表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

王牌リウ殺人事件

王牌リウ殺人事件2


警視庁捜査一課の刑事、黒崎譲くろさきじょうは、不完全に終わった事件が嫌いだった。法廷で罪が裁かれても、なお真実が闇の中に蠢いていると肌で感じる時、彼は決まって、奥歯の下でじわりと広がる鉄の味を感じるのだ。


「再度情報を整理する」


会議室の空気が、重くよどんでいた。上司が、プロジェクターのスイッチを入れる。


「王牌リウの遺体状況は、例の『皮剥ぎ』だ。主犯は、実父の王牌健一。被害者が一族の秘密をジャーナリストに暴露しようとしたため、妻である典子に殺害を教唆。殺人教唆の罪で送検済みだ」


そこまで一気に説明し、上司は舌打ちした。


「実行犯とされた妻の典子には、状況証拠も物証も乏しく、責任能力の有無も問われ、彼女は釈放。事件は、実行犯不在と、教唆犯の逮捕で、一応の終結だ」


誰もが、この歪な事件の幕引きに納得しようと努めていた。だが、黒崎の目は、スクリーンに映し出されたリウの写真の一点に釘付けになっていた。彼女の左手の甲。そこに極めて精緻な線で描かれた、「目」のイラスト。

実行犯が野放しになった、この不完全な事件。その構図の中に、あまりにも完璧に配置されたその「目」は、まるでこれからが本当の始まりだと、静かに告げているようだった。


その悪夢が現実となるのに、時間はかからなかった。

王牌典子が釈放されてから、二週間後。第二の死体が見つかったのだ。

フリージャーナリストの水野響子。彼女こそ、王牌リウが接触していた当人だった。

現場となった水野の自宅マンションに立ち込める異臭の中、黒崎は確信と共に言葉を失った。


水野の遺体は、パズルのように組み替えられていた。両足は肩の付け根から切断され、腕があった場所に太い糸で無造作に縫い付けられている。両腕は、足があった股関節に。耳や唇は顔のパーツを入れ替えるように縫合され、首は臀部に歪に接続されていた。

そして、右足のくるぶし。白い肌の上に、リウの左手の甲にあったものと寸分違わぬ「目」が、リウ特注のインクで描かれている。


「…終わっていなかった」


黒崎は吐き捨てた。


「これは模倣じゃない。あの獣が始めた、計画の続きだ」


解剖で判明した、死の直前の異常なレベルのエンドルフィン分泌と、それに反する苦悶の表情。二つの死体に共通する、快楽と苦痛の歪な同居は、同一犯、あるいは同一の思想によって行われた犯行であることを示唆していた。

捜査本部は、リウの熱狂的なファンによる模倣犯説に傾いていた。だが黒崎は、もっと深く、計画された悪意を感じ取っていた。


「親父さん、あんた、誰かを庇ってるんじゃないのか」


拘置所で対峙した王牌健一に、黒崎は単刀直入に尋ねた。老人は、同じ言葉を繰り返した。


「私が、やり、まし、た」


その瞳の奥に宿るのは、後悔や怒りではない。恐怖だ。自分以外の誰かに、もっと恐ろしい何かが及ぶことを恐れている者の目だった。


水野の部屋は、王牌リウという迷宮の入り口だった。壁一面の資料の中心にあったのは、『アトリエ・アルス・マグナ』という非公開オンラインサロンの内部告発と思しき文書。

主催者は『ピグマリオン』こと、大学准教授の真壁宗介。リウの作品のカリスマ的解釈者だ。

真壁は、任意聴取に淡々と応じた。


「リウ先生の死は、究極の芸術なのです。肉体を捨て、永遠へと至った。私はそう解釈しています」


水野の死について尋ねると、彼は完璧なアリバイを提示した上で、僅かに眉を顰めた。


「惜しい方を亡くしました。ただ、彼女は、少々真実に近づきすぎたのかもしれませんね」


まるで他人事のような、しかし全てを知っているかのような口ぶり。黒崎は、この男が黒幕だと直感した。だが、物証がない。笹本を殺したのは誰か。真壁にアリバイがある以上、別の実行犯がいる。サロンのメンバーか。やはり、母である典子の仕業なのか。


