別離
「それが人の声だと気がつくのに数秒かかった。歌声とは全く違っていたから。今にも降り出しそうな、曇り空から下りてくる空気のような、頭上遙か高いところにありながらも重たく低い、女性か男性か判断つきかねる声をしていた」
と、あの時の出会いを思い出してエルスに言われた。
エルスと出会ってから何年が経ったかな。
初めて出会った時のことを思い出しながら、最後の人間の心臓を貫いて、私はゆっくりと瞼を押し上げた。
エルスからは色々なことを教わった。
敬語の使い方、人との接し方、挨拶の仕方、正しい橋の持ち方、笑い方。
エルスは私の父親であり友人であり、おそらく初恋の人だった。年下だけど。
真昼の太陽が照らす中、冷たくなった象の傍らで、人間たちは折り重なるようにして血を流し絶命していた。頭蓋を打ち抜かれた者。心臓を貫かれた者。死体を見れば即、そのどれもが即死だろうと推測できる。
死体の散乱した荒野は、わずかに生えた草をなびかせる風ひとつ吹かず、恐ろしいほどに静かだ。死体から滴り落ちた血液がまだ緑の薄い初々しい若葉を赤く汚し、汚されたことを恥じるように彼らは頭をもたげた。やがて血がさらにそこから滑り降り、乾いた土を黒く濡らす。
汚れていく。こうやって汚されたものがまたほかの誰かを汚して、その不浄の連鎖でやがて世界はすべて汚れていく。大切な人を殺された人が殺した人間を殺し返して、やがて世界からは誰もいなくなっていくみたいに。
すっかり冷たくなってしまった腕の中の死体を草原に横たえる。血は出尽くしたのかもう流れないどころか赤黒く変色してゼリー状に固まりかけている。
私は開いた瞼を再び閉じた。この世界の全て、なにも見なかったことにしたい。でも見なかったからといって世界は変わらない。
太陽の残像が残る薄暗い瞼の裏を見つめていると、遠く空から甲高い鷹の鳴き声が聞こえてきた。死肉を見つけたので仲間を呼んでいるのかもしれない。これだけ量があれば、数十羽の群が満腹になるまで食べてもまだ余るだろう。
まだ暖かい腹を引き裂き、湯気が立ち上る内臓から食べ始める彼らを想像する。内臓は柔らかく栄養豊富だ。新鮮な五つの死体。こんな人間でも誰かの腹を満たすことができるとは光栄なことだと思う。
「アンスール」
ふいに名前を呼ばれたことで思考が遮断した。
「大丈夫か、アンスール」
肩に手を置かれた。その手の重みで我に返る。返る我がいたことに安心して、同時に目を開けて傍らにいる中年の男を仰ぎ見た。私の顔を見た男が少しだけ悲しそうに微笑んだので、なんのことかと首を傾げた次の瞬間にはっとして口に手を当てた。案の定口角が持ち上がっていたことがわかって、慌てて口を真一文字に結ぶ。
「私は迷うべきではなかった」
言い訳のようにそう言って、肩に乗せられた手から逃れて前に立ち上がり一歩進み出る。足下で小石が小さく音を立てた。
改めて死体の山に目を向ける。もしかすると生存者がいるかも知れない。そう思ってしばし見つめていようとも、誰一人として動かない。
「すぐにやるべきだった」
私の言葉に隊長はなにも反応しない。
「これでは無駄死にだ」
「アンスール」
シキが強く名前を呼ぶ。遮られた言葉は行き場をなくして喉の奥に消えて行った。
少し風が吹いてきた。動く気配もなく横たわる肉体とは対照的に、その物体から生えた軽やかになびく髪を見て、とてつもない虚無感を覚えた。こいつらは確かに死んでいる。もう彼らは世界から影響を受けることはあっても、世界に影響を及ぼすことはない。はずなのに。
肩まで伸びた黒髪を突風がかき乱す。
「お前のせいじゃない」
本心か慰めか、シキは幾度となく発してきた言葉を今また再び口にした。幾度となく聞いてきた、むしろ聞き飽きた言葉だった。
そうなのだろうか。私のせいではないのだろうか。そうかもしれない。心の中で強く言い聞かせる。私のせいではない。仕方ないこと。この現象もエルスが死んだのも仕方のないこと。
風が死者の臭いを運ぶ。血生臭くて吐き気がしそうだ。そしてその中に混じる獣の臭い。数体ある人間の死体の近くで横たわる象の遺骸は、風が吹いても体の一部とて動かない。細いしっぽですら知らん顔だ。
