2話 夢のほとり、目覚めの岸
――金色の空が広がっていた。
悠馬は、まるで深い水の底から浮かび上がるように、意識を取り戻した。潮騒も、島の陽射しも消え、代わりに熱を帯びた風が頬を撫でている。見上げれば、巨大な石造りの神殿がそびえ、空には見たこともない鳥が舞っていた。
「……ここは……どこだ?」
声に出した自分の言葉が、妙に重く響く。
足元には、磨き抜かれた白い石畳。遠くから、太鼓のような音と、歌声のようなものが微かに聞こえてくる。
「あなたは、記憶の橋を渡る者――」
ふいに、背後から声がした。
振り向くと、そこには白い衣をまとった女性が立っていた。琥珀色の瞳が、静かに悠馬を見つめている。その姿は、どこか神話の絵巻から抜け出したような、現実離れした美しさだった。
「……あなたは……?」
「私はアマテ。ムーの神殿に仕える巫女です。あなたの名は?」
「新田悠馬……僕は……沖縄の島で……」
言いかけて、悠馬は自分の手を見下ろした。手袋も、リュックもない。服装すら、見慣れたものではなかった。
まるで、誰かの記憶の中に迷い込んだような感覚がする。
「ここは夢なのか? それとも……」
アマテは微笑み、静かに首を振った。
「夢と現のあわい。あなたが“記憶の石”に触れたことで、橋が開かれたのです。ムーの記憶が、あなたを呼んだのでしょう」
「ムー……本当に、あの伝説の……?」
「伝説ではありません。私たちは、ここに生きています。けれど、この大地は滅びの運命にある」
アマテの声には、どこか哀しみが滲んでいた。
悠馬は、神殿の奥から響いてくる太鼓と歌声に耳を澄ませた。
「……あれは?」
「王宮の儀式です。今日は“記憶の継承”の日。王子ラグナ・オウが、民の前で誓いを立てます。あなたも、どうか見届けてください」
アマテは、悠馬の手を取った。その手は驚くほど温かく、現実感があった。
「……僕は、どうしてここに?」
「あなたは“橋”なのです。ムーの記憶を、遠い未来へと運ぶ者。あなたの世界と、この世界は、深い縁で結ばれている」
アマテの言葉は謎めいていたが、悠馬の胸には、なぜか納得できる感覚があった。
「……行こう。王宮へ」
アマテに導かれ、悠馬は神殿の回廊を歩き始めた。
壁には、神々と人々の物語が浮き彫りにされている。イザナギ、アマテ、ラグナ――どこかで見たことのある名前が、古代の文字で刻まれていた。
「この壁画……日本神話に似ている……」
「あなたの世界の神話は、ムーの記憶の残響。私たちの物語が、やがて“東の地”に伝わるのです」
アマテは、壁画の一つを指差した。
そこには、巨大な津波が王国を襲う場面が描かれていた。
「これは……?」
「大地の怒り。ムーの終わりの始まりです」
悠馬は言葉を失った。
そのとき、遠くから甲高い声が響いた。
「アマテ様! 王子がお呼びです!」
振り返ると、若い侍女が駆け寄ってきた。
アマテは悠馬に微笑みかける。
「さあ、行きましょう。あなたも、王子に会うべきです」
悠馬は無意識に頷いていた。
夢の中の出来事だと分かっていながら、心の奥底で何かが動き始めているのを感じていた。
神殿の奥、広大な中庭には、色とりどりの衣装をまとった人々が集まっていた。中央には、若き王子ラグナ・オウが立っている。彼の瞳は、燃えるような決意に満ちていた。
「民よ、聞け! この大地は、いま危機に瀕している。だが、我らは決して絶望しない。ムーの知恵と誇りを、未来へと託すのだ!」
ラグナの声が、空に響き渡る。
人々の間に、ざわめきが広がる。
「……彼が、ラグナ・オウ?」
「はい。王国の希望、そして私の大切な人」
アマテの横顔には、複雑な想いが浮かんでいた。