黒崎は、その老婆の家を訪れた。

古びた一軒家。家の中は散らかり放題で、腐敗したような奇妙な匂いがした。奥の部屋に、王牌典子はいた。


「典子さん」


黒崎が声をかけると、彼女はゆっくりと顔を向けた。その焦点の合わない瞳が黒崎を捉えた瞬間、彼女は獣のような叫び声を上げた。


「ィ。……イィィィッ!はやなじッサバぃたせぁッ!」


意味をなさない、奇妙な言葉。介護ヘルパーが慌てて駆けつけ、彼女を落ち着かせようとする。


「ああ、ダメなんです、お嬢さんの話をすると、もう、いつもこうで…。対話は、もう、何年もできていません」


黒崎は、ただ立ち尽くすしかなかった。悲劇の果てに心を壊した、哀れな母親。

だが、黒崎は、彼女が叫んだあの奇妙な言葉の羅列が、まるで呪文のように、頭にこびりついて離れなかった。


水野殺害の実行犯として、サロンメンバーの小田切人が逮捕された。小田は真壁を崇拝しており、彼の指示で動いたと自供した。

真壁も殺人教唆の容疑で逮捕された。彼は最後まで余裕の笑みを崩さず、「これもまた、リウ先生の作品の一部ですよ」と呟くだけだった。


事件は解決した。

誰もが、そう、納得しようとしていた。

だが、黒崎だけが釈然としないままだった。


小田のアリバイには、水野の死亡推定時刻に、僅かな空白があった。そして、単独犯行にしては手際が良すぎる。何より、水野の遺体には、激しく抵抗した際に付くはずの防御創が一切なかった。まるで、彼女が全く無警戒の相手から襲われたかのように。


黒崎は、水野の取材ノートを読み返していた。

その最後のページに、殴り書きのようなメモがあった。


『母 歌 は や な じ』


そこでメモは途切れている。水野は、リウの母に辿り着いていたのだ。そして、あの叫び声を、彼女は〝歌〟と表現していた。


黒崎の脳裏で、何かが閃いた。

彼は、典子の自宅を訪れる人物に関する近隣住民への聞き込みや、出入り記録を、水野が殺された日の前後分を全て取り寄せさせた。


何も起きない、退屈な時間が流れていくだけだった。

諦めかけた、その時だった。

水野が殺された当日の午後。一人の男が、典子の自宅を訪れていた。その顔を見て、白川が息を呑んだ。


「真壁…!」


真壁は、典子に近づくと、彼女の耳元で何かを囁いた。そして、小さなオルゴールのようなものを手渡している。典子は、それを無表情で受け取ると、虚ろな目のまま頷いた。その数時間後、典子は、裏口から、まるで夢遊病者のように自宅を抜け出していた。彼女が戻ってきたのは、翌日の未明だった。


「なぜ…彼女が…」


「操られていたんだ」


黒崎は、自分の立てた仮説の悍ましさに、唇を噛んだ。


「王牌リウと、真壁にな」


リウは生前、頻繁に母の元を訪れていた。ヘルパーは、「熱心にオルゴールを聞かせていた」と証言している。彼女は、母に特定の行動を刷り込んでいたのだ。一種の催眠、あるいは条件付け。

真壁が鳴らしたオルゴールの音色が、そして、あの意味不明の言葉が、行動開始のトリガーだった。


「はやなじ、サバぃ、たせ」


黒崎は、その言葉を何度も口の中で転がした。これは、意味のない音の羅列ではない。アナグラムだ。何かのメッセージが隠されている。

紙に書き出し、文字を入れ替える。数時間後、黒崎は一つの文章に辿り着き、戦慄した。


『母、汝、裁き、果たせ(ハハ、ナンジ、サバキ、ハタセ)』


これは、リウが、母に遺した最後の命令だったのだ。


「全て、リウ先生の描いた設計図通りですよ」


取調室で、真壁は初めて、愉悦に満ちた表情で語り始めた。

王牌リウは、自らの死を、芸術作品として完成させようとした。それが、この連続殺人の発端だった。


彼女は、信頼する後継者として真壁を選び、計画の全てを託した。

まず、自らの死の演出。父・健一が、過去に妻・典子へDVを働き、神経衰弱の一因を作ったという秘密を、リウは知っていた。それを盾に、父に偽りの犯人役を強要した。


次に、計画の障害となりうる者の排除装置。それが、母・典子だった。リウは、長年かけて母に条件付けを施し、特定の条件下で起動する殺人人形(キラー・ドール)へと作り変えた。彼女の病んだ心は、娘の命令を絶対のものとして受け入れた。娘の「作品」を汚す邪魔者を排除することは、母親にとって、歪んだ愛情表現そのものだったのだ。


