かを決めたみたいに、ゆっくりと書き始めた。


 その手が、少しだけ震えていた。


 数日後。


 結果が返ってきた。


 3階の空気が、ざわついてた。


 「なんだろう」


 千冬さんなら何か知ってるかもしれないと思って聞きに行った。


 千冬さんの紙に、大きく「D判定」と書かれていた。


 今まで見たことのない評価だった。


 周りが少しだけざわつく中で。


 千冬さんは、その紙を静かに見つめていた。


 驚いている様子は、あまりなかった。


 むしろ、どこか落ち着いているようにも見えた。


 その日の帰り。


 駐車場で、親と向き合っているのを見かけた。


 偶然、少し離れたところにいただけだったけど、声は聞こえた。


「なんでこんなところ書いたの」


 当然の疑問だったと思う。


 D判定の志望校なんて、普通は書かない。


 リスクが高すぎる。


 少しだけ、間があった。


 それから。


「私、そこに行きたいから」


 はっきりと、そう言った。


 声は震えていた。


 でも、目は逸らしていなかった。


「……理由は?」


「勉強したいことがあるから」


 短く、それだけ。


「でも、そこは――」


「分かってる」


 今度は、遮った。


 あの千冬さんが、人の言葉を遮った。


「分かってるけど」


 少しだけ息を吸う。


「誰かに勝つためじゃなくて」


 言葉を選ぶみたいに、ゆっくりと。


「自分がやりたいことを、ちゃんとやりたい」


 静かな声だった。


 でも、逃げていなかった。


「……それじゃダメ?」


 最後の一言だけ、少しだけ弱くなった。


 でも、それでも。


 自分で選んだ言葉だった。


 しばらく沈黙があって。


 その後、何が話されたのかは分からない。


 僕は、その場を離れたから。


 ……見ていられなかった。


 たぶん、あの瞬間。


 あの人は、自分で選んだんだと思う。


 今までずっと、誰かの基準で生きてきて。


 初めて、自分の基準で。


 怖かったはずだ。


 親との関係が壊れるかもしれない、今まで積み上げてきたものが無駄になるかもしれない


 でも、それでも選んだ。


 僕は、できなかった。


 選ぶっていうこと自体が、怖かった。


 失敗した時に、それが全部自分の責任になるから。


 だったら最初から、選ばなければいい。


 そうやって、逃げてきた。


 その差が、たぶん全部なんだと思う。









 グラスに、精気の抜けたどうしようもない男の顔が映っている。”僕”だ。


「……あの人はさ」


 小さく呟く。


「ずっと、誰かと比べて生きてたんだよ」


 でも。


「最後は、自分で決めた」


 それだけで、十分だったんだと思う。


「――で、僕は」


 言葉が、少しだけ詰まる。


「結局、何も選ばなかった」


 静かに、そう言った。


 新しく入れた酒を飲み干す。


 氷は、もう完全に溶けていた。


 ぬるくなった酒が、喉を通っていく。


 少しだけ、苦かった。


 テーブルにグラスを置いて、ゆっくり息を吐く。


 視線を上げると、君はさっきと同じように、黙ってこっちを見ていた。


 その目が、少しだけ痛かった。


「なあ」


 少しだけ笑う。


「どう思う?」


 自分でも、何を聞いているのか分からないまま、言葉が出る。


「同じとこにいたはずなのにさ」


 小さく、肩をすくめる。


「なんで、こんなに違うんだろうな」


 答えは、たぶん分かっている。


 でも、それを口にするのが、少しだけ怖かった。


 部屋の中に、静かな時間が流れる。


 時計の音だけが、やけに大きく聞こえた。

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