「アマテ、そなたの傍らの男は……?」
ラグナが悠馬に目を向ける。
アマテは一歩前に出て、静かに告げた。
「この方は、記憶の橋を渡る者。ムーの記憶を未来へ託すために、ここへ導かれました」
ラグナは悠馬をまっすぐ見つめた。
「……ならば、そなたにも誓いの証人となってもらおう。ムーの終焉を、そして新たな始まりを、共に見届けてくれ」
悠馬は、ただ頷くしかなかった。
夢のはずなのに、胸の奥が熱くなる。
「……はい。僕にできることがあれば」
その瞬間、空が轟音とともに揺れた。
遠くの地平線に、黒い雲が渦巻き始めている。
「大地が……また、怒っているのか……?」
人々の間に、不安の声が広がる。
ラグナは拳を握りしめ、叫んだ。
「恐れるな! 我らには知恵がある。アマテ、神託を!」
アマテは静かに目を閉じ、祈りの言葉を口にした。
その声は、風に乗って広がっていく。
「……大いなる記憶よ、未来へと橋を架けたまえ……」
悠馬は、その光景を呆然と見つめていた。
自分が、歴史の転換点に立ち会っている――そんな予感が、胸に満ちていく。
アマテの祈りが終わると、空気が一変した。神殿の中庭を包んでいたざわめきが、まるで潮が引くように静まり返る。悠馬は、どこか現実離れした浮遊感に包まれながら、王子ラグナの隣に立つアマテの姿を見つめていた。
「……アマテ、神託は?」
ラグナが静かに問う。アマテはゆっくりと目を開け、王子と民衆を見渡した。
「大地は揺れ、海は荒れるでしょう。しかし、希望は絶えません。記憶の橋が開かれるとき、ムーの知恵は東の地へと受け継がれる――」
その言葉に、人々の間にざわめきが戻る。
「東の地……」
「それは、どこなのだ……?」
ラグナは拳を握りしめ、民衆に向き直った。
「我らは恐れず進む。ムーの誇りを、未来へと託すのだ!」
その声に、民たちが一斉に頭を垂れる。悠馬は、胸の奥が熱くなるのを感じていた。自分はなぜここにいるのか――その問いの答えを、まだ見つけられずに。
「アマテ様……」
侍女がそっと近づき、何かを耳打ちした。アマテは軽く頷き、悠馬に目を向ける。
「少し、こちらへ」
アマテは悠馬を神殿の奥へと導いた。
回廊の奥、静かな部屋。壁には、波と太陽、鳥のモチーフが彫られている。
「ここは……?」
「神殿の奥、神託の間です。外の混乱から離れ、静かに話せる場所」
アマテは、悠馬に向き直る。
「あなたの心の中に、まだ多くの疑問があるでしょう」
「……はい。僕は、現実の世界では考古学者です。沖縄の離島で石版を見つけて……気づいたら、ここに」
アマテは静かに頷いた。
「あなたが見つけた石版、それは“記憶の橋”の鍵。ムーの知識と神話が、遠い未来へ託されるためのもの」
「記憶の橋……。なぜ、僕が?」
「あなたの魂が、呼ばれたのでしょう。ムーの終焉の記憶を、未来に伝える役割を担う者として」
悠馬は、ふと自分の手を見る。現実では感じたことのない温もりが、指先に残っていた。
「僕は……この世界で、何をすればいいんですか?」
「まずは、見届けてください。ムーがどのように滅び、何を未来に託そうとしたのか。その全てを、あなたの心に刻むのです」
アマテの瞳は、どこまでも深く、そして優しかった。
「……わかりました」
そのとき、部屋の外から足音が近づく。
「アマテ様、王子が再びお呼びです」
アマテは立ち上がり、悠馬に微笑みかける。
「さあ、行きましょう。あなたも、ムーの運命の証人です」
ふたりは再び中庭へ戻る。
王子ラグナが、悠馬に近づいてきた。
「そなたの名は?」
「新田悠馬……僕は、遠い未来の世界から来たのかもしれません」
ラグナはしばし悠馬を見つめ、やがて頷いた。
