3話 伝承の島、目覚めの記憶
朝の光が、波照間島の浜辺をまぶしく照らしていた。
悠馬は、まだ夢の余韻を引きずったまま、砂の上に座り込んでいた。頭の奥に残る、アマテの声とラグナ王子の眼差し。現実と夢の境界が、ぼんやりと曖昧になっている。
「先生、顔色悪いよ。大丈夫?」
ナギサが、心配そうに覗き込む。
サラも、石版をそっとタオルで包みながら、悠馬の隣に腰を下ろした。
「……ありがとう、二人とも。ちょっと、不思議な夢を見ていたんだ」
「どんな夢?」
ナギサが興味津々で身を乗り出す。
悠馬は、しばし言葉を探してから、ゆっくりと語りはじめた。
「……ムーという、太平洋にあったとされる伝説の大陸。そこに、アマテという巫女と、ラグナという王子がいた。王国は滅びの危機にあって、彼らは“記憶の橋”を未来へ託そうとしていたんだ」
サラは目を見開く。
「まるで、石版の伝説そのものね……。でも、どうして先生がそんな夢を?」
「わからない。でも、石版に触れた瞬間、何かが流れ込んできた気がする。あの夢の中の光景や人々の声が、今もはっきり残ってるんだ」
ナギサが、石版をじっと見つめる。
「お兄さん、これ、やっぱり“お告げ”なんじゃない? うちのおばあも、たまに不思議な夢を見るって言ってたよ」
サラが苦笑する。
「ナギサちゃんのおばあは、島の伝承をたくさん知ってるものね。……先生、今日の午後、ナギサちゃんの家に行ってみない? おばあに話を聞いてみたら、何かわかるかもしれない」
悠馬は頷いた。
「そうだな……。今は、どんな小さな手がかりでも知りたい。夢の内容も、できるだけメモしておこう」
彼はリュックからノートを取り出し、夢の中で見た神殿の構造や壁画、アマテの言葉を、記憶の限り書き留めていった。
「……“記憶の橋”か。ムーの知識や神話が、東の地へ伝わる……」
サラが、ふと石版の表面を指でなぞる。
「先生、この文字……やっぱり、どこかで見たことがある気がするの。沖縄の古い御嶽や、神社の石碑に似てる部分があるわ」
「御嶽……沖縄の聖地だよね。もしかして、ムーの信仰や言語が、琉球の神話や祭祀に影響を与えているのかもしれない」
悠馬は、ふと興奮したように身を乗り出した。
「サラさん、ナギサちゃん、この島には他にも古い伝承や遺物が残っている?」
ナギサが、得意げに頷く。
「うん! おばあの家には、昔から伝わる貝殻の首飾りとか、古い石のお守りがあるよ。あと、島の北の森には“神の井戸”って呼ばれる場所があって、夜になると不思議な光が見えるって言われてる」
サラが補足する。
「波照間島は、古くから“神の島”と呼ばれてきたの。南方系の神話や、海の彼方から来た神様の伝承が多い。もしかすると、それがムーの記憶と繋がっているのかもしれないわ」
悠馬は、ノートに新たなメモを書き加えた。
「……夢の中で見た神殿の壁画には、巨大な波や、空を飛ぶ鳥人の姿が描かれていた。日本各地の神話にも、鳥や波、太陽の神が登場する。これらがムーから伝わったとしたら……」
サラが、ふと真剣な表情になる。
「先生、もし本当にムーの記憶が日本神話の源流だとしたら、私たちが今ここで調べていることは、とんでもない発見になるわ」
「……ああ。けれど、証拠が必要だ。石版の文字を解読し、島の伝承や遺物と照合しなければならない」
その時、ナギサが小さく手を挙げた。
「ねぇ、先生。おばあの家に行く前に、“神の井戸”を見に行こうよ。朝の光が差し込むとき、不思議な模様が浮かび上がるって言われてるんだ」
サラが微笑む。
「いい提案ね。先生、どうする?」
悠馬は、石版とガラス玉をリュックにしまい、立ち上がった。
「よし、行こう。現地を見て、できるだけ多くの情報を集めたい」
ナギサが、嬉しそうに先頭に立つ。
