4話 「再生の神話、島の記憶」
波照間島の集落を抜けて、三人はナギサの家へと向かった。
道すがら、サラがふと立ち止まり、遠くに広がる畑と、その向こうの海を眺める。
「……この島の空気、やっぱり特別だと思わない?」
悠馬は、深呼吸してみる。潮の香りと、土の匂い。南国の強い陽射しが、肌にじりじりと焼きつく。
「うん。なんだか、時間の流れが違う気がする。都会じゃ感じられない“何か”が、ここにはある」
ナギサが、振り向いてにっこり笑う。
「お兄さん、波照間は“神の島”って言われてるんだよ。昔から、いろんな神様が住んでるっておばあが教えてくれた」
サラが頷く。
「八重山の島々には、南の海の彼方に“ニライカナイ”っていう神々の国があるって信仰があるの。波照間にも“パイパティローマ”っていう楽園の伝説があるのよ」
悠馬は、ノートにメモを取りながら歩く。
「“パイパティローマ”……南の彼方の楽園。ムーの記憶が、こうした伝説に姿を変えて残ったのかもしれないな」
ナギサの家は、集落の外れにあった。赤瓦の屋根と、白い石垣に囲まれた古い家。庭にはハイビスカスが咲き、木陰でヤギがのんびりと草を食んでいる。
「ただいまー!」
ナギサが玄関を開けると、奥からゆったりとした声が響いた。
「おかえり、ナギサ。今日はお友達も一緒かい?」
現れたのは、ナギサの祖母・アカネだった。白髪をきっちり結い、深い皺の刻まれた顔には、どこか神々しさが漂う。
「おばあ、先生たちを連れてきたよ。石版のこと、聞きたいって」
アカネは、悠馬とサラをじっと見つめ、にっこりと微笑んだ。
「遠いところから、よく来てくれたね。さあ、上がってお茶でも飲みなさい」
縁側に腰を下ろすと、アカネが冷たいサトウキビ茶を出してくれる。
悠馬は、石版をタオルに包んだまま、そっと差し出した。
「突然お邪魔してすみません。この石版を、ナギサちゃんが浜で見つけました。何か、心当たりはありませんか?」
アカネは、石版を手に取り、じっと見つめた。
指先で模様をなぞり、しばらく黙っていたが、やがて静かに語り始めた。
「……これは、昔から“神の記憶”と呼ばれてきたものに似ているよ。島には、海の彼方から来た神様と、油雨の伝説がある。お前たちは“兄妹始祖神話”を知っているかい?」
サラが頷く。
「はい。洞窟に隠れた兄妹だけが生き残り、そこから島の再生が始まったという話ですね」
アカネは、遠い目をして語り始める。
「昔々、天の神様が人々の悪行を怒って、島に熱い油の雨を降らせた。すべての生き物が焼き尽くされ、ただひと組の兄妹だけが、ミシク浜の洞窟に隠れて生き残った。兄妹は洞窟から高台へ移り住み、井戸を掘り、片屋根の小屋を作って暮らした。最初の子は毒魚に、二番目は海ムカデになったが、三番目の子を清水で洗うと、ようやく人間の子が生まれた。それが“アラマリヌパー”、新しく生まれた女で、島の祖先となったんだよ」
悠馬は、夢の中で見た壁画と、アマテの言葉を思い出す。
「……ムーの神殿でも、同じような場面を見ました。大災害、洞窟、井戸、そして再生の女神……」
アカネが頷く。
「この島の御嶽や井戸は、今も“神の声”を聞く場所として大切にされている。水の満ち引きや、井戸の水位で、作物の豊凶や異変を占うんだよ」
サラが、石版の文字を指差す。
「この文字、御嶽の石碑や、古い祭場の壷にも似ている気がします」
アカネは目を細める。
「そうさ。昔の人は、神様の言葉を石に刻んで残した。だけど、読むことができる者は、今はもうほとんどいないよ」
悠馬が、慎重に尋ねる。
「アカネさん、島の伝承や神話は、どのように語り継がれてきたのですか?」
アカネは、深く頷き、語り始めた。
「昔は、夜になると家族が火を囲んで、祖父母が子や孫に話して聞かせた。神話も、災害の記憶も、みんな“言葉”で伝えてきたんだよ。だから、話すたびに少しずつ形が変わっていく。けれど、大切なことは変わらない。人は、何度でもやり直せる。たとえすべてを失っても、また新しい命が生まれる――それが、この島の神話の“根っこ”なんだよ」
サラが、感慨深げに呟く。
「……再生の神話。失われたものの記憶が、こうして今に生きている」
ナギサが、膝を抱えて聞き入っている。
「おばあ、アラマリヌパーのお墓って、ほんとにあるの?」
アカネは微笑む。
「あるさ。島の北の丘に、小さな石のお墓がある。今も、年に一度、島の人たちが花を手向けに行くんだよ。あの墓は、島の新しい始まりを祝う場所でもあるんだ」
悠馬は、ノートに夢中でメモを取りながら、ふとアカネに尋ねた。
「……油雨の伝説は、何か実際の出来事がもとになっているのでしょうか?」
アカネは、しばらく考え込んだ。
「さあね。昔の人は、火山の噴火や、空から降る火のような現象を“油雨”と呼んだのかもしれない。海の向こうで大きな火山が噴いたり、空が赤く染まったりしたことがあったのかもね」
サラが補足する。