「この国は、いま滅びの淵にある。だが、我らが築いた知恵と誇りは、必ずや未来へと繋がるはずだ。そなたも、その一端を担ってくれるのだな?」
「……はい。できる限りのことを」
ラグナは微笑み、アマテの肩に手を置いた。
「アマテ、神託の言葉を信じる。民とともに、東の地への道を探ろう」
アマテは静かに頷いた。
「ラグナ様、私はあなたとともに歩みます。たとえこの大地が沈もうとも、記憶は消えません」
王宮の高台から、ムーの都が一望できた。
遠くには、青く輝く海と、緑の大地。だが、地平線には黒い雲が広がり、時折、地鳴りのような震動が足元を揺らす。
「……悠馬、あなたの世界では、ムーのことをどう伝えているの?」
アマテがふいに尋ねた。
悠馬は、しばらく考え込む。
「……伝説です。太平洋にあったとされる失われた大陸。多くの人が夢見て、でも本当には信じていない。けれど、僕は……今、ここに立って、あなたたちの息遣いを感じている」
「記憶は、時を超えて残るのですね」
アマテは、どこか遠い目をした。
「私たちが託す知識や物語が、やがて東の地で新たな神話となるなら、それは救いです」
「悠馬、あなたは“記憶の橋”だ。どうか、我らの思いを忘れないでくれ」
ラグナの言葉に、悠馬は深く頷いた。
――その瞬間、世界が再び揺れた。
地面が大きくうねり、神殿の柱が軋む音が響く。
「地震だ!」
民衆の叫びが広がる。空には稲妻が走り、海の向こうで巨大な波が盛り上がっていくのが見えた。
「アマテ、急げ! 避難を!」
ラグナが叫ぶ。アマテは悠馬の手を取り、走り出した。
神殿の回廊を駆け抜けながら、アマテは振り返る。
「悠馬、あなたはまだここに留まって。私が戻るまで、絶対に動かないで」
「でも……!」
「約束です。あなたには、この記憶を未来へ伝える使命がある」
アマテの真剣な眼差しに、悠馬は言葉を失った。
次の瞬間、彼の視界が白く染まる。
――気がつくと、悠馬は砂浜に倒れていた。
潮騒と、誰かの呼ぶ声が耳に届く。
「悠馬先生! 大丈夫ですか?」
サラの声だ。
悠馬はゆっくりと目を開けた。頭が重く、全身に汗が滲んでいる。
「……夢、だったのか……?」
「すごい顔して倒れてたよ。急に意識がなくなって……」
ナギサも心配そうに覗き込む。
「先生、石版、まだここにあるよ」
悠馬は、砂浜に転がる黒い石版を見つめた。
夢の中で感じた温もり、アマテの声、ラグナの決意――すべてが現実のように鮮やかだった。
「……いや、夢じゃない。きっと、あれは……」
悠馬は、石版にそっと手を伸ばした。
その表面に、ほんのりと温もりが残っている気がした。
「先生、何か見えたの?」
サラが問いかける。
悠馬はゆっくりと頷いた。
「……ムーの王国。滅びゆく大地。アマテという巫女と、ラグナという王子……」
サラとナギサは顔を見合わせた。
「夢にしては、リアルすぎる……。先生、もしかして、石版に何か仕掛けが?」
「わからない。でも、この石版が“記憶の橋”だとしたら……僕は、何かを託されたのかもしれない」
悠馬は、改めて石版を両手で持ち上げた。
その瞬間、微かな振動が指先を伝う。
「……やっぱり、何かある。この石版は、ただの遺物じゃない」
サラが、そっと悠馬の肩に手を置いた。
「先生、一緒に調べよう。私も、島の伝承や家系のこと、もっと知りたくなった」
ナギサも大きく頷く。
「私も手伝うよ! おばあの昔話、いっぱい聞いてくる!」
悠馬は、ふたりの顔を見て微笑んだ。
「ありがとう。僕たちで、この“記憶の橋”の謎を解こう」
朝の光が、再び砂浜を照らし始めていた。
悠馬の胸の奥には、夢の中で交わした約束と、これから始まる壮大な旅の予感が、静かに息づいていた――。