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巷に溢れた婚約破棄にまつわる物語

「心ある恩義には必ず報いる。何があってもそのことを忘れてはいけませんよ」


 それは幼いころからとくとくと教え込まれた、守るべき決まり事だった。

 黙って頷く。成長するにつれ、その言葉の意味と重みを理解できるようになり、いつしか違えてはならない約束になった。


 それでいいと思い、そうあるべきだと思えた。

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「トーラス・バーミリオン! 貴方との婚約は破棄させていただくわ!!」


 人ごみの中、彼女の扇が指し示した先には名を呼ばれた男が冷めきった目、感情のない表情で立っていた。

 声の主はこの国の騎士団長の一人娘であるミネルバ・キリフ侯爵令嬢。その(かたわ)らには嬉しそうな笑みを噛み潰すようにして寄り添う男がいる。ミネルバはトーラスの婚約者であった。


 意気揚々とした彼女の表情を見て、トーラスは彼女が人が多く発言を取り消すことのできない場を()えて選んだのだと理解した。本当に、こういう時ばかり頭が回る――冷めた顔の裏で、彼がそう毒づいたのは致し方ないだろう。


 学園の優秀者を表彰する祝賀会の会場には学園の生徒と、招待された多くの人がいた。もはや抑えられないざわめきに、彼は感情を押し殺しながら幼子を(さと)すように語りかけた。

 

「ミネルバ様、この婚約は王命のもの。相応の理由がなければ……あったとしても、易々(やすやす)(くつがえ)せるものではありませんよ。それら全て理解なさった上でのご発言でしょうか?」

「~~そういうところよッ! 本当に小賢(こざか)しいったら、自分が正義だとでもいうように偉そうにしてっ!! あんたのそういう言動に付き合わされるのはもうたくさんなのよ!!」


 貴族とは、いかに感情を抑えて家のために、ひいては国のために振る舞えるか。

 誰もが認める淑女とも、ましてや貴族ともいえない言動に、周囲は眉を(ひそ)め、そして小さく嘆息(たんそく)した。高位令嬢であり、騎士団長の息女という肩書を持つ人間の振る舞いとは言い難かった。


「そうですか。私に仰るような意図は微塵(みじん)もありませんでしたが、そのようにお考えだったのですね」

「ああいえばこう言う! 減らず口ばかりっ! うんざりなのよッ」

「……困りましたね。これでは私には何も言えない」

「言わなくて結構よ! 大体、あんたの高圧的なところも、人とは思えない冷たい態度も、もううんざり! あんたなんて学園中で嫌われているじゃない! 今こうしていても誰も助けに来ない。人望も何もないあんたが婿入りなんてしたら、我が家は終わりだわっ! あんたのような暗くて性格の悪い男より、彼のように人柄も実力も人気もある人が私には相応しいのよ!」


 その時になってやっと、傍らの男が半歩進み出た。それまでひっそりと気配を消していたが、今度は自分の番だと言いたげだった。

 

「僕たちを恨まないで欲しい、キリフ殿。ミネルバはずっと君の振る舞いに心を痛めていた。君の言葉に涙する令嬢や令息たちから、何度も何度も婚約者として(いさ)めて欲しいと泣きつかれ、その度に君に苦言を呈してきたが……君の態度が変わることはなかった。今日のこの事態は全て君の責任だよ」

「……ラレマン、随分と嬉しそうだな」

「そう見えてしまうのは君の心が酷く歪んでいるからでは?」


 よほど彼の方が悪辣(あくらつ)な顔をしていると思いながら、トーラスはミネルバに視線を向けた。


「ミネルバ様、あなたのお気持ちはわかりました。だが、私とあなたの婚約は今日まで正式に結ばれていたものです。それなのになぜ、そのような男にはしたなくも身を預けていらっしゃるのか。世間一般では、そのような行動を不貞と言うのですよ」