水野は、真相に近づきすぎた。彼女が母の存在に気づいたことを知った真壁は、計画通り、典子を再起動(リブート)させた。無警戒な水野に、老婆が近づくことは容易だった。水野は、老婆を保護すべき対象としか見ていなかっただろう。その背後から、何の躊躇もなく、縄が巻きつけられるまでは。


小田は、この計画における、分かりやすい(デコイ)だった。


「リウ先生は死を超越し、この世界に永遠の作品を刻みつけたのです。お父様は『罪と罰』、お母様は『無垢なる狂気』、そして私は『信仰』。我々全てが、彼女の作品の、登場人物なのですよ」


真壁は、恍惚として語った。


真壁宗介と小田切人は、殺人教唆及び死体遺棄の罪で起訴された。

そして、王牌典子は、刑事責任能力なしと判断され、またしても罪に問われることはなかった。


黒崎は、事件の後、一度だけ彼女の自宅を訪れた。

彼女は、病んだ老婆にしか見えなかった。彼女が、ジャーナリストを冷徹に殺害した殺人者であるという事実を、今や黒崎と、ごく一部の捜査関係者しか知らない。


黒崎が背を向け、立ち去ろうとした、その時。

背後で、か細い声がした。


「……ぐ…ろざ…ぎ」


黒崎が振り返ると、典子が、初めて焦点の合った目で、そして漆黒の、瞳孔の開いた瞳で、じっと黒崎を見ていた。その瞳には、殺意はなかった。そこにあるのは、確かな意志の色だった。


「……つ……つ…」


彼女は、ゆっくりと口を開いた。


「次の作品は、あなたよ。」


その言葉を最後に、彼女の瞳から再び光が消え、いつもの虚ろな老婆へと戻っていった。部屋の奥からは、またあの呪文が聞こえてくる。


「はやなじッサバぃたせぁッ、はやなじッサバぃたせぁッ!……はやなじッサバぃたせぁッ!!!」


新たな事件が、始まろうとしていた。


だが、事件は、唐突に終わった。

そして、何も終わらなかった。


ある日の夕方だった。デスクで報告書をまとめていた黒崎の耳に、テレビのニュース速報が飛び込んできた。


『――本日午後、精神科病院の患者を移送中の車両が、高速道路でガードレールに衝突。横転し、炎上しました。この事故で、移送されていた患者、王牌典子さんが死亡…』


黒崎は、ペンを取り落とした。 死んだ…? あの老婆が? 事故で? あっけない幕切れだった。あれほどの悪意と狂気を内包した存在が、こんなにも凡庸な形で、この世から消え去った。心の奥底から安堵感が湧き上がってくるのを、彼は否定できなかった。


「終わった…」


リウの呪いの連鎖は、その最後の駒が消えたことで、完全に断ち切られた。もう、誰も『あべこべの死体』にされることはない。 その夜、黒崎は数週間ぶりに、自宅のベッドで深く、静かな眠りに落ちた。長かった悪夢が終わったのだ。



翌日。黒崎が、定時を過ぎても出勤してこない。電話にも出ない。

不審に思った相棒の白川が、彼の住むマンションを訪れた。


「黒崎さん? 入りますよ」


白川がリビングのドアを開けた瞬間、言葉を失った。


そこにいたのは、黒崎譲だった。

だが、それはもはや、彼が知る黒崎ではなかった。


椅子に座らされた彼の体は、新たな『あべこべの死体』と化していた。

両の眼球はくり抜かれ、そして、前後が逆になるように、再び眼窩へと埋め込まれていた。虹彩や瞳孔があるはずの場所には、無数の細い血管が張り付いた、生々しい眼球の裏側が覗いている。