「じゃあ、ついてきて! 森の入り口は、集落の奥にあるんだ」
こうして三人は、島の北部に広がる森へと足を踏み入れた。
森の中は、朝の光が木漏れ日となって降り注ぎ、鳥のさえずりが響いている。
ナギサが、慣れた足取りで小道を進む。
「この道、昔は村の人しか通らなかったんだって。今は観光客も増えたけど、奥のほうは誰も入らないよ」
サラが、木々の間に見える石積みを指差す。
「見て、あれが“御嶽”の跡よ。昔の祭祀場だった場所」
悠馬は、石積みに近づき、カメラで写真を撮る。
「苔むした石……積み方が、沖縄のグスク(城)や、南方の遺跡に似ている。もしかすると、ムーの建築技術が伝わったのかもしれない」
サラが、そっと石に手を当てる。
「……この島の御嶽には、今も“海の彼方から来た神”を祀る祭りが残っているの。私の家系も、巫女の血を引いていると言われていて……」
悠馬は、サラの横顔を見つめた。
「サラさん、巫女の家系って、どんなものなんだ?」
サラは、少し恥ずかしそうに笑った。
「昔は、村の行事や祭りで、神に祈りを捧げる役目を担っていたの。今は形式的だけど、祖母や母が、代々その役目を受け継いでいる。私も、小さい頃から“夢見”の儀式を教わったわ」
「夢見……?」
「はい。夜、神聖な場所で眠り、夢の中で神様の声を聞くの。時には、遠い昔の景色や、知らない言葉が浮かぶこともある」
悠馬は、思わず息を呑んだ。
「それは……僕が体験した夢と、同じじゃないか」
サラが、真剣な眼差しで頷く。
「先生が石版に触れて見た夢――もしかしたら、島に伝わる“夢見”の力が働いたのかもしれない」
ナギサが、ふいに立ち止まる。
「着いたよ、“神の井戸”!」
森の奥、木々に囲まれた小さな泉があった。
水面は鏡のように静かで、朝の光が差し込むと、底に不思議な模様が浮かび上がる。
「……これは……」
悠馬は、井戸の縁にしゃがみこみ、模様をじっと見つめた。
渦巻き、波、鳥の羽――夢の中で見た神殿の壁画と、まるで同じだった。
「先生、どうしたの?」
ナギサが覗き込む。
悠馬は、震える声で答えた。
「夢で見た模様と、まったく同じだ……。やはり、この島にはムーの記憶が残っている」
サラも、井戸の水面に手をかざす。
「この泉は、昔から“神の声を聞く場所”とされてきた。巫女がここで祈ると、未来の出来事や、遠い昔の記憶が夢に現れるって」
悠馬は、井戸の水をそっとすくい、手のひらに受けた。
冷たい水が、指先から腕へ、体の奥深くまで沁みていくような感覚。
「……不思議だ。まるで、体の中に何かが流れ込んでくる……」
その瞬間、悠馬の意識がふっと遠のいた。
――再び、夢の世界。
黄金色の空、巨大な神殿。
アマテが、悠馬の名を呼ぶ声が聞こえる。
「悠馬……あなたは“記憶の橋”。ムーの運命を、未来へ伝えて」
悠馬は、夢と現実のはざまで、何か大きな力に包まれていた。
――夢と現実のはざま。悠馬は、再び黄金色の空の下に立っていた。
目の前には、あの神殿がそびえ、遠くから太鼓と歌声が聞こえてくる。アマテが白い衣を翻し、静かに近づいてきた。
「悠馬……あなたはまた“橋”を渡ってきたのですね」
「アマテ……僕は、現実の島で“神の井戸”に触れた。その瞬間、またここに来た気がする」
アマテは優しく微笑む。
「この世界とあなたの世界は、記憶の水脈で繋がっています。井戸は、ムーの記憶を現代へと運ぶ“泉”なのです」
「井戸……。僕のいた島にも、聖なる井戸や洞窟の伝説が残っている。島の人々は、井戸の水位や清らかさで、天候や作物の豊凶を占っていたらしい」
「それは、ムーの祭祀と同じです。私たちも、水の神に祈り、井戸を“命の源”として大切にしてきました」
アマテは神殿の奥へと悠馬を導く。