「うるさい! あんたなんてずっと大嫌いだったのよ! 私を大切にしようともしない男が婚約者を名乗るなんて図々しいったらない。破棄よ! あんたみたいな男、国中どこを探したって相手なんて見つかりやしないわ! せいぜい泣いて()うて、お情けで王宮にでも雇ってもらうがいいわ。頭と顔だけは見栄えがするんだもの、少しは役に立つでしょ。それとも、どこぞの未亡人でも(なぐさ)めるのが関の山ね!」

「フフ、ミネルバは優しいな。本来なら退学の上、蟄居(ちっきょ)でもいいくらいなのに」

「私は騎士団長の娘よ。身分がある者は下の者を教え導く義務があるとお父様に言われて育ったの。こんな男とはいえ、大罪を犯したわけではないのだから仕方ないわね」

「さすがだ。僕の女神」

「ウフフ」


 令嬢らしからぬ()()けな言葉に、会場中が声を(ひそ)める。本来であれば誰かが止めるべきだったが、式典前の会場には教師の姿はほとんどなく、また、国唯一無二の騎士団長の一人娘であり侯爵令嬢でもあるミネルバを(とが)めるのも難しい。


 ラレマンは地方領主の4男ではあるものの騎士としての将来を期待されており、トーラスは伯爵家ではあるものの後継ぎではない。(かば)う旨味が少ないのも原因の一つだった。

 伯爵次男が王からの覚えめでたい侯爵家に婿入りすることは一部の生徒から(ねた)みを買っていたし、言動はどうあれ高位令嬢であり美しくもあったミネルバの婚約者という肩書は非常に魅力的で、虎視眈々(こしたんたん)とその座を狙う者にしてみれば庇う義理もない。

 この婚約は王命――この言葉を正しく理解できれば、目先の利益よりも先々に得られるものは多くあっただろうに、会場の異様な空気は冷静さを失わせていたし、他人事でしかない招待客たちは余興を眺めるように黙り込んだ。

 

 一見すれば虐げられた生徒たちの代弁者と、断罪される悪役でしかない。だが、そこに割り込む声が状況を一変させた。

 

「なるほど、キリフ嬢はバーミリオン伯爵令息との婚約を()()()()()なさる、その意志は固いということね。それならば、私が彼に求婚してもいいってことになるわね」

「――は」


 人ごみをかき分け場へ進み出たのは、小柄で、小さな顔の半分を覆うような眼鏡をかけた垢ぬけない令嬢。クリス・アルトワ、隣国の商家の娘だった。


 クリスはある意味で一部の界隈において有名であった。勉強ができるだけの変わり者、人嫌い、ダサ女……なんとも不名誉な陰口の主、それが彼女だった。図々しくもクリスが出てきたのを見て、ミネルバは笑いがこらえきれなくなった。

 

「あはっ、あははは! いいわよ、いいじゃない! 良かったわね、トーラス? あんたが散々こき下ろしてきた愚図の平民に救いの手を差し出される。そんなのでも裕福な商家だもの、そこそこの生活はできるでしょう。こんな愉快なことったらないわ! あははっ、やだもう!」

「ふふっ、キリフ嬢ったら。本当に嬉しそうね。見ていて心底……愉快だわ」


 笑い転げるミネルバに、クリスは冷めた視線を送った。残念ながら眼鏡によって伝わることはなかったが。

 

「……平民が私にそんな口を利くのは本来であれば無礼打ちものだけど。仕方ないわね、同じ学園生だし、愉快な申し出に笑わせてもらったお礼よ、忘れてあげる。次はないわよ」


 雰囲気にのまれることもなく、空気を読めない令嬢と揶揄(やゆ)されることもあったクリスは、彼女の言葉に(ひる)む様子もなかった。

 ミネルバの横でラレマンが不快そうに表情を歪めていたが、それに気づいたのは躍り出たクリスと向かい合っていたトーラスだけだろう。

 