そして、彼の両脚。ズボンが膝まで切り裂かれ、剥き出しになったふくらはぎは、肉がすべて、鋭利な刃物で丁寧に削ぎ落とされ、白い脛骨だけが痛々しく露出していた。

白川が、嗚咽を漏らしながら後ずさる。そして、最後の異常に気づいた。

黒崎の口が、不自然に膨れ上がっている。そのこじ開けられた顎の間から、赤黒い、ひき肉のようなものが溢れていた。

それは、彼のふくらはぎから削ぎ落された、彼自身の肉。犯人は、それを無理やり彼の口から胃の中へと、限界まで押し込んでいたのだ。


絶望に打ちひしがれる白川の視界の隅に、壁の一点が映った。

白い壁紙に、何かが描かれている。

それは、リウが使っていたものと同じ、特殊な顔料で描かれた、螺旋が渦巻く小さな「目」のイラスト。

王牌リウの最高傑作は、母の姿をした殺人人形(キラー・ドール)ではなかった。


それは、彼女の死と共に世界に解き放たれ、誰にでも感染し、新たな表現者を無限に生み出し続ける、「思想」という名のウイルスそのものだった。

それは、死んだはずの王牌リウが送ってきた、最も悪質な挑戦状(ラブレター)だった。


鑑識官が、壁に描かれた「目」の顔料を分析し、絶望的な事実を告げる。


「黒崎さんの部屋から採取された顔料…王牌リウのアトリエにあったものと、完全に……成分が一致します」


捜査本部は、前代未聞の事態に震撼した。捜査中の刑事である黒崎が、捜査中の事件と同一と思われる手口で惨殺されたのだ。

これは警察組織そのものへの宣戦布告に他ならない。だが、誰を追えばいい? 王牌典子は死んだ。真壁宗介と小田切人は獄中にいる。彼らが外部の人間と連絡を取った形跡は、一切なかった。


「思想だ…」


白川は、誰に言うでもなく呟いた。


「思想が、ウイルスのように感染していくんだ…」


白川は、黒崎が遺した膨大な捜査資料の山に埋もれた。先輩は、一体何を見つけ、そしてなぜ殺されなければならなかったのか。資料の大半は、すでに解決したはずの王牌リウ事件に関するものだった。だが、そのファイルの片隅に、黒崎が個人的に集めていたと思われる、数枚の資料が挟まっていた。


『王牌典子移送車両、交通事故に関する調査報告書』


黒崎は、あの老婆の死に疑問を抱いていたのだ。報告書によれば、事故を起こした移送車両の運転手、羽田陸は、事故による軽傷で入院した後、退院と同時に職場を辞め、忽然と姿を消していた。

白川は羽田の経歴を洗い、その背筋を冷たい汗が伝うのを感じた。

羽田陸は、数年前まで『アトリエ・アルス・マグナ』に所属していた、熱心な信者の一人だったのだ。


「まさか…」


羽田は、王牌典子を「聖母」として崇拝していた。リウの思想を現実世界で実行する、唯一無二の存在として。その聖母が、俗世の法で裁かれ、精神病院という名の牢獄に閉じ込められることを、彼は許せなかった。

事故は、偽装だった。羽田は、典子を「殉教」させ、その聖なる役目を、自らが引き継いだのだ。黒崎がその事実にたどり着く寸前だったが故に、羽田は最初の「作品」として、彼を選んだ。


羽田陸の行方を追う特捜本部が結成された矢先、第三の儀式が、白日の下に晒された。

現場は、都内の貸しギャラリー。新進気鋭の若手彫刻家、長峰瑠衣のアトリエだった。


そこは、地獄の祭壇だった。

長峰瑠衣は、逆さ十字に磔にされていた。だが、異常なのはそこからだった。

彼の手足の指、二十本すべてが、付け根から綺麗に切断されている。そして、その指一本一本が、細いピアノ線で繋がれ、天井の照明から吊り下げられていた。

そして、磔にされた胴体。着衣は剥がされ、腹部は大きく十字に切り裂かれていた。本来、そこに収まっているはずの内臓は、すべて綺麗に抜き取られている。空洞となった腹腔に詰め込まれていたのは、灰色の粘土だった。そして、その粘土の中央には、あの螺旋の「目」が、指で捻り出すように、くっきりと刻み込まれていた。