「学者の間では、南西諸島の神話や伝承は、実際の自然災害の記憶が神話化したものだと考えられているの。ムーの伝説も、そうした記憶の集積なのかもしれないわ」
アカネは、石版を悠馬に返しながら、静かに言った。
「お前さんたちが調べていることは、きっと大切な意味があるよ。神話も、記憶も、語り継ぐ者がいなければ消えてしまう。どうか、この島の記憶を大事にしておくれ」
悠馬は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。必ず、この石版と島の伝承を、未来に伝えます」
アカネは、にっこりと微笑んだ。
「それでこそ、記憶の橋を渡る者だよ」
その言葉に、悠馬の胸が熱くなる。
夢と現実、過去と未来が、一本の細い糸で繋がっている――そんな感覚が、静かに広がっていった。
縁側に涼しい風が吹き抜ける。
ナギサは祖母アカネの膝に頭をのせ、サラは石版の模様をノートに写し取り、悠馬は夢中でメモを続けていた。
「おばあ、アラマリヌパーのお墓、今もみんなでお参りするの?」
ナギサの問いに、アカネはゆっくりと頷いた。
「そうさ。毎年のお祭りのときには、島の人たちが花や果物を持ってお墓に集まる。アラマリヌパーは“新しく生まれた女”――波照間の人々の始祖であり、再生の象徴なんだよ」
悠馬は、夢の中で見た“再生の女神”の姿を思い出す。
「……夢で見た壁画にも、洞窟から現れる女神が描かれていました。島の神話と、ムーの記憶が重なっている気がします」
サラが、石版の文字を指でなぞる。
「この“渦巻き”の文様、井戸や泉、洞窟の入り口にも彫られているのを見たことがある。水や再生の象徴なのかな」
アカネは、遠い目をして語る。
「昔の人は、井戸や泉を“命の入り口”と考えていた。水が枯れれば命も絶える。だから、井戸の水位や清らかさで、作物や天変地異を占ったんだよ」
「“世の定めのカメ”……」
サラが呟く。
「島の祭場には、水を貯める壷があって、水位が下がると旱魃、高くなると台風が来ると信じられていたそうです」
アカネが頷く。
「そうさ。壷の水は、神様が島の運命を示す“言葉”だった。だから、壷や井戸は今も大切に守られているよ」
悠馬は、ふと石版を両手で持ち上げた。
「この石版も、きっと島の人たちが“神の記憶”として大切にしてきたものなんですね」
アカネは、悠馬の目をじっと見つめる。
「お前さん、夢で“ムー”のことを見たと言ったね。昔から、島の神話は海の彼方から来た神様の話が多い。南の楽園“パイパティローマ”や、遠い大陸から流れ着いた兄妹の話……。もしかしたら、ほんとうに昔、海の向こうから人がやってきて、この島に新しい命をもたらしたのかもしれないよ」
ナギサが、目を輝かせて言う。
「お兄さん、アラマリヌパーも、ムーの女神だったのかな?」
悠馬は、微笑みながら頷いた。
「そうかもしれない。島の神話も、ムーの記憶も、どこかで繋がっている気がする」
サラが、ふと真剣な表情になる。
「先生、もしムーの記憶が日本や琉球の神話の源流だとしたら、私たちが今ここで調べていることは、とても大きな意味を持つわ」
悠馬は、石版をそっと撫でる。
「……でも、真実をすべて明かすことが、現代の人々にとって幸せなのかどうか……。僕にはまだ、答えが出せません」
アカネが、静かに微笑む。
「真実は、時に重いものさ。けれど、記憶を託す者がいる限り、物語は消えない。お前さんたちが感じたこと、見たことを、どうか大事にしておくれ」
縁側の向こう、庭のハイビスカスが風に揺れる。
しばし沈黙が流れたあと、サラが口を開く。
「……おばあ、今夜、御嶽で“夢見”の儀式をしてもいい?」
アカネは、少し驚いたようにサラを見たが、やがてゆっくりと頷いた。
「いいとも。サラは巫女の家系だ。島の神様も、きっと歓迎してくれるよ」
ナギサが嬉しそうに跳ね上がる。
「わたしも行きたい!」
悠馬も、決意を込めて言った。
「僕も参加させてください。夢と現実のはざまで、何か大切なものを受け取れる気がするんです」
アカネは、三人を見渡して微笑んだ。
「みんなで行くといい。御嶽は島の“記憶の井戸”だ。きっと、神様が何かを見せてくれるよ」
その夜、三人は島の御嶽へ向かった。
月明かりの下、森の奥にひっそりと佇む聖地。
サラが白い衣をまとい、静かに祈りの言葉を唱える。悠馬とナギサも、そっと手を合わせた。
「……神よ、遠い過去の記憶を、私たちにお示しください……」
風が、森を渡る。
悠馬の意識が、再び遠ざかっていく――。
――黄金色の空、沈みゆく大地。
アマテの声が、どこかで響いていた。
「悠馬……記憶の橋を渡りなさい。ムーの最後の光を、未来へ伝えて……」
悠馬は、夢と現実のあわいで、島の神話とムーの記憶がひとつに溶け合うのを感じていた。
波照間島の夜空には、無数の星が瞬いていた。
その下で、三人の“記憶の旅”は、静かに新たな段階へと進み始めていた――。