薬研との別れ
早朝の涼しい空気を吸い、腰に餌合子を取り付け、鷹を据えると背筋もシャンと伸びるというもの。鷹の見ている間くらいは、無様な姿は見せられない━━━━━━そんな感じで、帰宅1日目には鷹を据え、2日目には薬研だけは飛ばし、3日目にも薬研は飛ばし━━━━━━順調にも思えるすべり出しだったのですが、あるイベントが原因で、退院3日目にして、私は薬研を手放す事にしました。
退院当時、使用されているステロイドの量は日量にして40mg、足腰の衰えは顕著で、トイレと風呂が2階にある関係でどうしても利用しなければならない階段の昇降の際には、靴を脱いだり履いたりする動作が上手く出来なくて、土足のまま手すりにぶら下がるようにして2階と1階を行き来しておりました。どういう事かというと、皮膚筋炎に由来する自発的な筋肉の損傷は投薬によって押さえられている状態でも、同時に、高用量ステロイドは筋肉の損傷の修復を抑制し、既存の筋肉の萎縮を促すという作用の薬でもあるので(ステロイド筋症)、筋肉が増えたりはしないで「回復する代わりに衰える」という事が起きていたのです。
もしも、この時、何もかもが右肩上がりな状況であったなら、こういう事は考えなかったと思います。しかし、実際には、皮膚筋炎の患者は筋肉量が戻らない、あるいは投薬によって減ることがあるという説明を受けており、私の場合、この後で大分経って減薬が進んでから「いくらか」筋力が戻るのですが、当時は階段に昇降機を取り付けるかどうか検討を要するほどの状態で、「鷹が重く」「手が震え」「労働が思ったよりも辛く感じる」という、先の見通しの立たない状態でした。
直接の原因は、嚥下困難です。皮膚筋炎の影響で、食べ物を飲み込む能力に異常を来していたのです。入院中は「上げ膳据え膳」、何もしないで居ても食事は定時に運ばれてきて、しかも病人用に調整されております。特に違和感を覚える事はありませんでした。退院後、以前食べていた「その辺にあるもの」を口にする事で、自分の異常に気付きました。退院初日に、刻んだネギが飲み込めなくて喉に絡みつき激しくむせました。温食(温かい食べ物)でないと異常が出るらしく、刻んだキャベツ、厚みのある焼き豚(冷たい)、他にも色々、なに気に惣菜コーナーで売られているような諸々の食品が全て、なんらかの「飲み込みにくさ」を感じました。
その日の朝は、調子が良くありませんでした。微妙な手足の力の入らなさを感じつつも、薬研を飛ばしました。12月の時点で満足に鷹を投げる事は出来ていなかったので、鷹の方も心得たもの、自分で病院の2階のベランダまで飛んでいっては帰ってくるだけです。なのに、それが「重く」「しんどい」労働に思えてしまった。その後、朝食を作ったのです。
大したものではなく、もやしと魚の切り身を具にしたインスタントみそ汁を煮たもの━━━━━━元々、糖尿病予備軍くらいの血糖値だったものが、皮膚筋炎でステロイドを使用することになり悪化して糖尿病状態に移行してしまい、定時の規則正しい飲食と血糖値の監視が必要に成ったのです。とにかく、なにか「それらしいもの」を食べないといけません。「言われてみれば」という話に成りますが、入院中にもやしを丸ごと煮た料理なんか提供された事がありませんでした。そういう話なのですが、つまり、みそ汁を具材ごと飲み込んだら「詰まった」のです。飲み込む事が出来ない、吐き出す事も出来ない。
初めはまだ冷静に考えていられたのですが、にっちもさっちも動かない。じきに苦しくなり始め、水を飲んで流そうかとも思ったのですが「失敗したらどうなる?」と、思いとどまりまして、少し頭がぼぉっと成り始めたところで流しまで行って、指を口に入れ、吐きそうに成りながら(なんと吐けない)口腔内に残ったもやしを、わずかに数本でしたが、取り出し、その後で大量の水を口に含んで圧力をかける様にして一気に飲み下しました。鼻から何やら吹き出してえらい事でしたが、しばらく、ぼうっとしていたと思います。
正直、怖くなりました。もう病院食なんか提供されるはずもなく、惣菜を買ってくるか自分で作るか、外食で提供されている料理についても違和感があり(前夜、中華料理店で提供されている野菜炒めが飲み込みづらかった)、「せっかく助かったのに」本当に些細な事で自分は死ぬのかもしれないと思いました。間質性肺炎は私に死の危険をもたらしましたが、自覚症状を与えなかったので、明確な「死」を連想する機会が、私には無かったのです。冷え切った汁物がテーブルの上にあり、そこに突っ伏して死んでいる自分。残された鷹たちが3羽、飢えて食餌の提供を待っている…。そういうビジョンを、幻視しました。
ドストエフスキーだったかトルストイだったか、人買いが母親に「兄か弟か、どちらかを差し出せ」と迫るシーンがある作品があったと記憶しておりますが、似た様な事をしました。うっかり全員が共倒れになるリスクを、鷹を分散させる事で避けようと考えたのです。消去法で、つまり薬研は一番「大きかった」のです。
理性的に考えたら、この時点で鷹たちも1羽残らず手放すべきではあったのです。入院前に、既に「無理」という事で手放した生き物達がいたくらいですから。「鷹も無理だった」、そうあるべきだったかと、今でも後悔があります。しかし、洗い浚い全てを失う事実に到底耐えられるものではなく、この時は労働上のリソースを得る為に、最も大きな体格を有していた薬研を手放したのです。この時でしたね、「二度と元の生活には戻れない!」と、鷹を引き取ってもらった人の前で思わず口にしてしまい、泣き出したのは。
こちらから鷹を持ち込むのが筋ですが、到底それは実行不可能で、遠路はるばる先方が鷹を引き取りに来てくれたこと、少し話したこと、鷹を箱に放り込む作業はあっけなかったこと、鷹のビックリした顔が頭から離れないこと、色々ありましたが、多くを語る必要は無いと思います。
この後の薬研について、少しだけ述べておきます。しばらくの間、引き取ってもらった鷹匠の下で訓練を続ける暮らしを送った後、調教済みの鷹を探していたある追い払いの業者の方を経由して、再訓練を受け、今どきちょくちょくあるのですが、カラスの追い払い目的でとある宿泊施設に就職を果たします。そう、事実上のホテルの「主」に成ってしまうのです。事実は小説より奇なりと申しますが、そこは私の住む土地よりも暖地で、ちょっとありえないくらい、かなり理想的な環境で生きていく事に成りました。