「これは…儀式だ!」


白川は嘔吐感をこらえながら呟いた。


「人間の指を、神であるリウに捧げ、俗なる肉体、つまり、そう、内臓を、無機物で満たして浄化する…そういう儀式……だ!」


足元に、何かが転がっている。白川が拾い上げると、それは黒いチェスの駒、馬の形をした『ナイト』だった。


「リウ先生の思想は、聖書と同じなのです」


拘置所の面会室。アクリル板の向こう側で、真壁宗介は穏やかに微笑んでいた。その余裕の表情が、白川の神経を苛立たせる。


「読む者によって、無数の解釈が生まれる。父君は『贖罪』を、母君は『無垢なる聖母』を、そして私は『信仰』を体現した。黒崎刑事は、『裁き』の側面までは…理解できた。だが……その先にある、破壊と再生の物語を読み解くことは、できなかった。だから……彼は、ページの外に弾き出され、新たな物語の、染みになってしまったのですよ」


真壁の言葉は、白川にある確信を抱かせた。リウは、自らの思想を体系化した、いわば「教典」のようなものを残しているに違いない。


『アトリエ・アルス・マグナ』の、さらに奥の院。選ばれた信者だけが入室を許される、思想の聖域。そこに、教典『黒の福音書』は存在した。

それは、数十枚のイラストと、短い寓話で構成されていた。


一枚目には、眼球を逆にされた男が描かれている。


『観察者は、自らの内側を観察される者となる』


二枚目には、指のシャンデリアの下で、粘土を詰められた男が描かれている。


『才能は天に、器は地に還る』


黒崎も、長峰も、すべてはこの『福音書』の記述通りに殺害されていたのだ。


「次のページを特定しろ!急げッ!」


『黒の福音書』の次のページには、こう書かれていた。


『最初の使徒は、自らの血で聖堂の扉を描き、次の者に道を譲る』


その予言通り、羽田陸は、第四の現場となった廃教会で死体となって発見された。彼は自らの頸動脈を切り裂き、その血を全身に浴びながら、祭壇の壁に巨大な螺旋の「目」を描き上げて事切れていた。その手には、白い『ビショップ』の駒が握りしめられていた。


最初の使徒は、役目を終え、自らを「作品」とすることで、次の使徒にバトンを渡したのだ。

白川は、血塗れの祭壇の前で立ち尽くした。


ダメだ。止められない。

これは、テロだ。特定の犯人を捕まえれば終わるという類の事件ではない。王牌リウが世界に放った思想は、すでに水面下で、名も知らぬ誰かに感染し、新たな「使徒」を生み出している。それは、人の心に巧みに取り入り、その内なる破壊衝動を、「芸術」や「儀式」という大義ですり替えてしまう、精神的パンデミックだった。


黒崎亡き後、白川の新たな相棒として、サイバー犯罪対策課から寺島梓という若手刑事が送り込まれてきた。彼女は、常に冷静で、感情を表に出さないタイプの女だった。デジタル世代である彼女の捜査能力は、白川のアナログな執念と、奇妙な化学反応を起こし始めた。


「白川さん、このチェスの駒。目印じゃないかもしれません」


寺島は、これまでの事件現場に残された『ナイト』と『ビショップ』の写真をモニターに映し出した。


「駒の選定に、規則性があります」


彼女のその一言が、膠着した捜査を大きく動かした。


「『不滅のゲーム』です」


寺島は淡々と説明する。それは、自らの駒を次々と犠牲にしながら、最終的に相手のキングを追い詰めるというゲームだった。


「王牌リウの愛用していた万年筆は、アンデルセンというデンマークのブランドのものでした。ナイトが置かれた長峰瑠衣のアトリエは、かつて『ナイト・オブ・ナイツ』という名前の画廊でした。そして、ビショップが残された廃教会は、元々『大司教ビショップ』の個人所有物だった。つまり、すべて、符号します」


一つ目の謎が解けた。犯人は、この『不滅のゲーム』をなぞるように、犯行を重ねている。

さらに寺島は、もう一つの、より恐ろしい謎を白日の下に晒した。


「白川さん、『黒の福音書』ですが、発見されたデータはダミーでした。本物は、光学技術によって隠されています」


彼女が特殊なソフトで画像を解析すると、グロテスクなイラストの裏から、おびただしい量のテキストデータが浮かび上がってきた。それは、王牌リウの思想の真髄、そして彼女が描いた、真の計画の全貌だった。


