11話 「東京の影、目覚めの予兆」
波照間島での激動の日々から一ヶ月が経った。
悠馬は、東京の大学の研究室に戻っていた。窓の外には高層ビル群が連なり、車のクラクションと人々の喧騒が絶え間なく響いている。
だが、彼の心はまだ南の島の青い海と、夢の中で出会ったアマテやラグナ、サラたちの笑顔に引き寄せられていた。
「……先生、最近また夢を見るようになったんですか?」
研究室の片隅で、助手の小林がコーヒーを差し出す。
悠馬は苦笑しながら受け取った。
「うん。島にいた時よりも、むしろ鮮明になってきている。黄金色の空、神殿、そして……アマテの声。まるで、現実と夢の境界が薄くなっていくみたいだ」
小林が興味津々で身を乗り出す。
「先生、波照間島の石板のこと、学会で発表するんですよね? あれ、本当にムー文明の証拠なんですか?」
「……一部は発表するつもりだ。ただ、すべてを明かすわけにはいかない。島の人たちの暮らしや信仰も守らなきゃいけないから」
小林が納得したように頷く。
「でも、先生の論文が出たら、考古学会は大騒ぎですよ。ネットでも“波照間ムー伝説”って話題になってますし……。あ、これ見てください」
小林がノートパソコンを開いて画面を見せる。
そこには、カナエ記者が書いた記事の特集ページが映し出されていた。
【波照間島の“記憶の石板”――神話と現実の狭間で】
「……カナエさんの記事か。彼女も、真実の一部だけを慎重に伝えてくれた。島の文化や祭りを中心に、学術的な発見はぼかしてある」
「先生、カナエ記者ってどんな人なんですか? この間、電話で話してた時、すごく鋭い質問してましたよね」
悠馬は、カナエの冷静なまなざしと、時に皮肉っぽい微笑みを思い出す。
「頭の回転が速くて、現場主義。だけど、根はすごく真面目なんだ。彼女もまた、自分なりの“記憶の橋”を探してるのかもしれない」
その時、研究室のドアがノックされた。
「失礼します」
現れたのは、佐伯俊哉教授だった。
悠馬の恩師であり、波照間島での一件以来、彼の最大の理解者でもある。
「新田、調子はどうだ?」
「佐伯先生……。おかげさまで、何とかやっています」
佐伯は机の上の石板の写真を手に取り、じっと見つめる。
「君の論文、読ませてもらったよ。慎重な表現だが、核心を突いている。……だが、君はまだ“何か”を隠しているな?」
悠馬は、しばし沈黙した。
「……石板の全てを公表すれば、社会が混乱するかもしれません。島の人たちの平穏も、守りたいんです」
佐伯が椅子に腰かけ、静かに語る。
「学者は真実を追い求めるものだが、時に“守るべきもの”もある。君の選択を尊重しよう。ただし、いずれは“記憶の橋”の全貌を明らかにする時が来る。その時は、私も全力で支えるよ」
悠馬は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、先生。……僕も、いつか必ず“記憶の橋”の真実を解き明かしたいと思っています」
その時、研究室の電話が鳴った。
小林が受話器を取る。
「新田研究室です。――えっ、はい……はい、すぐに伝えます!」
小林が顔を強張らせて振り返る。
「先生、カナエ記者からです。“至急会いたい。極秘情報が入った”って……」
悠馬は、胸の奥がざわつくのを感じた。
「分かった。場所は?」
「新宿のホテルラウンジだそうです。夕方五時に……」
佐伯が立ち上がる。
「新田、気をつけて行ってこい。今や君は、学会だけでなく、世間の注目も浴びている。石板を狙う連中も動いているかもしれん」
悠馬は、石板の写しと巻物の一部をカバンに入れ、研究室を出た。
――新宿の雑踏。
高層ビルの谷間を抜け、ホテルのラウンジに入ると、カナエがすでに待っていた。
黒髪をすっきりまとめ、知的な眼差しで手帳をめくっている。
「新田さん、久しぶりですね。波照間以来、どうでした?」
「……まだ夢の中にいるみたいです。現実と夢の境界が曖昧で……」
カナエが、微笑みながらも鋭い視線を向ける。
「今日は、あなたにしか話せない情報があるの。“石板”を狙う組織が、東京でも動き始めた。彼らは“カグツチの末裔”を名乗り、古代文明の力を現代社会で利用しようとしている」
悠馬が息を呑む。
「……波照間の洞窟で現れた、あのカグツチ……?」