「アルトワ嬢、出て来るんじゃない!」

「あら、バーミリオン卿。それは聞けません」

「いいから! 君が巻き込まれる必要などないだろう、大人しく下がっているんだ」

「巻き込まれたつもりはないですよ。我が国に有益だと判断した結果です。それに、こんなバカげた茶番は見るも聞くも不愉快。さっさと終わりにして欲しいですからね」

「なんですって!?」

「アルトワ嬢!」


 飄々(ひょうひょう)と爆弾を投げ入れたクリスに、周囲がざわついた。


「次はないと言ったわよね。平民ごとき、どのような処罰をされても仕方ないわよ」


 美しかったはずの表情を醜く歪ませ、ミネルバは吐き捨てた。


「ミネルバ様、おやめください。彼女は私に恩義を感じてくれていただけです。婚約破棄は承りました。だからもう良いでしょう!」

「うるさいっ! あんたごとき、私に指図できると思わないで!」

「――ああ、本当、うるさい。……あの下劣な女を少し黙らせて」


 クリスの言葉に複数の人影が躍り出て、ミネルバとラレマンを拘束した。あまりの早さに、誰もが事態を理解しきれない。

 

「な、何を……ぐむっ」

「は、な、ンンン!!」


 二人とも、猿轡(さるぐつわ)をされ後ろ手に縛られ、転がされる。それを何も感じない様子で見下ろすクリスに、トーラスも言葉を失った。

 

「アルトワ嬢、さすがにこれは」

「下種で下劣な無礼者を尊重する必要などありますか? 私への無礼だけならばともかく、王女の未来の配偶者をこのように扱うなどと、我が国としてその侮辱を受け入れるわけにはいかないわ」


 クリスはそれまで決して外そうとしなかった眼鏡を、この時になって初めて外した。垢ぬけない原因の一つでもあったひっ詰めた髪も、せいせいしたとばかりに緩め、輝く髪を自由にさせる。

 少々大人しめの地味なドレスは流行りをさりげなく押さえた上質な布地のものだったし、小振りで控えめなアクセサリーは澄んだ輝きを(まと)う希少なもの。眼鏡を外した彼女の顔は宝石のような瞳を(たた)え、見るものの息を奪うほどだった。


「…………お、う、じょ」

「ふふ、さすがのあなたでもそのような顔をなさるのね」

「……王女。隣国の、王女?」


 トーラスは混乱する頭を冷静に整理し、隣国の王族の名を反芻(はんすう)した。

 隣国には4人の王子と2人の王女がいる。1人はすでに他国へ嫁いでいた。残されたもう1人の王女は、成人前ではなかったか。そのため、正式なお披露目はされておらず、他国との公的な行事にも参加をしたことはない。

 だが、王室珠玉の宝石と、末の姫を兄弟たちは溺愛していると噂されていた。そう、まさに今、自分たちと近い年ごろの。


「まさか」

「トーラス・バーミリオン伯爵令息、わたくし、クリステル・ウダルリヒの婚約者になっていただけますか? 王女の配偶者としてあなたには常人には耐えがたい重責(じゅうせき)が付きまとうでしょう。しかし、誠実で意思を貫くために努力を惜しまないあなたの姿勢、類まれなるそのお人柄ならば安心してその重責を預けられる。わたくしは王族として、妻として、あなたの献身に()()()()()()と誓いますわ」


 クリステル・ウダルリヒと名乗った商家の娘クリス・アルトワは、トーラスの前でスカートを軽やかに(つま)み上げ、足を引くと腰を落とし目礼した。その美しい所作に、周囲が息を飲む。

 これは王族としては異例の、へりくだった作法だった。クリステル・ウルダリヒ、それはまさに隣国の末姫の名だというのに。

 

「アルトワ嬢……」

「トーラス様、どうぞクリステルと。本来の名はクリステルですが、呼びやすいのであれば名乗っていたクリスでも構いませんよ? 私たちは近い将来夫婦になるのですもの」


 それではまるで愛称のようだと思ったトーラスは、無難に本来の名を呼ぶことにした。


「ク、クリステル嬢。頼む、立ってくれ」

「では、求婚を受け入れてくださると?」

「それとこれは話が別だ……でしょう。貴女が隣国の王女だと知らずにいた私の粗野な振る舞いを、どうぞお許しください」

「求婚を受け入れないのなら、私はずっとこのままよ。紳士たれと己を戒めるあなたにそんな所業、できるかしら。どうなさるの?」

「……とんでもない脅しだ」

「ええ、そうね。でも悪くないでしょう?」

 

