フルーツ牛乳のうた
「あれ、リア。どうし」
「どうしたもこうしたもないっ!」
窓を震わせるほどの大声に一瞬にして食堂内が静まり返る。大人二人とそれにヤッタまでもが、口を半開きのまま目を丸くしてリアを見上げる。
「やめるなんて聞いてないっ!」
黒く長い髪を逆立ててリアが詰め寄ってきた。
なんだそのことか。もしや引継で彼女に迷惑をかけてしまったのかと咄嗟に思ったのだが、そもそも獣医師である彼女に引き継ぐ仕事などない。ノエルロードがとりあえず落ち着けと椅子を勧めてリアを座らせる。
辞めることを相談したのはシキ隊長だけで、所長は盗み聞き、ノエルロードは所長から聞いたという形で、まだ正式に決まったわけではなかったから、他の人には話していない。そう言ってもリアの興奮は収まらなかった。鼻息を荒くし目を血走らせて私を睨んでいる。
「あなたが辞めたら保護区の治安はどうなるのよ!」
「いや、私が辞めた程度でなにも変わらないよ。隊には新人が入るだろうし。それにシキ隊長だっているし」
「あんなふにゃっとした隊長に人なんて殺せるもんですか!」
その言葉にノエルロードが目を丸くする。保安官は密猟者を駆除する仕事ではあるが、人を殺す職業でなわけではないのだが。なにを言おうともリアの怒りは収まらず、ダンと盛大な音を立てて拳をテーブルに打ち付ける。その振動でテーブル上に鎮座していたヤッタの尻が浮く。リアに向いたその目と口は、大きく開いたままふさがらない。
「あー、俺、退散した方がいいかな」
ノエルロードが椅子から立ち上がる。
「あなたも職業紹介なんてしてんじゃないわよ! いい痔の薬教えてあげたのに、恩を徒で返すとはこのことね!」
私とヤッタ、そして話を聞いていた周囲の人間の目線が同時にノエルロードの尻に向く。
「ノエルロード捜査官、あなた痔だったんですか」
椅子からわずかに尻を浮かせた中腰状態でうろたえきょろきょろと辺りを見回すノエルロードを、周囲が慈愛の目でもって見つめる。
え、いや、おい、と私とリアを交互に見ながら、彼は水を掻くように両腕で宙をまさぐり、頭を下げて声を潜めた。
「大声で言うなよ……。だいたいおまえに教えてもらったんじゃなくて、イセザキ先生に教えて貰ったんだよ」
「ねぇ~、アンスルちゃん。ぢってなぁにぃ~」
ヤッタが無邪気な声を上げる。ヤッタの声は高いので食堂の隅々までとてもよく響く。遠くの人までが、狼狽える男の顔と尻にちらちら視線を向けつつ、ひそひそ話す声が聞こえる。ノエルロードがズボン越しに尻穴に手をあてた。
「痔ってね、二足歩行をする人間特有の病気だよ。このおじさんの尻穴が」
「言うなぁ!」
子供の質問には丁寧に答えなければならない。私はノエルロードがいぼ痔と切れ痔と走り痔と出痔のコンボ捜査官の可能性があり、彼の尻で起こっている惨事について、ヤッタに丁寧に説明をした。
「この人が痔だっていう話はもういいわ」私の説明をリアが遮る。「それより、どうしていきなり辞めるなんてことになったのよ」
リアの怒りは収まらない。指先でテーブルを叩く音が徐々に速く大きくなる。
「また戻って来ます。辞めると言っても育休なだけで退職じゃないので」
「育休ぅ?」リアが訝しげな声をあげて冷ややかにヤッタを見た。「そのカラスの育児ってこと?」
そのカラス、との言葉に少しカチンとする。普段の動物に優しく冷静で理知的な獣医師である彼女とは違い、感情的なその態度と口調に戸惑いさえする。なにをそんな苛立っているのだろう。
「はい。ヤッタちゃんが一人立ちできるまで」
「ふうん。どのくらいかかるの」
「それはわかりません」
未だぶつぶつ言っているリアにいい加減気が滅入ってきた。これからのことなど考えることがいっぱいあるのに、彼女の小言につきあってられない。
「だいたいあなたは……」
「これは私とヤッタの問題です。リアにはあまり関係ない」
冷たく突き放すとリアは驚いた顔をして言葉を止めた。そんな風に言われるとは思っていなかったのかもしれない。これ以上話すことはないと態度で訴えると、ようやくあきらめたのか特大の鼻息を吐いてから、ああ~とかんもぉ~とか言って彼女は天井を見上げた。
できるだけ早く復帰してちょうだい、と言い残してリアが食堂を出ていった。その背中を見て少し言い過ぎたかもしれないと反省する。だが私としても、他人の勝手な怒りを黙して汲んであげられるほど、ボランティア精神には溢れていない。
いつの間にか消えていたノエルロードが、売店で売っている安っぽいカップのアイスクリームを持って戻ってきた。
デザート、と言って私の前に置く。よほど厳しい顔をしていたのだろう。彼は機嫌を窺うように私の顔を見ている。お礼を言って、頭を冷やすためにもありがたくいただくことにする。
「よかった、あの子帰ったんだ」
きょろきょろと辺りを見渡す。そうは言ってはいるが、消えたのを待って戻ってきたのだろう。木ベラを差し込んだアイスは少し溶けて柔らかくなっていた。
面接は日を追って連絡すると言うことでノエルロードと別れた。この後、酒を飲みに行かないかとも誘われたのだが、ヤッタがいるのでもちろん断った。
外は先ほどよりも一層濃くなった闇が広がっていた。保護区周辺には余計な店などはなく、一番大きいスーパーも夜も六時頃には閉じてしまう。明かりといったら街灯の明かりくらいしかない。
街灯が作り出す影を見ると、頭の上に乗っているヤッタが帽子に見えた。
薄明かりの中で自宅までの道を歩きながら先ほどノエルロードからもらった資料を取り出し、再びずらりと並んだ比較的軽犯罪賞金首の顔を眺める。凶悪犯と比べてそれほど悪そうな顔をしているやつはいないうえに、どこか間抜けな顔をしている。こいつらならなんとかなるかもしれない。
「アンスルちゃん、帰ったらおビール飲む?」
頭の上のヤッタが前かがみになり私の顔をのぞき込む。
「飲むよ。お風呂入った後にね」
「お風呂、お風呂、一緒に入る」
「うん。ヤッタちゃんのお風呂上がりはフルーツ牛乳ね」
「ヤッタ、フルーツ牛乳好き」
足をぶらぶらさせたヤッタが、作詞作曲ヤッタのフルーツ牛乳の歌を歌い始める。
へんな色~、フルーツぎゅう~に~ゅう~、なん~の色~、フルーツぎゅう~に~ゅう~、どん~なフルーツ~、りんごじゃ~な~い気がする~、イチゴで~も絶対ない~気ガス~る~、まして~や~ブ~ドウや~、モ~ッモなんって~ものでもない~~、バナナもちが~う~だんだんフルーツに思えな~くなってき~た、フル~ツ~ぎゅうに~ゅう~。
熊避けにはいいかもしれないな。決してうまいとは言えないヤッタの歌にハイッハイッと合いの手を入れながら、すれ違う人間がいなくてよかったと安堵しつつ、頭にヤッタを乗せたまま家路を急いだ。




