2話:夏
好意を伝えるのは、勇気がいるし、大変ですよね
夏希は、うるさいやつだった。
いや、悪い意味じゃないんだ。あいつがいると、場が勝手に明るくなるというか、静かにしていようと思ってても無理やり巻き込まれる感じの、ああいうタイプだ。
「先輩、今日ヒマっすよね!」
初めてちゃんと話したのも、そんな一言だった気がする。
僕がもう陸上部をやめたあとで、グラウンドの端をなんとなく歩いていた時だった。練習終わりの部員たちの中から、汗だくのままこっちに走ってきて、いきなり話しかけてきた。
「ちょっとフォーム見てほしいんすよ。なんかしっくりこなくて」
断る理由も特に思いつかなくて、気づけば付き合っていた。
走り方を見て、気になったところを少しだけ言うと、あいつは目を輝かせて何度も同じ動きを繰り返した。
「おお、なんか今のよかった気がする!」
その無邪気さが、少しだけ眩しかった。
僕は、もうそこには戻れなかったから。
それから、たまに話すようになった。グラウンドの端で、帰り道で、コンビニの前で。内容はどうでもいいことばっかりだったけど、あいつはいつも楽しそうに笑っていた。
「一回きりのJKっすよ?楽しまないともったいないじゃないですか」
口癖みたいに、そう言っていた。
実際、その通りに生きてたと思う。大会前でも平気で遊びに行くし、夜更かしもする。練習も、やる時はやるけど、どこかで手を抜いているのが分かった。
それでも、そこそこの記録は出す。
才能、ってやつなんだろうなと思った。
……少しだけ、羨ましかった。
僕は、ああいう風にできなかったから。
やるならちゃんとやらなきゃいけない気がして、でもそれができなくて、結局やめた。
中途半端が、一番嫌だった。
だから、あいつの中途半端さは、どこかで見ていて安心する部分もあった。
――ああ、自分だけじゃないんだ、って。
「でもさ、あの人はすごいっすよね」
ある日、夏希がそんなことを言った。
視線の先には、トラックの外側でストレッチをしている女子がいた。
同級生らしい。
「あの人、怪我してるのに、毎日来てるんすよ。リハビリ、めっちゃ地味なのに」
確かに、走ってはいなかった。ただ黙々と、同じ動きを繰り返している。
「また跳びたいんだって。すごくないですか?」
夏希は、少しだけ真剣な顔でそう言った。
その表情が、いつもと違って見えた。
数日後だった。
部室の近くを通りかかった時に、偶然聞こえてしまったんだ。
「……厳しいかもしれないって」
多分、あの子の声だった。
小さくて、はっきりとは聞こえなかったけど、言っていることは分かった。顧問の先生と話してたんだ
ろう。
少し時間が経って、あの子が一人で立っていた。
うつむいて、肩を震わせて。
声は、出していなかった。
でも、泣いているのは分かった。
――ああ、そりゃそうだよな、って思った。
あれだけやって、それでもダメかもしれないなんて言われたら。
その場を、なんとなく離れた。
見ちゃいけないものを見た気がして。
その日の帰り道。
珍しく、夏希が黙っていた。
「……さっきの、聞きました?」
ぽつりと、そう言った。
たぶん、同じものを見ていたんだと思う。
僕は、曖昧に頷いた。
「なんか~」
少しだけ笑って、それからすぐにその表情が消える。
「あんなに頑張ってる人が、報われないこともあるんだなって思って」
言葉を選ぶみたいに、ゆっくり続ける。
「なのに、私は」
足元を見ながら、小さく息を吐く。
「適当にやって、そこそこ結果出して、満足してて」
そこで、少しだけ顔を上げた。
「なんか、気持ち悪くなっちゃって」
その言葉は、冗談じゃなかった。
本気でそう思っている顔だった。
「……だから」
少しだけ間が空く。
「ちゃんとやろうと思うんです」
その一言が、やけに重く聞こえた。
「戻ってくる場所、なくなったら嫌じゃないですか」
あの子のことを言っているんだと、すぐに分かった。
「それに、代わりにでもいいから、全国行きたいなって思ったんです」
いつもの軽い調子じゃなかった。
逃げ道を残さない言い方だった。
それからの夏希は、別人みたいだった。
放課後、誰よりも遅くまで残って、何度も何度も同じ動きを繰り返す。筋トレも、吐きそうになりながらやっていた。
前は笑ってサボってたようなメニューも、黙ってやる。
顔つきも、少し変わった気がした。
……正直に言うと、怖かった。
あそこまで本気でやるっていうのが。
「先輩も、来ます?」
ある日、軽い調子でそう言われた。
たぶん、深い意味はなかったんだと思う。
ただ、一緒にやろうって、それだけ。
でも。
その一言に、答えられなかった。
少しだけ、考えるふりをして。
「……いや、いいや」
適当な理由をつけて、断った。
その瞬間、自分でも分かった。
ああ、無理だな、って。
あの場所には、戻れない。
あの本気の中には、入れない。
「そっすか。じゃあ、また今度!」
夏希は、いつも通り笑っていた。
でも、その「今度」は、結局来なかった。
僕から、行かなかったから。
気づけば、話す機会も減っていって。
グラウンドにも、あまり近づかなくなった。
……少しだけ、好きだったんだと思う。
あの、まっすぐなところとか。
笑ってる顔とか。
でも。
あいつが前に進めば進むほど、距離が開いていく気がして。
そのうち、見ないようにした。
本番の日。
遠くから、結果だけ聞いた。
夏希は、ちゃんと結果を出していた。
詳しい順位は覚えてないけど、少なくとも「そこそこ」じゃなかったのは確かだ。
……すごいな、って思った。
それだけだ。
グラスの中の氷が、小さく音を立てる。
「……あいつさ」
少しだけ笑う。
「楽しいことしか見てないやつだったんだよ」
昔は。
「でも、ちゃんと“先”を見るようになった」
明日じゃなくて、その先の未来を。
「――で、僕は」
言葉を切る。
「その場から、逃げただけ」
誰に言うでもなく、そう呟く。
グラスを傾けて、残りを飲み干す。
「次は、秋の話だ」
空になったグラスをテーブルに置いて、少しだけ目を閉じた。