 初めて見る眼鏡のない彼女のいたずらめいた表情に、ああこれはやはりクリス・アルトワなのだと、トーラスは嫌というほど実感した。


 そう、彼女はいつもそうだった。

 


 

 ◇◆◇

 


 

「アルトワ嬢、君はどうしてそうなんだ!」


 夕暮れの教室で本に埋もれた少女を、トーラスは怒鳴りつけた。

 ご令嬢を怒鳴るなど、紳士の風上にもおけない。そう思っていた頃が、彼にもあった。だが、それは早々に忘れ去られた矜持(きょうじ)だった。

 

 クリス・アルトワ。

 隣国の商家の娘で、こちらの国にある店を拡大することを視野に、将来のためと留学してきたという少女だった。

 

 クリスは顔の半分を覆う無骨な眼鏡と、小柄な体を隠すように着込んだ見合わない大きな制服に無造作にひっ詰めた飾り気のない髪型。お世辞にも見目好いとはいえず、裕福とはいえ貴族でもない彼女ははっきり言えばとても浮いていた。


 本人の性格のせいでもあっただろうと、トーラスなどは思う。とにかく大雑把で人目も気にしない。自分の興味のあるものには信じられないほどのめり込み、貴族に求められるような空気を察するなどということは一切しない。

 はじめて言葉を交わした時にはとんでもないヤツだと驚いたものだが、少し接すれば彼女の人となりはすぐにわかる。

 確かに変わり者ではあるが、裏表のない、いっそ清々(すがすが)しいほどはっきりとした女性だと理解できた。そう、クリスはとんでもなく自分に正直なのだが、それは決して他者に危害を加えるようなものではなく、ただただ、自身にまつわることを純粋に追及しているだけに過ぎない。


 貴族とは身分や地位はあってもいずれも窮屈なもので、彼女のその奔放(ほんぽう)さを(まば)ゆく思うのは自分だけではないだろうと彼は思っていたが、残念ながら令嬢たちからは忌避(きひ)され、ある意味嫉妬を買っているだけであった。


 そんな周囲の視線など意に介さず、彼女はいつも正々堂々と自分に向き合っていた。トーラスには彼女の生きざまが羨ましく、いっそ親愛すら芽生えつつあった。


「あら、バーミリオン卿。どうしたのですか?」

「どうした、ではない! この惨状をどうするつもりだ」


 次から次へ本や資料を漁るので、彼女の周りはいつも雑多で汚かった。傍らには飲み残したグラスや食べ残した軽食が落ちている。


「んー。どうしましょう?」


 クリスにつけられていた案内役はなんのメリットもないと判断し、一日も経たないうちに姿を消した。クリスもそれで構わないといった風情で、見かねたトーラスが声をかけた。ずるずると世話を焼き、今に至る。

 何しろ放っておくと、食事すらしない。ただでさえ細身な体躯を、彼は心配していた。


「片づけろ、手伝うから!」

「ふふ、しょうがないですねぇ」


 留学生で平民で、それなのに満点入学の彼女が扱う言語は多岐(たき)にわたる。

 例えばこの国でも共通語である大陸語。


『どうして君はそんなのんきなんだ』

『生まれつきですねぇ』


 帝国語。


<そういうのを、世間では開き直りと言うだろうな>

<そうかもしれませんね。でも仕方ないです、人はそんな簡単に変われませんよ>


 古代五大陸語。


「全く……」


 この国の王族でもここまで流暢(りゅうちょう)に会話はできない。トーラスの努力はこんなところでも垣間見えた。

 

「バーミリオン卿と話すと、語学の良い訓練になります」

「それは……光栄だと言うべきか。言語は使わなければ薄れていってしまう。俺も君と話せて良かったと思っている」

 

