第一話 書類を書くしか能のない俺は、今日も定時で世界を回している
統制庁の朝は、音がしない。
正確に言えば、音はある。
キーボードを叩く音、紙が擦れる音、空調の低い唸り。
ただそれらは全部、生きている感じがしない。
俺は自席に座り、いつものようにモニターを立ち上げた。
ログイン。認証。二段階。
毎日同じ手順。毎日同じ画面。
「……面倒くせぇな」
独り言は、誰にも聞かれない。
ここでは独り言もまた、規則の一部みたいなものだ。
霧島悠真、二十七歳。
統制庁・文書管理課・主任。
主任と言っても、偉くはない。
決裁権もないし、命令権もない。
あるのは「書類を差し戻す権利」と「誤字を直す義務」だけだ。
俺の仕事は単純だ。
各部署から回ってくる申請書を読み、規定と照らし合わせ、
おかしいところを“なかったこと”にする。
逆じゃない。
正すんじゃない。
“なかったこと”にする。
誤字脱字。
日付のズレ。
条文番号の不一致。
制度の根幹に関わるようなミスでも、
「形式が整っていれば」通る。
それが、この国の常識だった。
「……っと」
今日一枚目の書類で、俺は指を止めた。
生活保護関連の申請。
却下理由:提出期限超過。
理由は単純だった。
申請者が、入院していた。
規則上、例外はない。
期限を過ぎた申請は無効。
それが“常識”。
俺は画面を眺め、ため息をついた。
「……面倒くせぇな」
でも、放っておくのも、面倒だった。
条文を開く。
細則。附則。運用例。
あった。
例外処理の余地。
「規則に書いてないことは、
書いてしまえばいいだけだろ?」
誰に言うでもなく、呟く。
俺は書類を一行だけ修正した。
提出期限の起算日を、入院退院日基準に変更。
それだけだ。
世界は、何も変わらない。
少なくとも、そう見えた。
だが数日後、その申請は通り、
一人の生活が、ぎりぎりで繋がった。
誰も俺を褒めない。
誰も俺を咎めない。
それでいい。
俺は英雄になりたいわけじゃない。
ただ――
「……ちゃんと書類にしただけだ」
そう呟いた瞬間だった。
昼休み。
庁舎前の広場が、妙に騒がしい。
拡声器の音。
人の声。
感情のある音。
窓の外を見ると、デモ隊がいた。
プラカード。横断幕。
【不公正な制度を正せ】
【数字の裏で人が死んでいる】
「……またか」
俺は立ち上がり、給湯室へ向かう。
関わりたくない。
関わると、だいたい面倒なことになる。
だが、そこで――
「ねえ」
背後から、声がした。
振り返ると、女が一人立っていた。
銀髪。
鋭い青い目。
統制庁のバッジは付けていない。
だが、その立ち方だけで分かる。
「……元、内部の人間ね」
俺が言うと、女は眉を上げた。
「察しがいいじゃない。さすが書類屋」
「褒めてないだろ」
「褒めてないわ」
女は一歩近づき、低い声で言った。
「あなたが書いた修正書類、見たの」
心臓が、一拍遅れた。
「……何の話だ」
「生活保護。期限条文。入院例外」
全部、当たっている。
女は口元だけで笑った。
「効率、悪いわね」
「……だったら何だ」
「でも、嫌いじゃない」
彼女は胸元のピンバッジを指で弾いた。
そこには小さく刻まれている。
――公正。
「星野凛花。
市民運動団体《公正連盟》の代表よ」
そして、俺をまっすぐ見た。
「あなた、その力、
自分が思ってるより危険よ」
「……俺はただ――」
「書類を書いただけ?」
言葉を奪われた。
星野は静かに続ける。
「正義ってのは、叫ぶだけじゃ変わらない。
ちゃんと――書くの」
俺は、思わず笑った。
「……面倒くせぇ女だな」
「今さらでしょ?」
その瞬間、
世界が、少しだけ軋んだ気がした。
多分――
この日が、境目だった。
たぶん、終わりじゃない。
終わりじゃないから、歩ける。
俺はまだ知らない。
この一行の修正が、
どれだけ世界を歪めるかを。