『世界は腐敗した。法も、秩序も、全ては凡庸な者たちのための柵にすぎない。我らは、芸術という名の鉄槌でその柵を破壊し、「美」だけが支配する新世界を創造する』


「『不滅のゲーム』の次の一手は…」


白川は息を呑んだ。


「…クイーンによる、キングへのチェックだ」


『黒の福音書』の真のレイヤーには、その手に呼応するかのような記述があった。


『偽りの権威を纏いし女王を、盤上から引きずり下ろせ』


偽りの女王。

白川の脳裏に、一人の人物が浮かんだ。

二年前に王牌リウ事件の第一審を担当し、父・健一に同情的な判決を下し、そして真壁宗介を「思想犯」として断罪しながらも、死刑ではなく無期懲役を言い渡した、東京高裁の女性裁判官、氷川怜子。彼女こそ、信者たちにとっての「偽りの女王」に他ならなかった。


ターゲットは氷川怜子。犯行計画は『不滅のゲーム』。思想の根源は『黒の福音書』。

白川は、氷川裁判官の身辺警護を要請すると共に、これまでの捜査結果の全てをまとめた極秘報告書を、捜査一課長に提出した。


だが、現実は彼らの想像を絶する形で、裏切りの牙を剥いた。

一課長室に呼び出された白川は、上司たちの信じられない言葉を耳にする。


「ご苦労だった、白川!見事な報告書だ!だが、この捜査は本日をもって打ち切りとする」


「なっ…何を言っているんですか!氷川裁判官が危ないんですよ!」


「羽田陸の自殺で、事件は解決済みだ。これは、彼の単独犯行による妄想の産物だった。いいね?」


一課長室を出て、人気のない廊下を歩きながら、白川は壁に拳を叩きつけた。


「クソッ…!どうすればいい…!このままじゃ、氷川さんが殺される…!俺だけでも、止めないと…!」


絶望に震える白川の肩を、寺島がそっと叩いた。


「落ち着いてください。白川さん、大丈夫ですよ」


その声は、穏やかだった。白川が振り返ると、寺島は、初めて感情のこもった微笑みを浮かべていた。


「『不滅のゲーム』がなぜ伝説なのか、ご存知ですか?それは、最後にキング自身が、わざとチェックメイトされることで、盤面が完成するからです」


彼女の声が、白川の鼓膜を震わせた。


「自己犠牲、『真実という名の光を追い求めた愚かな王は、自らが最後の生贄となることで、新世界の礎となる』、つまり……」


白川の全身から、血の気が引いていく。


「次の標的は、あなたです。白川先輩」



白川譲は、自宅マンションで死体となって発見された。

その様は、まさに『不滅のゲーム』の最後の盤面を模した芸術作品だった。彼の体には、まるでチェス盤のように正確なマス目が無数に刻み込まれている。そして、切り裂かれた腹部からは、心臓や肝臓といった臓器が駒の形に精巧に切り出され、マス目の上に配置されていた。


現場に駆けつけた一課長と寺島は、その惨状に顔を歪めた。


「痛ましい限りだ…黒崎に続き、白川まで…。本当に、優秀な男だったが…」


一課長が、絞り出すように言った。


「ええ…。本当に、残念です…」


寺島は、ハンカチで目元を覆いながら答えた。


しかし、その瞳の奥には、「安堵」と「悦び」の色が、確かに浮かんでいた。


刑事・白川譲の亡骸が発見されてから一ヶ月。

事件は、第四の犠牲者である羽田陸の自殺による単独犯行として、早々に幕引きが図られた。黒崎、白川という二人の優秀な刑事が犠牲になったというのに、その結論はあまりに拙速で、作為的だった。


そして、その結論を主導したのが、彼らの直属の上司である捜査一課長と、白川の最後の相棒だった寺島梓であるという事実は、警察組織の最も暗い深淵に葬られた。

だが、その死んだはずの事件の残り火を、静かに見つめる者がいた。


警察庁警備局公安課、氷室健。

年齢は三十代半ばだが、その瞳は老人のように昏く、感情の揺らぎを感じさせない。彼は、一連の猟奇殺人を単なるカルト信者の暴走ではなく、社会秩序の根幹を揺るがす「思想テロ」として危険視し、極秘に調査を続けていた。