 クリスはトーラスを好ましく思っていた。だからいつも相手をしたし、楽しんでいた。世話焼きで、努力家。婚約者に恵まれなかったかわいそうな人。きっともっと彼が彼らしく活きる場があるのに、そう思っていた。

 

 国防の要である騎士団長を(よう)した侯爵家に婿入りするにあたり、条件の一つが大陸語以外に帝国語と隣国の言葉を修めることで、それをクリアできる令息はなかなかいない中、トーラスに白羽の矢が立った。

 この国は長く続く隣国や帝国との争いによって政情が不安定で、騎士団に携わる侯爵家は外交の一部を担う。


「バーミリオン卿は損な性分ですね」

「誰のせいだ?」

「あらやだ。ふふっ。今つつかなくて良い藪をつつくより、これらを片した方が生産的ですね」

「わかればいい。さっさと片して暗くなる前に帰りなさい。君は若い女性なんだ、ちゃんと身を守ることを考えろ」

「本当、損な人」


 口うるさいなどと陰口を言われることもあったが、彼の言うことが正論であることをクリスは知っていた。

 後ろめたいことをしている人間、面倒ごとを忌避する人間からすれば煙たがられるが、彼の言うことはいつも正しい。それは本当にその人の将来を思い、(つむ)がれた言葉だった。

 だから彼女も大人しく言うことを聞くし、好ましいと思うのだ。この「大人しく」という解釈に、トーラスが異議を唱えるのはまた別の話であるが。

 

 ただ、正しいことが全て正解とは限らない。この世では白黒よりも灰色が好まれるし、思うよりもはるかに多いのだ。

 それは今、彼の置かれた状況を如実(にょじつ)に表していた。

 

()()()お一人なのですね」

「……俺が一人でいて君に何か問題があるか?」

「いいえ、全く。むしろ私には好都合ですねぇ。だってこうして手伝って下さるし、お話はできるし。けれど、あなたの立場からしたら私にかかかわるのは望ましいことではないでしょう? 私に関わる時間は、本来は婚約者様のものなのだから」

「君は本当に皮肉屋だな」

「困ったものですねぇ」

「全然困ったように見えないから困るよ」


 彼女とならポンポンと会話が進むのに、婚約者とはそうもいかないことをトーラスは苦々しい気持ちで思い出す。

 何を言おうと聞く耳を持たず、あまつさえ無視する。最近は何やら後ろ暗い者たちから嘘を吹き込まれ泣きつかれたらしく、無駄な正義感を振りかざして明後日なことを言い出すことも増えた。

 この婚約は王命なのに、一体彼女は何を考えているのだろうか。考え出すと気が滅入り、クリスとの会話に癒されてすらいる。

 

 クリス・アルトワはとても頭が良い。

 見た目で損をしているが、身に着けているものは地味でもよく見れば一級品であるし、所作は時折はっとさせられるほどに洗練されている。無造作に結ばれた髪も艶があり、いつか下ろしてみてはくれないかと……そんな邪な気持ちを抱いて、トーラスは頭を振って考えを追い払った。

 

(いっそ、彼女が婚約者だったならよかった。この婚約が王命などでなければ、隣国で彼女の仕事を手伝う方がよほど楽しいだろう。皆は彼女を商人だのと(おとし)めるが、生まれなど、誰しも選べない。農民だろうが商人だろうが王族だろうが、どれがが欠けても国は成立せず、誰が欠けても国が回るというのにな)


 憧れが親愛に変わり、いつしか親愛とは言えなくなる感情に変わりつつあったことを今は自覚している。

 彼はその気持ちを、大切に大切に美しいレースで包み心の奥にしまい込んで、正しく友人として接していた。この恋が叶う事はない。ほんの短かのモラトリアムを大切にして、それを誰が(とが)められるだろうかと自嘲(じちょう)した。

 貴族という(かせ)としがらみに(から)めとられた自分でも、心だけは自由でいること。それは彼女へ(ほこ)れる数少ない自分の一つなのだと、いつしか考えるようになっていた。

