3話:秋
もう1人の自分を、ちゃんとみてますか?
秋人先輩は、最初から「できる人」だった。
同じ図書委員になったのがきっかけで話すようになったけど、正直、最初は少し苦手だった。別に嫌な人ってわけじゃない。ただ、あまりにも自然に何でもこなすから、どこか現実味がなかった。
「これ、やっといたよ」
気づけば仕事は終わってるし、説明も分かりやすい。誰に対しても穏やかで、押しつけがましくもない。なのに、周りからの信頼はやけに厚い。
……ずるいな、って思った。
僕は、同じことをやろうとしても、どこかで引っかかるのに。同じ男なのに。
「まあ、そんなに難しく考えなくていいよ」
僕が作業で手間取っていると、そう言って軽くフォローしてくる。
その「難しくない」が、こっちにとっては難しいんだけどな、と思いながら、適当に笑ってごまかした。
秋人さんは、勉強もできた。
難関大の判定も、ずっとAを取っているって話だった。本人はあまりそのことを口にしなかったけど、周りが勝手に言っていた。
「すごいっすね」
一度、そう言ったことがある。
そしたら、少しだけ困ったように笑って、
「別に、大したことじゃないよ」
って返してきた。
本気でそう思ってる顔だった。
たぶん、この人にとっては本当にそうなんだろう。
努力してる感じも、あまりなかった。少なくとも、俺の目にはそう見えた。
要領よくやって、結果を出す。
そういう生き方が、最初からできている人だった。
……だから、少しだけ安心していた。
ああいう人は、僕とは違う世界の人間だって、勝手に線を引けたから。
でも。
それが崩れたのは、秋だった。
「……さすがにやばいか」
図書室で、ぽつりとそんな声が聞こえた。
珍しく、秋人さんだった。
机の上には、模試の結果が置かれていた。
ちらっと見えた数字に、一瞬で違和感を覚えた。
「E判定、ですか?」
思わず聞き返してしまった。
いつもAだった人が、E。
そんなこと、あるのかと思った。
「あ、うん。ちょっと、ね」
苦笑いしながら、紙を伏せる。
「初見の問題が全然ダメでさ。時間も足りなくて」
口調はいつも通りだったけど、どこか力が抜けていた。
「まあ、たまたまだと思うけど」
そう言っていた。
その時は、本当にそう思っていたんだと思う。
でも。
それからしばらくして、図書室で見かけなくなった。
最初は、ただ忙しいのかと思っていたけど、日が経つにつれて、それが違うと分かった。
ある日、用事があって職員室に行った帰り、偶然見かけたんだ。
廊下の端の方で、壁にもたれかかっている秋人さんを。
顔は見えなかったけど、手に持っていた模試の紙が、くしゃくしゃになっていた。
声はかけなかった。
……かけられなかった、の方が近いか。
ああいう姿を見てしまうと、何を言えばいいのか分からなくなる。
しばらくして。
また図書室に来るようになった。
ただ、前とは少し違っていた。
机の上には、分厚い参考書が積まれていて。
ページの端は折れてるし、書き込みも増えている。
同じ問題を、何度も何度も解いているのが分かった。
前みたいな「さらっとやって終わり」じゃない。
時間をかけて、引っかかりながら、進んでいる感じだった。
「……珍しいですね」
思わず、そう言った。
秋人さんは少しだけ顔を上げて、
「そう?」
って笑った。
その笑い方も、前とは少し違って見えた。
「まあ、できないものはできないって分かったからさ」
ペンを回しながら、口を突き出してぽつりと言う。
「だったら、できるようになるしかないよね」
あっさりした言い方だった。
でも、その裏にあるものは、たぶん軽くなかった。
それからは、本当に変わった。
夜遅くまで残っていることも増えたし、分からない問題を先生に聞きに行く姿も見かけた。
効率とか要領とか、そういうものよりも、目の前の一問に時間をかけるようになっていた。
正直、少し驚いた。
あの人が、そんなやり方をするとは思ってなかったから。
……でも、同時に思った。
ああ、この人は、ちゃんと向き合える人なんだな、って。
できない自分から、逃げないでいられる人。
僕は、できなかった。
できないって分かった瞬間に、目を逸らした。
見なかったことにして、別のところに行った。
その差が、たぶんそのままなんだと思う。
「大変そうですね」
そう言った時、
「うん、大変だよ」
って、あっさり返ってきた。
少し笑いながら。
「でも、まあ……悪くない」
そう続けた。なんだか……楽しそうだった。
その言葉が、やけに印象に残っている。
大変なのに、悪くない。
そう思えることが、たぶん大事なんだろうな、って。
……僕には、分からなかったけど。
結果は、ちゃんと出た。
志望校に、合格したらしい。
直接聞いたわけじゃないけど、周りが騒いでいたから分かった。
まあ、そうだろうな、って思った。
あれだけやってれば、当然だよねって。
……そうやって、納得したふりをした。
グラスの氷は、ほとんど形を失っていた。
「……あの人さ」
少しだけ、息を吐く。
「ずっと、何でもできる人だと思ってた」
でも違った。
「できない自分も、ちゃんと受け入れられる人だった」
それだけの話だ。
「――で、僕は」
言葉を切る。
「見ないふりして、終わり」
短く、そう呟く。
飲み終わったグラスに、水を入れる。
「次で最後だな。冬の話ね。」
水を一気に飲み干し、ゆっくりと息をついた。




