平穏な日々
例えば、グルメ漫画の登場人物から「食べる」というアイデンティティを取り除いてしまうと、どうなるでしょうか?実際にはそれ程の問題ではないかもしれないですが、皮膚筋炎を契機に服用が始まった薬は多岐に渡っておりまして、この中の幾つかには味覚障害を来すものが含まれております。残念ながら、止められる理由がありません。一生飲み続けなければなりません。
病院食というのは、どうやら味覚の異常を感じる機会の少ない内容で構成されていたらしく、退院してから私は「以前と違う」食べ物の味に悩まされる様になります。一例ですが、「フレンチトーストが苦い」、「苦いフレンチトーストを口にしてからコーヒーを飲むと、苦味等が消失して『コーヒーの香りのする白湯』を飲んでいると感じる」といった塩梅で、このような「びっくり箱」を開封したかのような味覚の変化を頻繁に体験する様になりました。何故か甘味については影響が少なかったので、やたらと甘い物ばかりを食べるようにも成りました。いえ、カレーのルーが甘くて苦くなり、辛口や中辛、どこの会社製品のどんな味付けの物を食べても「甘口カレー」にしか感じられないとか、有名チェーンでラーメンとかを食べても、記憶にある食べ物と実際に口にした食べ物が一致しないとか、美味いが分からなくなり同時に不味いも分からなくなり、とにかく食べ物に関する楽しみが失われてしまいました。グルメ漫画の主人公なら、「人間」が破壊されてしまった状態だと評価されても、過言ではないと言える状態ではないかと、私は、思います。思ってしまいました。
こんな感じで、皮膚筋炎という病気は、行動制限だけでなく、私を構成した諸々をまるで鉛筆でも削るみたいに、色々とガリガリと喪失させていきました。
薬研が居なくなった事で、労働量が減り、特に階段を上り下りしようとすると露わになる、歩くと足の裏が地面から剥がれてくれないような違和感のある体でも、軽く蹴躓いただけでコンクリの床に向かって受け身も取れないで転倒するような筋力の持ち主でも、何とか諸々が回っていくようになります。例えば、餌作りの際に調理用ハサミを使って肉を切るのですが、握力が足りなくて切れるのだけどやけに手が痛くなる・だるくなるといった問題が、用意する餌量が減った事で、そのための労働が「許容範囲内」に収まる様になったのです。アニマルホーダーの如き破綻だけは、回避しました。
今どき、インターネットというのは便利なもので、私は退院前の時点で現在の自分に合わせて家具等を改める準備をして、注文を済ませておりました。当時、退院して2週間くらいの間に、おおよそのインフラの整備的変更を済ませております。例えば、以前は床にマットを敷いて寝ていたのですが、筋力低下によって「起き上がれない」ことが分かったので、ベッドを購入したり、ベットに使用するサイドテーブル(病院のベッドなんかで使われているもの)を購入したりしました。風呂(介護用のアイテムが売られている)、トイレ、洗濯、台所関係など、見渡してみると、以前と同じ利用がどうにも無理な、変更あるいは廃棄を要する諸々があふれておりました━━━━━━2階にあったものは可能な限り1階に移し、要らないものは廃棄しました。
実は、動物病院の備品関係もこの時随分廃棄てしまいまして、手術器具、保定用ケージ(重くて使えない)、かなり色々処分してしまいました。特にレントゲンの機械は、まだ新品で購入して2年使っていなかったのですが、なんとフットスイッチを押す筋力が失われてしまい、使う事が出来なくなっておりました。「断腸の思い」とはこういう事を言うのでしょうね。幸いにして中古医療機器の業者が買い取ってくれたので、これを処分し、代わりに、片手でも使用出来る往診用のポータブルレントゲンを購入し直しました。以前に比べて圧倒的に「小さな」写真しか撮れなくなってしまったのですが、背に腹は代えられません。他にも、耐用年数を終えて新しい機械を購入する話のあった院内検査機器を廃棄して、後は全て外注検査を利用する様にしたとか、基本的に動物病院を「からっぽ」にする感じで、色々と整理してしまいました。つまり、私が死んで片付けをする事になる遺族が困らない様に、一度整理を済ませておく必要があったのです。
ああ、庭木の伐採なんて、くだらない話もありました。とにかく、管理が要らなくなる感じで、全部一度は片付けておこうとしたのです。もちろん、一人では無理ですから、これらは全て色々な他人様に手伝ってもらった上で行いました。本来なら、殆ど一人で済ませてしまえる程度の「労働」だったんですがね。
退院後しばらくの間、問題はあったけれど、だいたい5月いっぱいくらいまで、具体的には、「中毒量」と言われるステロイドが日量20mgを下回るまで減薬される頃まで、とにかく筋力が足りなくて苦労するのですが、同時にこの頃は過量なステロイドが体を守るので、病気的には経過良好に推移します。先に挙げた味覚の異常もそうですし、夜寝れないで起きている、口の中が乾き続けて歯質が傷む、筋力が無くて手指が震える━━━━━━そんな投薬による不具合があってなお、入院の際に「年内ぶっちぎりナンバーワン」とまで言われた、血液検査の炎症系パラメータや抗体価が下がり続けたのです。
朝起きて、鷹たちを外に出し、餌をやり、屋内を清掃して休む。時々来院があったら診察をして休む。夕方になったら鷹を屋内に仕舞って休む。それが私の生活のリズムでした。どうしても必要になる、月に何回もある通院が、むしろノイズでした。
犬も猫も居なくなってしまったので、昼間同居している動物が屋内に居ない生活環境は、以前とは比べるまでもないくらい衛生的に成りました。とにかく、飲んでいる免疫抑制剤の量を考えると、衛生的な環境を保てるなら、それに超した事はないのです。気が付くと、退院後2週間もしてから先は「塵ひとつ無い」床が当たり前に成ってしまいました。初めの頃は、物をどかすとそこいら中から「あいつら」の居た痕跡が、大量の体毛がどっからともなく出て来たものだったんですがね。