 

 ミネルバもそうであったなら、愛はなくともきっと尊重し合える夫婦になれるはずだ。こちらも叶いそうにないことが、人が営み生きるという難しさを考えさせられる。

 

「また()()()()ことを考えているのでしょう。バーミリオン卿は少し()(まま)でも良いくらいですよ」

「俺まで我が儘だったら、こんな婚約なぞ即破綻するだろうな。無理だとわかっていて言うのだから、本当に君は良い性格をしているよ」

「大切な友人が婚約者に(ないがし)ろにされて、私だって怒っているのですよ」


 大切な友人。その言葉にトーラスは心が満たされた気がした。彼女がそう思っていてくれることがとても嬉しかった。

 

「ありがとう」

「ねぇ、バーミリオン卿。もし本当にどうにもならなず苦しい時には、私に助けを求めてください」

「そうならずに済むことを俺は願うべきだろうな。君の心配が取り越し苦労になるように」

「――バーミリオン卿。私はあなたに恩義を感じているのです。あなたから求められ差し出されたら必ずその手を掴みます。だから、約束ですよ」

「アルトワ嬢……?」

「私のこの”約束”はとても重いもの。絶対に違えない、何があっても。そのことを決して忘れないで」


 その真剣な眼差しを、教室を照らした夕焼けの色を、その香りも、トーラスはいつまでも忘れることはできなかった。

 分厚い無骨な眼鏡の奥で、彼女の瞳が自分を捉えて離さずにいる。そんな気がした。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「全く、君は本当に俺を困らせることが好きだな」

「そうね。あなたがそう思うなら、それはきっと正しいわ」

「クリステル嬢、そろそろそうやって俺を茶化すのはやめないか」

「あなたもいい加減、呼び方を改めなさいな。ね、未来の旦那様?」

「ぐっ……」


 あの混沌とした婚約破棄騒動から半年、トーラスの姿は隣国の王宮にあった。もちろん、傍らにはクリステルがいる。


 クリステルは己の身分を意図せず(おおやけ)にしたことで、留学をやめ、国へ戻ることになった。元々身分がバレたら終わりだという約束で留学したこともあって、意図しなかったタイミングとはいえ、彼女自身の意思で明かしたので国に戻ることに否やはなかったが、トーラス一人を置いていくことは大変に渋った。


 当然、あれだけの騒ぎを起こしたのだから、ミネルバとトーラスの婚約はミネルバの有責で破棄された。

 王命の婚約だったために国や侯爵家としては丸く納めたかっただろうが、隣国の王女が求婚すると出てきてしまった。

 さらに、身分を偽っていたとはいえ、クリステルに対するミネルバの言動は目に余った。もはやどうにもならず彼女は廃嫡されることになる。

 

 トーラスは学園卒業を待たず、今度は彼がこちらに留学をすることになり、王宮では王族の配偶者としての教育を受けながら卒業後はそのまま滞在し、クリステルが卒業したと同時に婚姻することに決まっている。

 

 そう、クリステルは年齢を偽り飛び級で学園に入学していた。近い年ごろとはいえ成長期である彼らに数年の差は大きい。道理で小柄なはずだと、彼女の状況を知って納得をした。

 

(彼女のいたずら好きも、成長と共に落ち着いてくれれば良いが。きっと、変わらないのだろうな)


 周囲のとりなしもあって渋々、先に国に戻ったクリステルは、トーラスのためにこれでもかと環境を整えて待っていた。トーラスもさすがにすぐに何もかもを投げ捨てて国を出るわけにいかなかったので、本当に渋々ではあったが、彼女が納得してくれてほっとしたのだった。

 

「トーラス?」

「クリステル……」

「及第点ね。まぁ、アルトワと呼ばなくなったのだもの。充分だわ」


 クリステルはトーラスの鼻先を指先でつついた。

 そんな彼女にトーラスはたじたじで、彼女の日々の振る舞いに目元と耳を赤くするばかりである。

 

