1話:春
行動あるのみ
春香は、昔から「いい人」だった。
中学の時から誰にでも優しくて、頼まれごとを断れなくて、いつもどこかで誰かのために動いていた。学級委員長なんて役も、たぶん自分からやりたいって言ったわけじゃない。気づいたら周りに押されて、引き受けていたんだと思う。
でも、本人はそれを嫌がるでもなく、ただ「仕方ないよね」って笑っていた。
……僕は、そういうところが、少しだけ苦手だった。
優しいのに、どこか自分がないように見えて。いや、本当はあったのかもしれないけど、それを外に出すのが下手だったのかもしれない。
ちょうど、その頃だよ。文化祭の準備が始まったのは。
うちのクラスは、演劇をやることになった。決めたのはクラスの中心にいるやつらで、春香もそこにいたけど、たぶん流れでそうなっただけ。台本を書いたのは、春香の友達の子で……あの子は、すごく大人しいやつだった。普段はほとんど喋らないくせに、その劇のことになると、目の色が変わる。
夏休み、ほとんど毎日学校に来てたらしい。
僕は一回だけ、それを見たことがある。誰もいない教室で、一人でノートに何かを書き続けている背中を。
声はかけなかった。
……かけられなかった、の方が正しいかもしれないけど。僕ってほら、シャイだし。
文化祭が近づくにつれて、クラスは少しずつまとまっていった。放課後に残って練習したり、小道具を作ったり。僕も一応そこにはいた、一応。いたけど、別に何かしてたわけじゃない。ただ言われたことをやって、終われば帰るだけ。
それでも、あの時間は嫌いじゃなかった。
ずっと、こういうのが続けばいいと思っていた。
――あの日までは。
「え、うそ……でしょ?」
誰かの声が、やけに大きく教室に響いた。
放課後だった。衣装や小道具を保管していた教室の窓が割れていた。中に入ったら、ぐちゃぐちゃだった。
衣装は泥で汚れてるし、小道具もいくつか壊れてる。たぶん、前日に来てた台風のせいだろう。うちの校舎は予算不足で古かったんだ。
「もう無理じゃない?」
「時間もないしさ、展示に変えた方が現実的じゃね?」
「つーか中止でもよくない?」
そんな声が、次々に上がる。
誰も責める気力もなくて、ただ「仕方ないよな」って空気が広がっていく。
僕も、同じことを思っていた。
――もう、無理だろ。
ここから全部作り直すなんて、現実的じゃない。だったら、別の形に変えた方がいい。そういう判断は、たぶん間違ってない。
だから、何も言わなかった。
言う理由も、なかったし。
その時だった。
教室の隅で、小さく肩を震わせているやつがいるのに気づいたのは。
あの、台本を書いていた子だった。
ノートを抱きしめるみたいにして、顔を伏せていた。声は出していないのに、泣いているのが分かった。
……ああ、そりゃそうか、って思った。
あれだけ時間かけて、作ったものだ。簡単に「やめよう」なんて言われたら、そりゃ、泣くよな。僕だってそうする。いや、かっこ悪いから泣かないかも。
でも。
だからといって、どうしようもない。
現実は変わらないし、時間も戻らない。
――そう思って、目を逸らした。
「……待って」
その声は、小さかった。
でも、不思議と教室が静かになった。
春香だった。
少しだけ震えている声で、それでも、はっきりとそう言った。
「まだ、やめるって決まったわけじゃないよね」
「いや、でもさ――」
「時間がないのは分かってる。でも」
言葉が、一瞬詰まる。
それでも、春香は続けた。
「この劇のために、ずっと頑張ってきた人がいるの、知ってるでしょ」
視線が、あの子の方に向く。
「夏休み、ずっと学校来てたの、私見てた。誰もいない教室で、一人で書いてて……」
そこで一度、息を吸う。
たぶん、怖かったんだと思う。
ああいう場で、みんなに逆らうのは。
それでも。
「だから、やめたくない」
はっきりと、そう言った。
「衣装がダメなら、代わりになるもの探せばいいし、小道具だって、作り直せるところは作り直そうよ」
「いや、でも現実的に――」
「現実的じゃなくてもいいから」
今度は、遮った。
あの春香が、人の言葉を遮った。
「やりたい」
それだけだった。
でも、その一言が、やけに強く聞こえた。
教室の空気が、少しだけ変わる。
誰もすぐには動かなかったけど、さっきまでの「もういいや」みたいな空気は、確実に消えていた。
春香は、そのまま教室を飛び出した。
どこに行くかも言わずに。
「……あいつ、マジかよ」
誰かが小さく呟く。
その数秒後。
「ちょっと、見に行くか」
「手伝うなら手伝うし」
そんな声が、ぽつぽつと出始める。
気づけば、何人かが教室を出ていった。
残ったやつらも、「じゃあこっちはこれやるか」みたいに動き出す。
完全に止まっていた時間が、もう一度動き出したみたいだった。
……僕は、その場に立ったままだった。
動けなかった。
いや、動かなかった。
どっちでも、同じか。
何をすればいいのかわからなかったんだ。
結局、その劇は形になった。
衣装はバラバラで、最初に用意してたものとは全然違ったし、小道具も簡素になった。でも、不思議と、それが悪いとは思わなかった。
本番の日。
カーテンコールで、あの子が泣きながら頭を下げていて。
その隣で、春香が少しだけ照れくさそうに笑っていた。
ああ、よかったな、って思った。
本当に、それだけだ。
すごいな、とか、かっこいいな、とか。
そういうのは思ったけど。
――それだけだった。
あの時。
最初に「待って」って言うこともできたはずなのに。
教室を飛び出して、何か探しに行くこともできたはずなのに。
僕は、何もしなかった。
ただ、見ていただけだった。
グラスの中の氷は、もうほとんど溶けていた。
「……あいつさ」
ぽつりと呟く。
「優柔不断だったんだよ、昔は」
少し笑う。
「でも、あの日から、変わったんだと思う」
誰かのために、ちゃんと決めて、動けるやつに。
「――で、僕はっていうと」
言いかけて、少しだけ言葉を切る。
「まあ、見ての通りだよ」
無精ひげ、しわくちゃのワイシャツ、アイロンがけしていないスーツ……
肩をすくめて、新しく入れた酒を飲み干す。
「次は、夏の話だ」
そう言って、空になったグラスを軽く揺らした。