私は象に近づいて、その落ち窪んだ眼窩に手を当てた。半開きのまま息絶えている真黒い象の瞳を見ていると、静まったはずの怒りに再び火が点るのを感じる。
己の欲のために動物たちや、時には同族の人間ですら殺す密猟者たち。彼らを殺してしまったことにわずかな罪悪感を感じていたが、冷静を挟んだ今はそれが錯覚だったとわかる。
この気の沈みは人を殺してしまったことからくる罪悪感ではなく、自分をコントロールできないことへのふがいなさや情けなさからくる落胆や絶望、そして諦めだった。その証拠に、光が彼らの心臓を貫く瞬間、確かに心が晴れたのだから。八つ当たりも甚だしい自分に少し笑う。
彼らは金のために、たくさんの動物の命を消してきたのだ。即死なんて生ぬるい方法じゃなく、もう少し苦しめてから殺してもよかったかもしれない。苦しめ抜いて、地獄を見せて、救いなんてないと思い知らせてから殺す方法も、あるいはあったのではないだろうか。
『モクひョウ補そく、既に生命反ノうなシ。しすテム作どうしま、』
「作動しない」
鼓膜の内側で聞こえてき声に即座に抵抗した。好き勝手に騒ぎだす声に耳を塞ぐも、声は体の中から響いてくる。
『サ動しまスか』
「目標はもう死んでいる。作動しない」
「アンスール」
シキが焦ったように名前を呼ぶ。私は首を上下に振って彼に手のひらを向けた。
「大丈夫です」
『サ動シ……』
「停止する!」
停止だ。作動しない作動しない作動しない静まれ静まれ静まれ。いい、大丈夫だ、作動しなくても大丈夫。心の中で大声を張り上げる。そうだ、大丈夫、落ち着け、自分。
『了解、システム、停止しまス』
甲高い電子音を響かせて、鼓膜の内側の声がやむ。ほっとして思わず胸に手を当てて大きく息をついた。
そうだ、停止だ。いい、そのままでいい。大きく肩で息を吐いて、再び目を開く。
「大丈夫か」
シキが心配そうに私の顔をのぞき込む。大丈夫ですと言って私は彼から目を逸らした。
深呼吸をしてから鼓膜の底に集中して音を探る。一秒、二秒、三秒……。それからしばらく反応を待つ。大丈夫。もうなにも聞こえない。
私は安堵のため息を付いて、私より少しだけ背が高くて、私よりかなり心配性な隊長を見上げた。
「象の方はどうしましょう」
「やられたのは鉛弾か」
象の傷口を指でなぞり、シキがため息をついた。
「まだ使っているやつがいるんだな。鉛弾ならここにおいて置くわけにはいかない。まずは施設に運ぼう。死骸を欲しいって言う研究室とか大学とか色々あるだろうしな。動物の方は俺たちの権限でどうにかできるが……こっちはな」
シキが人間の死体を横目で見た。
「密猟者の方は警察が来るまで動かせませんね」
「そうだな。いつも通り置いておくしかない。捜査局の現場検証まで綺麗なままでいられるといいけどな」
円を描いて空を舞う鷹を見上げて、シキが皮肉な笑みを浮かべた。
「早く俺たちにどけって言っているみたいだな」
「実際、無駄に腐り落ちるよりも誰かの血肉になった方が浮かばれるでしょう。ま、象の方は鉛弾ですし、食べられる前に回収しないといけませんね」
なにより今回は人間の死体があるから、肉ならそっちを食べればいい、と言った私の言葉を隊長は無視した。
「本営に連絡して応援を呼んでくれ。鷹に食われる前に象の遺体を保護しなければ。……俺はエルス隊長の蘇生を試みる」
無理ですよ。シキの背中を見て心の中で叫ぶ。
エルスは死んでいます。私の判断が遅かったせいで。私が敵をすぐに殺さなかったせいで。私が躊躇したせいで。
密猟者を補足した時点で殺しておけば、エルスは生きていた。
発狂しそうになる自分を押しとどめて、私は携帯電話を取り出した。鼓膜の内側からの声はもう聞こえない。聞こえてくるのは外側からの電話のコール音。
システムは完全停止したのだろう。安心しろ、自分。これでもう大丈夫。
大丈夫。
大丈夫?
本当に?
もう動かないエルスを見下ろした後、鋭い鷹の叫びに私は奥歯を噛み締めて再び空を見上げた。