壁には、巨大な波や火の雨が人々を襲う場面が描かれている。
「これは……?」
「ムーの大災厄。大地が裂け、海が怒り、天からは燃える雨が降った。多くの命が失われ、王国は滅びの淵に追い詰められたのです」
悠馬は、壁画の中に“兄妹が洞窟に逃れ、再び人類が生まれる”という場面を見つける。
「この兄妹……波照間島の始祖神話と同じだ。洞窟に隠れ、やがて新しい命が生まれる――」
アマテが頷く。
「ムーの記憶は、さまざまな形で未来へ伝わりました。あなたの島の伝説も、その一つ」
「……でも、なぜ“記憶”は歪んだり、変化したりするんだろう?」
「時の流れは、記憶を濾過します。真実も、語り継がれるうちに神話となり、やがて新たな物語へと姿を変えるのです」
悠馬は、夢の中でさえ、歴史の重みを感じていた。
「……僕は、どうすればいい? この記憶を、現実の世界でどう伝えればいい?」
アマテは、そっと悠馬の手を取る。
「あなたの選択に委ねます。すべてを明かすのも、秘密にするのも、あなたの自由。けれど、どうか忘れないで。歴史は、ただ繰り返すだけではなく、人の選択で変わることもあるのです」
そのとき、神殿の奥から声が響いた。
「アマテ、王子がお呼びです」
ラグナ・オウが、険しい表情で現れる。
「アマテ、民の間に不安が広がっている。大地が再び揺れ、井戸の水位が下がっている。これは、終わりの兆しか?」
アマテは静かに答える。
「まだ終わりではありません。記憶の橋が開かれるとき、希望は残ります」
ラグナは悠馬に目を向けた。
「そなたが“未来の証人”か。……この国が滅びても、我らの思いは消えぬのだな?」
悠馬は、強く頷いた。
「はい。僕が、必ず伝えます。ムーの記憶も、あなたたちの願いも」
ラグナは、深く息を吐いた。
「ならば、アマテとともに“記憶の儀式”に立ち会ってほしい。ムーの知恵と神話を、東の地へ託すために」
アマテが、そっと微笑む。
「悠馬、あなたの魂は、もう私たちの時代と結ばれています。どうか、最後まで見届けてください」
――その瞬間、世界が再び揺らいだ。
「悠馬、しっかりして!」
サラの声が響く。
悠馬は、井戸の縁で膝をついていた。ナギサが心配そうに背中をさすっている。
「先生、また倒れそうになってたよ……」
「ごめん、ちょっと……強い夢を見ていた」
サラが、井戸の水を手ぬぐいに含ませ、悠馬の額を拭う。
「島の伝承と、先生の夢はきっと繋がってる。……ねえ、今見た夢のこと、詳しく教えて」
悠馬は、夢で見た神殿の壁画や、アマテとラグナの言葉を、できるだけ正確に語った。
「……ムーの滅び、井戸の水、兄妹の伝説……全部、波照間島の始祖神話と重なるんだ」
サラが、静かに頷く。
「波照間島には“油雨”や“洞窟の兄妹”の伝説がある。旱魃や大災害の記憶が、神話として残ったのかもしれない」
ナギサが、目を輝かせて言う。
「おばあが言ってた! 昔、島が干ばつで苦しんだとき、神様が牛を遣わして井戸を掘らせたって。だから、井戸は命の源なんだって!」
悠馬は、深く頷いた。
「……ムーの人々も、井戸を“命の泉”として大切にしていた。だからこそ、記憶の橋は水脈を通じて未来に繋がったんだ」
サラが、そっと手を重ねる。
「先生、私たちが今ここで調べていることは、島の人たちの命の記憶、そして遥かな過去からのメッセージなのかもしれない」
「うん。……この記憶を、どう伝えるか。僕たちの選択にかかっている」
ナギサが、元気よく手を挙げる。
「おばあの家に行こうよ! もっと昔話を聞いて、石版の謎を解こう!」
悠馬とサラは顔を見合わせ、微笑んだ。
「そうだな。……行こう、ナギサちゃん」
森を抜け、三人は島の集落へと向かった。
その背中に、朝の光が優しく降り注いでいた――。