「王牌リウの思想…『あべこべ』の教義は、もはや都市伝説ではない。現実を侵食する、精神のパンデミックだ」


公安部の地下にある、窓のないオフィス。氷室は、膨大な資料が山積するデスクで、プロファイリングを担当する分析官・霧島玲奈に告げた。


「霧島、犯人像の再構築を急げ。羽田陸は『最初の使徒』に過ぎない。必ず、次の駒…『クイーン』と『キング』がいるはずだ」


「解析中です」


霧島は冷静に答える。


「ただ…氷室さん。敵は外部にだけいるのではありません。むしろ、私たちの背後に…」


その言葉を遮るように、オフィスに設置された特殊端末が警告音を発した。モニターに、日本地図が映し出され、各地に無数の赤い点が灯っては消えていく。


「始まったか…」


それは、思想汚染の全国的な拡大を示す兆候だった。

北海道の公園で、自らの指を切り落としシャンデリアのように木に吊るした若者。大阪の繁華街で、通行人の顔に『目』のマークを切りつけた通り魔。福岡では、動物の死骸を「あべこべ」に組み替えたオブジェが美術館の前に設置された。


模倣犯、信奉者、あるいは単なる愉快犯。動機は様々でも、その根底に流れる思想は同じ。王牌リウが遺した『黒の福音書』が、ネットの海を漂い、人々の歪んだ承認欲求と共鳴し、新たな「作品」を生み出し続けているのだ。


「これは、革命のための地ならしだ」


氷室は地図を睨みつけながら呟いた。


「思想への忠誠心を高めさせ、来るべき日に向けて狂気を増幅させている」


その革命の日が、王牌リウの誕生日である一ヶ月後だと氷室が突き止めた矢先、捜査一課から氷室の元へ、異動命令が下された。


「ご栄転おめでとうございます、氷室警視正」


一課長室。寺島梓は、笑みを浮かべて氷室にコーヒーを差し出した。


「あなたの優秀な頭脳は、現場で燻らせておくにはもったいない。これからは、我々を上から導いてください」


それは、牽制だった。これ以上、王牌リウの事件に首を突っ込むなという、静かな脅迫。

氷室は無表情でコーヒーを受け取ると、静かに口を開いた。


「一課長。白川刑事の遺品に、チェスの駒が一つ、紛れ込んでいたのを御存知ですか」


一課長と寺島の表情が、僅かに強張る。


「…彼が最後に遺したダイイング・メッセージかもしれません。駒の名は『キング』。そして、駒の底には、小さな傷で座標が刻まれていました」


それは、氷室が仕掛けた罠だった。心理的な揺さぶり。


「ご冗談を」


寺島が笑う。


「そんなものは報告にありませんでしたよ」


「そうか。では、私の勘違いだったようだ」


氷室はそう言って部屋を辞した。


罠は、効果を発揮した。

その夜、氷室の自宅マンションが、何者かによって徹底的に荒らされた。奴らは、氷室が本当に『キング』の駒を持っているか確認しに来たのだ。


氷室は、潜ませていた超小型カメラの映像から、侵入者が元公安の人間であり、今は一課長直属の特殊部隊にいることを確認する。警察内部の汚染は、氷室の想像以上に根深く、広く進行していたのだ。


氷室は、警察組織に見切りをつけ、水面下で反撃のチームを結成する。

メンバーは、プロファイラーの霧島玲奈。そして、白川の警察学校時代の同期の熱血漢、刑事の橘。最後に、公安時代に氷室が世話になった、フリージャーナリストの長谷部。


「見つけました」


アジト代わりの雑居ビルの一室で、霧島がモニターを指し示した。


「『黒の福音書』のオリジナルデータは、サーバーには存在しません。無数の断片データとして拡散、共有されています。全ての断片を集め、正しい鍵で開かなければ、完全な形では閲覧できない。そして、その鍵は…王牌リウの生体情報です」


