放鷹雑記 放鷹文化の再構成
鷹の雑学。
鷹の世界では、据前の左の拳の上に据える鷹の左翼側を、「手先」と書いて「たなさき」と読みます。意味するところは「手の先」です。手の平を意味する「たなごころ(手の中心)」と同じ様な用字らしいのですが、意外に知られておりません。これは古い時代の書き方なので、現代風に「てさき」と言っている方もおられるのですが、こちらも意外に聞きません。似たような話で、「羽合」を「合わせ」に直したり、「肉色」を「肉」にしたりというのがあります。
これらは何らかの出典に由来するものであったり、口頭伝達による口伝の結果であったりするのですが、「これだ」という決まりがある様で無い、鷹をやっているグループ間でも異なり、流行すらある、割とフワッとした鷹詞です。
「鷹狩り」は、「放鷹」とか「鷹術」と言い換える事がありますが、歴史上、江戸幕府が崩壊して武士と呼ばれる人たちが居なくなってしまった頃、途絶えております。これを復活させようとしたのが当時の宮内省で、「宮内省式部職」という所で、いわゆる古技保存が行われました。鷹匠以外にも有名なところでは鵜匠がいたりとかですね、遺すべき技術はかなりあったらしいのですが、結局のところ太平洋戦争の終結で以てだいたい駄目になります。この辺りの経緯は『天皇の鷹匠』という本を読んでいただければ分かるのではないかと思います。
大事なのは、特に伝統に根差した技術や知識というのは、誰かに直接的に渡していかないと続いて行かないという事なのです。大きな事から小さなどうでもいい様な事まで、引き継ぐ人たちが居なかったら「ちょっとしたこと」が次第に分からなくなって行くのです。幕末における我が国の放鷹文化の崩壊は、正にそういうものだったと思います。
その昔に編纂された『武用弁略』という本は、武士のたしなみとして、いわゆる武芸百般的な武器やら鎧やらの知識、兵法について解説されている本ですが、この中では馬と鷹についても述べられています。今では考えられないですが、「鷹」というのは武士に必要な教養だったのです。
当時の話、現代の様に「鷹を使って獲物を捕る」だけが鷹狩りではなく、それを支える為の制度があり役人がおり、例えば鷹の再生産に必要な山であるとか狩りに使う為のフィールドを維持管理したりとか、鷹を飼育管理する為の設備や餌の確保に携わる人たちがいてみたり、鷹匠の装束や鷹道具を作る人たちがいてみたり、文化的側面からなら、和歌が詠まれてみたり絵が描かれてみたりと、色々な物が集まって「放鷹文化」が形成されておりました。それらは、武士と周囲の人たちにとって、教養であると同時に公務で、趣味的な要素はあったと思いますが、かなりの部分が「公務員」の仕事だったのです。これらは、世の中が一変した明治維新と共に無くなってしまいました。
「色々あった」と書いてしまったら雑な説明になりますが、現代の鷹狩りは民間に移行して個人の趣味に成りました。一部で、「追い払い」を業とする業者の人たちがおりますが、こちらも元は趣味で鷹狩りをやっていた人達が起業したもので、昔からあった職業という訳ではありません。本来そうだった公的な所からは、「鷹狩り」は消えてしまったのです。この過程に於いて、鷹狩りが民間に移って行く中で、どれだけの情報が失伝してしまったのか、分かりません。
分かっているのは、得られた情報あるいは残された情報から「再構成」が行われたという事です。これが、冒頭に挙げた用語の多様化や変化の原因と成っていったのです。くだらない話ですが、PCが普及して日本語変換をしなければならなくなった過程で、縦書きが横書きになってみたり、環境依存文字が表示されないなど、やむを得ない変更を余儀なくされたという背景もあった様です。
個人的には、「鷹」をモチーフにした冗句本があったのも、まずかっただろうと思っております。『放鷹』という本です。とても有名な本ですが、一見したところそれらしく書いてあるのに、腰を据えて読んでみたら正常な情報がひとつもない「らしい」という本です。「らしい」というのは、なにを「からかわれて」いるのかと思い調べようとしても、確かにそういう鷹について書かれた「鷹書」がある事が分かるのですが、確認するためには行書や漢文で書かれた江戸時代以前に書かれた書物が要ります。解読もそうですが、それらは入手自体が困難な書物なので、長い間誰もその事実に気付かなかったのです。この本しか鷹狩りについて書かれたものが無かったという期間は、戦前から戦後にかけて、かなりの長期に及んでおります。有名な文学作品など、この本を参考にして書かれたと考えられる物が幾つも残っており、後世に与えた影響の大きかった作品です。
昔の鷹をやっていた人たちも、一度はこの本に取り組み、挫折した様です。「わからなかった」という事です。仕方がないから、その人たちは、誰かに聞いてみたり、自分なりの考えで書かれている事を理解しようとしてみたりという事をした様です。正しいものもあれば間違っているものもあり、流派に関係のない情報の混交といった事もあった様です。こういう背景で以て行われた「再構成」の結果が、現代の放鷹文化なのです。「スクラップアンドビルド」という言葉を使っても、いいかもしれません。この中には、西洋からもたらされた情報がかなり混じったので、正に「戦後日本に興った現代放鷹文化」という様相を呈するように成った訳です。
こうした背景があるので、鷹をやっている人たちの使う鷹詞の中には、当時流行った誤用から発生したとおぼしき使い方が、残っている事があります。もちろん私は、あたらそれらを「間違っている」などと言うつもりはありません。もうそれくらい、みなさんの中で「まとまって」しまっているのです。
有名なところで「シシアテ」があります。当時、シシアテは「肉色の具合をみる」とか「肉色を読む」という行為の事だと、勘違いされて広まった鷹詞です。本来の「肉当」あるいは「肉色当て」は、「肉を与えること」転じて「肉の与え方のこと」、「餌量を調整して目的の肉色にすること」転じて「肉色の予定」という意味です。インターネットは便利ですが、今では、昔流行った「シシアテ」以外の説明を見付ける事が出来ない、そういう時代に成り始めている様です。
その昔、今では笑い話ですが、桜餌といって、春になったら鷹に馬刺しを与えるんだと言っていた方がいました。つまり、「桜」を馬刺しの事だと解釈してしまったのです。ところが、鷹書の当該項で確認出来るのは、「春に与える餌」で「桜の花の様につくって提供する」という二点のみで、何を材料にしてどういう目的で使うのかが書かれておりません。謎の記述なのです。
気にはなるものの、分からない。鷹書にある、理解不能な記述を骨身に染みるほど読まされた人物が居たら、自然と「ああいう本」を書いてみたくなるのは、人情というものだと、私は思いました。ある意味、教養のバケモノみたいな方でなければ、鷹書のパロディなんて書けるはずもないのです。
参考文献
武用弁略←国立国会図書館デジタルアーカイブ.
宮内省式部職編, 放鷹, 吉川弘文館, 1931←私の考えになりますが、「宮内省式部職編」というのはペンネームです.書いた人物にも心当たりがありますが,本人が「書いたよ」という記録を残してはいない様です.ゆかりのある方ではあるものの,当時の宮内省の人々が仕事で出版した本ではないと認識しております.国立国会図書館のデジタルアーカイブで閲覧が出来ます.
花見薫, 天皇の鷹匠, 草思社 2002
鷹書研究会, 鷹の書─諏訪藩に残る『鷹書(大)』の翻刻と注解─, 文化出版, 2008←元ネタの一つ.照合していけば,正解が分かる.




