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捜鷹記  作者: 檻の熊さん
13章

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灌頂 暴露前予防

 ポンと棒立ちしたカルガモに羽合せ、そのまま対岸に落ちるわんわん(わんわん)とカルガモ。


「よし!」


 会心の手応えを得た私は、そのまま大きく水路を迂回して対岸に回り込みます。間質性肺炎の影響で、短時間小走りに駆けただけですぐに息が上がりますが、かまわず走ります。以前その場所でカルガモを獲ったときと違い、耕作が放棄されたらしく、雑草が多い!まず進入路を探して、刈り痕(かりあと)の残る水田に侵入します。草だらけに成っておりますので、足を取られないように苦労して、なんとか、わんわん(わんわん)が落ちた辺りを探します。

 たしか、このセイタカアワダチソウが目印で…。突然、左側から羽音(はおと)がしました。思わずそちらを見ようとして、眼前に転けつ転びつ(こけつまろびつ)カルガモが現れました。1メートルと少々前方、薮あり。こちらから見て「向こう」、さらに、鴨から見て前方30センチほど「向こう」に水路。私が一歩を踏み出そうとする直前に、わざわざ水路の直前にある枯れ草の中に姿を潜らせ、一瞬こちらの視界から消える事も怠りなかったカルガモは、大きな水音と共に見事水面に逃げおおせました。ひょいと鴨の現れた方、「目印」のセイタカアワダチソウの方を見やると、一本、たった一本の枯れたセイタカアワダチソウを両の足の間に挟んだわんわん(わんわん)が、草むらの中から呆然(ぼうぜん)とした顔で立ち往生しておりました。たかが枯れたセイタカアワダチソウ一本ですが、これが邪魔になって上手に頭部を押さえきる姿勢を作る事が出来なかったのです。

 拳に呼んで確認してみると、懸爪(かけづめ)(第一趾)が血まみれになっていました。おそらく鴨の胸の肉だと思いますが、しっかりと食い込んでいたところを鴨が死にもの狂いで引き剥がそうと暴れ、鷹がセイタカアワダチソウに引っかかった事でむしろ(ちから)が入り、身の方で「裂けて」、鷹から逃げる事に成功したようでした。

 ほんの少し、あとほんの少し私に筋力があったら、鴨に逃げられる前に鷹の所に辿り着けたのです…!

――――――こんな日は、ただ「惜しかったね」「楽しかったね」で終わらないで、忘れずに薬を飲ませています。


 病気というのは、「100の治療よりも1の予防」の方が有効で、上手く回るものが多い。最も分かり易いのがワクチンです。注射1本で、感染したら助かるかどうかも分からなくなる伝染病から患者を守ります。ところが、世の中にはワクチンの開発が上手く行かなかった伝染病があります。新型コロナウイルスなんかもそうでしたが、もっと古くから問題に成り、いまだに如何ともしがたい状態のままでいる伝染病――――――ヒト免疫不全ウイルス(HIV)です。

 人々にHIVの脅威が知られるようになり、ワクチンの研究が行われるようになったのは、私が学生の頃の話ですから1980年代後半です。しかし、現在に至るも有効性に問題があり「これだ」という製品が世に出ておりません。そんな中で「実効性がある」として行われる様に成ったのが「暴露前予防」です。その骨子は、HIVに感染するリスクを低減する為に抗HIV薬を(あらかじ)め内服してから、ウイルスに接触するリスクを(おか)すというものです。いわゆるセックスワーカーの人たちについて、こういう方法が推奨される時代に成りました。将来開発されるとしても、現状ワクチンが出来るのを待っていられない人たちがたくさん居るのです。


 概略はほぼ同じだという事で、私はワクチンが利用出来ない鳥インフルの予防目的で、鷹に抗インフル薬を内服させる事を始めました。昔見たドラマだったか、医者が売春をさせられている娘の親に「いったい何人客を取らせやがった!」と叱りつけるシーンがあったのを覚えております。例えは悪いですが、実猟は視点を変えると「そんな感じ」に見えなくもない。つまり、実猟に使う鷹の多くは「雌」で、据前(すえまえ)にとって娘みたいなもの、据前(すえまえ)は親みたいなものという訳です。「客を取る」とはすなわち、「捕らえた獲物の肉を食べさせること」です。中には、獲物を食べていなくても羽毛を引いただけで鳥インフルに感染して死亡した鷹がいたというくらいですから、「自分は大丈夫」なんてとても言っていられません。畢竟(ひっきょう)、抗インフル薬による暴露前予防の必要が生じる訳です。冗談でなく、親なら娘を(いたわ)ってやって欲しいですね。個人的には、捕獲した獲物が眼前にある場合は、そちらの検査を簡易検査キットで済ませて、問題が無いなら抗インフル薬を飲ませる必要は無いと考えております。一部の鷹について、これは複数の抗インフル薬で確認しているのですが、何故か服用後に猟欲(シアミ)が強まり、異様な「やる気」を見せる鷹が現れます。私的(わたくしてき)には、その様子が「気持ち悪くて」、理由も無く漫然(まんぜん)と普段から抗インフル薬を鷹に飲ませたくなかったのです。


 こうした暴露前予防の考えは、鳥インフルのみならず、怪我による細菌感染、食餌の腐敗に由来する体調不良や消化管閉塞時の「時間稼ぎ」、アスペルギルス症の予防など、幅広い疾病に適応できます。

 意外に思うかもしれませんが、使役されている鷹は、実猟に使っていなくともいつの間にか口腔内や趾部に小さな傷を作ります。受傷直後の段階では、血流がその場所にあるので、普段から抗菌薬を飲ませているとその場所に薬が運ばれます。ところが、腫れなどが顕在化してから気付いて薬を飲ませても、既に血流が途絶えており、抗菌薬の成分がその場所に運ばれていかず、治療が上手く行かなくなることがあります。鳥類は、空を飛ぶ為に、解剖学的に血管の発達が簡素(かんそ)になっている場所がたくさんあるので、哺乳類のようにバイパスが形成されずに、幹部が壊死してしまう事があります。特に翼の怪我がそうです。傷が腫れてきてから気付いて病院に連れて来ても、意外なくらい抗菌薬への反応が良くないことがあります。つまり、人間の腕の傷が「治らないから」と言って医者にかかるのとは、大分違う顛末に成ります。アスペルギルス症なんかもそうです。元々、症状らしい症状も無く、生前診断の難しい病気で、治療薬への反応も今ひとつです。しかし、予定されているイベントに連れて行って使うといった際に、鷹に(あらかじ)め薬を飲ませておくことは可能な訳で、こちらは十分に目的を果たす事が出来るようです。他にも、トリコモナス症のように、調教の為に鳩を使うことが分かっているのであれば、鳩の方の「消毒」を済ませておくことも出来ますし、鷹に抗菌薬を内服させて問題を回避することも出来るという病気があります。


 少なくとも鷹については、味覚的に問題があって普段から飲ませるのに難がある薬でないのなら、暴露前予防的な薬の使用は「あり」なんだと、覚えておくと良いと思います。「(あらかじ)め飲んでおく」、「その日の内に飲ませる」、だいたいはこれで事無(ことな)きを得られる、そういうイベントは多いのです。

挿絵(By みてみん)

写真の鳥はツクシガモです。


参考文献

日本エイズ学会, 日本における HIV 感染予防のための曝露前予防(PrEP)利用の手引き【第1版ver.2.0】, https://jaids.jp/wpsystem/wp-content/uploads/2024/07/tebiki-1Pver-new.pdf

猛禽類治療マニュアル2024,KDP,2023


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