セキノ
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国内外の文献データベースで調べたところ、大月がルネに作用する可能性についての文献がいくつかヒットした。
無知は罪だ。背もたれに身を預けて深く息をついた。知っていたらセキノを囮にするようなことはしなかったかもしれない。
無駄に生きてきているな。何年生きてこようとも知らないことばかりだ。文献をプリントアウトしファイルに入れてバッグに押し込んだ。
そして、あのときは混乱していて気が付かなかったが、今使えるシステムは今見えている月が持つものだけだ。裏側にある月のシステムは使えない。後にアクセスしてみたところ、使用されていたのは私から見えていた月のものだけだった。つまり、自分の近くに使用者がいる。それは少なからず私を困惑させた。
使用者のログも残しておけよ。沈黙を続けるシステムに悪態をついて月を見上げた。
ダイス・フェロニゼはテレドラクカイドウ大陸の隣、デント大陸の内陸に位置する山間部のナルセスパ村出身だった。
ナルセスパは自然豊かな村だ。大月信仰の地域としても知られており、自然との結びつきは保護区域近隣にあるウリュウよりも強い。彼は幼い頃野山で育ち、夜は星を見て昼は風と戯れて過ごしてきたのだろう。大月の波動がルネに作用することも、原理などは分からなかっただろうが、自然とそういう現象もあるものだと学んだに違いない。
ダイスは幼い頃に父親を亡くしており、働く母の代わりに祖父母に育てられた。その母も働き過ぎがたたって体をこわし、彼が中学生の時に死亡。一時期はふさぎこんでいたダイスだったが、特に深刻な問題を起こすことなく成長し、大学を出て就職をした翌年、祖母が死んだ。祖父の方はその五年前に死亡している。その二年後、会社の上司に仕事のミスを押しつけられ辞職を余儀なくされている。そこから彼の人生はおかしくなっていった。再就職先でもなかなうまくいかなかったようだ(その原因は不明だ)。
酒に飲まれるようになり、それが原因で暴力事件を起こした。出所後すぐに窃盗事件を起こし、それが常習化していた。それから数年間消息不明になっている。そして、今回の一連の事件。
これらの犯罪のためにダイスが密かにルネを鍛えていたのは確かだ。それほどの気概があるのであれば、もう少しまともな人生を歩めたものを。
だが境遇の不憫さが犯した罪の免罪符になることはない。報告書から目を離してコーヒーを一口飲む。
セキノはというと、医療スタッフの献身的な努力のおかげで、奇跡的に息を吹き返した。もともと精神力の強い人間だったのだろう、脳への障害は最低限で済んだ。言葉が出にくくなる場合があるらしいが、現在普通に会話する分にはなんの問題もない。
ヤッタと共にお見舞いに訪れると、彼女は白い鉄パイプのベッドの上で、静かに微笑んでいた。もともと色白ではある顔がさらに白くなっている気はするが、いつもどおりの笑顔に少しだけほっとする。
「セキノン、元気になってよかった!」
「うふふ。ありがとう。ヤッタちゃん」
セキノがヤッタの頭を撫でる。
「思ったよりも元気そうでよかった。これ、食べてください」
ベッドに取り付けられた簡易テーブルの上に、イチゴとサクランボのパックを置く。お見舞いといったらメロンかなと思ったが、ナイフいらずで簡単に食べられるものをと、その二つを選んだのだ。
「わざわざありがとう。こんな状態でごめんね。まだ体がうまく動かせなくて。でも上半身はこんなに元気なんだから」
リクライニングを動かして上半身を起こし、セキノが細い腕に力こぶを作る仕草をして笑って見せた。確かに外見では元気に見える。しかしだからといって、全てが元の通りとは限らない。
セキノの足は度重なる強制的な物体転移のルネの影響で、膝下からの細胞が壊死していた。救急車で病院に搬送されてすぐ、意識のない状態で両足の切断手術が行われた。
体にかけられたシーツ。
その膝から先の膨らみをなくした有様に、かける言葉が見つからなかった。わずかに開けた窓から風が吹き込んでカーテンを揺らす。白すぎる病室に軽くめまいを覚えた。
「大変だったわね、今回の事件」
まるで人事のようにセキノが言った。
「大変、でしたね」
大きく息を吸い込んでようやく言葉を返す。
「いつ頃退院できるんですか」
「わからないわ。でもね、体中あちこちが損なわれたのに、不思議と痛みはそんなにないの。なんででしょうね。私、いつまででも生きられるんじゃないかって気になるわ」
「セキノンはすぐに元気になるよ! そしたら一緒に遊ぼう! ウエハースも一緒に食べよう!」
「そうね」
セキノは柔らかい笑顔でヤッタの頭を撫でた。白い顔に頬はほんのりと朱鷺色に染まっている。顔も声も事件前とはまるで別人のように穏やかだ。天使がいるのならきっとこんな感じなのだろう。
「アンスール、あなたなんて顔しているの」
「え」
思わず頬に手を当てる。それから、窓に映りこんだ自分の顔をまじまじと見た。
「なんて言ったらいいのかわからない、って顔してる」
「そりゃ、あ、そうですよ」
目に見えないだけで、セキノの内臓はぼろぼろだった。物体転移のルネのせいで腎臓はひとつが消滅し、右肺の半分が潰れていた。小腸も一部が壊死。心臓にも負担がかかったのだろう、不整脈の上に脈拍が弱まっていた為、足の手術と同時にペースメーカーが埋め込まれた。
こういう場合なんて言うべきなのだろう。
頑張って。大丈夫。元気出せ。どれもこれも白々しい。
「私、こんな体でも十分幸せよ。だって、生きているんだもの。こうやって色々なことが不自由になって、改めて生きていることのありがたさを知ったわ。これからもっと幸せに生きていける」
セキノが下腹部に手を当てる。そこにももうなにもない。子宮も卵巣もダイスのルネの影響で粉々にちぎれていたので摘出したのだ。
「足は動かなくてもできる仕事はあるし。局内のネット監視とか、メールの内容監視とか」
「まだ仕事をするんですか」
驚きのあまり、責めるような言葉が口をついてしまった。
「そうね」
「セキノンは働きものだね」
ヤッタが暢気な声を上げる。セキノがそうよと楽しそうに笑った。
どうして笑っていられるのだろう。そんな体になったというのに。不思議で仕方がない。