「わたくしはね、それはもう、大変にかわいがられて育ったの」


 彼女の両親、兄姉共に末姫を溺愛しているというのは隣国ですら伝え聞いていたので、そうだろうとトーラスは黙って頷く。

 育ったの、というが、まだ成人前の彼女は現状も大変にかわいがられて過ごしている状態だ。

 

「だからね。自分の将来の伴侶は、絶対に溺愛するって決めていたのよ」

「――は」

「覚悟してね、未来の旦那様?」


 そう言い、トーラスの手を握り込んで指を滑り込ませる。ただ触れるのとは違う、恋人たちがするように手を(つな)ぐ。

 自身の手に触れる柔らかな素手の感触に、トーラスは顔を真っ赤に染め上げた。


「~~~~っ、君は! そうやって!」

「うふふ!」


 いたずらが成功したと、クリステルは満足気である。

 

「全く! 君は!!」

「怒った?」

「怒ってはいない!」

「お茶を飲む?」

「いただこう!」


 気を取り直して茶を飲み、正面に座る(うるわ)しの婚約者を見下ろす。まだ成人前の彼女は華奢(きゃしゃ)で、あどけなさがある。トーラスは思春期真っ只中の17歳。クリステルはこれからますます花開いてゆくであろう、未だ蕾の14歳。成人まであと2年、卒業まで正式にはあと3年。待つことは何の問題もないが、いずれ彼女が成長した時、果たして自分は今以上に冷静でいられるだろうかと、トーラスは今から気をもんでいる。ただでさえ今もこれだけ振り回されているのに、我ながら心配で仕方がないと日夜、悶々としていた。


 この頃は学問だけでなく、配偶者教育も始まった。(ねや)ごとの指導について座学だけで実践は勘弁してほしいと頼み込んで、生温(なまぬる)い目で義兄王子たちにニヨニヨされたのも記憶に新しい。

 王族とはいえ彼女は跡継ぎではないし、先の後継のことは義兄たちが頑張れば良いだろうと、彼などは思っている。それに、もし実践などしたら……クリステルへの衝動を抑えきれる気がしないのだ。

 

「ふむ」

「どうなさったの?」


 あどけなさの残る、大人になりかけの危うい色気を纏った少女が自分だけを見つめている。

 それがどれほど幸運で、得難(えがた)いものであるか……恋心をしまい込んでいた彼には痛いほどわかっていた。叶わないと思っていた恋が、想像もできない形で実を結んだことに、人生の奥深さを考えさせられる。

 

「また()()()()ことを考えているのね」


 それには答えず笑んで、クリステルの頬へ手を伸ばす。柔らかな頬は(なめ)らかで、あご先、首筋へと指先を(すべ)らせる。

 

「ト、トーラス……?」

「今は君の愛らしさ免じ、その仕打ちを甘んじて受けよう。だが、婚姻後は……わかるよな? 夜も朝も絶え間なく君をかわいがるれることを、今から楽しみにしているよ」

「な、な、なんっ……!?」

「あっはは! 君こそ、かわいいな!」

「か、からかっているのね!?」


 茹でダコよりも顔を真っ赤に染め上げたかわいい婚約者に参っている自覚が、彼にはもちろんある。

 驚きと困惑で離れて行きそうな彼女の指をしっかりと絡め取り、トーラスはその指先をぱくりと口に含んだ。

 

「ぴゃっ」

「愛しているよ、かわいいかわいい、俺だけの婚約者殿?」


 長閑(のどか)な日差しと風に花が揺れる王宮の庭園に、彼の笑い声と彼女の困惑した鳴き声が響く。

 こうしてずっと側にいられる日々を、彼は夢見る。失わないよう、願いながら。

王道の婚約破棄ものをやはり一度は書いてみたくて……。

はじめての全年齢。ルビ多めでお送りしました。

ショートなのでざまぁはうっすらですが、裏ではしっかりお灸を据えられております。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。さらにぽちぽちっとしていただけると飛び上がって泣いて喜びます!

暑い日が続きますのでご自愛くださいませ。

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