指紋、虹彩、そしてDNA。リウの死体から採取されたそれらの情報は、警察の証拠品データベースに厳重に保管されているはずだった。


「データベースにアクセスできるのは、一課長以上の権限を持つ者だけ…」


タイムリミットは、リウの誕生日まであと一週間。

氷室たちは、陽動と潜入の二手に分かれる、危険な賭けに出た。


橘が、模倣犯を装って都内で騒ぎを起こし、一課の目を引きつける。その隙に、氷室と長谷部がデータベースへアクセスし、DNAを採取する。

計画は、成功した。だが、撤退する氷室たちの前に、寺島梓が立ち塞がった。


「やはり、あなたでしたか、氷室さん。ネズミが紛れ込んでいるとは思っていましたが…」


彼女の手には、特殊警棒が握られている。その瞳は、もはや刑事のものではなかった。思想に殉ずる、狂信者のそれだ。


「リウ先生が描く新世界を、あなたのような古い秩序の番人に汚させるわけにはいかない」


激しい格闘の末、氷室は深手を負いながらも、長谷部の助けで辛くも脱出に成功する。

アジトに戻った氷室は、採取したDNA情報を霧島に託した。


「頼む…」


意識が遠のく中、氷室は最後の命令を下す。

霧島の指が、猛烈な速度でキーボードを叩く。やがて、モニターに、これまで誰も見たことのない『黒の福音書』の最終章が映し出された。

そこには、リウが描いた革命の全貌が記されていた。


『最後の夜、聖地の中心で、百の生贄が自らの肉体を反転させ、新たな世界の扉を開く。偽りの王は玉座から引きずり下ろされ、その血は、我らが新世界の産湯となる』


そして、その聖地の場所を示す一枚の絵。それは、渋谷のスクランブル交差点だった。

百の生贄とは、思想に染まった信者たちによる、集団自決テロ。そして、偽りの王とは…その日、渋谷の特設会場で演説を行う予定の、内閣総理大臣。

王牌リウの計画は、単なる連続殺人などではなかった。国家そのものを「あべこべ」にひっくり返す、壮大な革命計画だったのだ。


リウの誕生日、当日。

渋谷の街は、厳戒態勢が敷かれていた。だが、それは表向きのものだった。一課長は、意図的に警備情報をテロリスト側にリークし、手薄なポイントを作り出していた。警察は、機能していない。

氷室は、傷の癒えぬ体を引きずり、橘、長谷部と共に渋谷へ向かった。霧島はアジトから、ハッキングによって彼らをサポートする。


彼らが止めなければ、日本は終わる。

スクランブル交差点を見下ろす、建設中の超高層ビル。そこに、寺島梓と、爆弾の起爆装置を抱えた信者たちが集結していた。広場にいる数万の群衆と、演説会場の総理大臣。その全てが、彼らのターゲットだった。


「もう遅いですよ、氷室さん」


屋上にたどり着いた氷室たちを、寺島が静かに迎えた。彼女の背後には、銃を構えた一課長の姿があった。


「世界は変わるのです。痛みの先にしか、真の芸術は生まれない」


「それは芸術じゃない。それは、ただの破壊だ」


氷室は、寺島の目を見据えて言った。


「リウも、そしてお前も、寂しかったんだろう。自分の痛みを、他者のせいにして、そうして、誰かに認めてほしかっただけだろう」


「黙れ!」


寺島が絶叫し、起爆スイッチに手をかけた、その瞬間。

一発の銃声が響き渡った。

眉間に風穴を開け、崩れ落ちたのは……一課長だった。

銃口を向けていたのは、ジャーナリストの長谷部。


「悪いな氷室。俺はただのハイエナだ。この国のシステムがひっくり返る瞬間を、こういう、特等席で見たかっただけなんでな」


長谷部は、不気味に笑った。彼もまた、別の形の破壊を望む、狂信者だったのだ。


寺島は勝ち誇ったようにスイッチを押そうとする。

だが、その指が届くよりも早く、橘が寺島にタックルし、二人は、屋上の縁を越えて、宙に舞った。


「うおおおおっ!」


橘は、寺島を道連れに、数十階下の闇へと消えていった。


「橘ッ!」


氷室の絶叫が、渋谷の夜空に響く。

その自己犠牲によって、起爆は阻止された。


事件は、終わった。

多くの犠牲の果てに、革命は阻止され、思想の首謀者たちは、捕らえられた。



一ヶ月後。

事件の公式発表は、一部のカルト教団によるテロ未遂事件として処理された。警察内部の汚染という、最も不都合な真実は、またしても闇に葬られた。

氷室は、全ての責任を問われる形で、警察を追われた。


夜の雑踏の中、氷室は一人、歩き続ける。

法も、組織も、彼を守ってはくれない。

だが、彼の瞳には、絶望の色はなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