「ええ。彼らは“記憶の橋”の存在を知っている。あなたが持ち帰った石板が、彼らの標的になっているの」
カナエが手帳を差し出す。
そこには、謎の組織のメンバーリストや、都内での不審な動きが詳細に記されていた。
「新田さん、あなたは今、歴史の渦の中心にいる。覚悟はできてる?」
悠馬は、ゆっくりと頷いた。
「……僕は、もう逃げません。“記憶の橋”の真実を守り抜きます」
カナエが、満足げに微笑む。
「それでこそ、波照間の“守り神”ね。私も全力でサポートするわ」
その時、ラウンジの奥の席で、黒いスーツの男たちが何やら話し込んでいるのが目に入った。
カナエが低い声で囁く。
「気をつけて。あの連中、私たちを監視している。下手に動くと危険よ」
悠馬は、石板の写しをカバンの奥にしまい込んだ。
「……これから、どう動くべきでしょう?」
カナエが、鋭い視線で言う。
「まずは、石板と巻物の原本を安全な場所に移すこと。そして、信頼できる仲間と連携して、“カグツチの末裔”の動きを探る。あなたの夢や幻視も、きっと手がかりになるはずよ」
悠馬は、胸の奥で再び“記憶の橋”が目覚めるのを感じていた。
「分かりました。僕も夢の記録を続けます。アマテやラグナ、ムーの記憶が、何かを教えてくれるはずです」
カナエが、真剣な表情で手を差し出す。
「一緒に戦いましょう。歴史の真実と、未来のために」
悠馬は、その手をしっかりと握り返した。
――東京の夜。
高層ビルの谷間に、静かに“夢の門”が開かれようとしていた。
ホテルラウンジを出ると、東京の夜はすでに深く、ネオンが川のように流れていた。
カナエと別れた悠馬は、石板と巻物の写しをしっかりとカバンにしまい、雑踏の中を歩き出した。
「……“カグツチの末裔”か。まさか、こんな形で現代に繋がっているとは……」
心の奥に、不安と同時に奇妙な高揚感が湧き上がる。
その時、スマートフォンが震えた。
画面には「サラ」の名前。
「先生、いま大丈夫ですか? 急に胸騒ぎがして……」
「サラさん、どうしたの?」
「夢を見たんです。ムーの神殿が黒い影に包まれて、アマテが“東京に門が開く”って……。先生、気をつけてください」
「……ありがとう。実は、波照間で出会った“カグツチ”の組織が東京でも動き始めている。僕も気をつけるよ」
「先生、何かあったらすぐ連絡してください。私も島の御嶽で祈ります」
「ありがとう、サラさん。……必ずまた会おう」
電話を切ると、悠馬はふと足を止めた。
雑踏の向こうで、黒いスーツの男たちがこちらを見ている。
カナエが言っていた通り、監視されているのだ。
「……まずは石板を安全な場所へ」
悠馬は、大学の研究室ではなく、信頼できる友人である小林のアパートへと向かった。
小林は驚きながらも、快く迎え入れてくれた。
「先生、何かあったんですか?」
「詳しくは話せないけど、重要な資料をしばらく預かってほしい。誰にも見せず、厳重に保管してくれ」
「わかりました。先生の頼みなら、命がけで守ります」
小林の真剣なまなざしに、悠馬は心から感謝した。
「ありがとう、小林。……君の友情に救われている」
資料を預けた帰り道、悠馬はふと、目の前の街路樹の影が揺らめくのを感じた。
その瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走る。
――黄金色の空。
ムーの神殿の門が、黒い炎に包まれて開いていく。
アマテが、苦悶の表情で手を伸ばしている。
「悠馬……“夢の門”が開かれる。闇の記憶に呑まれぬよう、心を強く持って……」
ラグナ王子の声も響く。
「そなたの選択が、未来を変える。恐れるな、“橋”よ」
現実に引き戻されると、汗が額を伝っていた。
悠馬は、胸に手を当て、深呼吸を繰り返す。
「……夢の門。カグツチの末裔。これは、ただの偶然じゃない」
その夜、悠馬は自宅の机に向かい、夢の記録をノートに書き綴った。
アマテの言葉、神殿の光景、ラグナの決意、そして黒い炎の門――。
「夢が、現実と繋がっていく……」
翌朝、大学に向かうと、佐伯教授が待っていた。
「新田、昨夜は無事だったか?」
「はい、資料は安全な場所に預けました」
佐伯は、重々しい声で告げる。
「今朝未明、都内の博物館で“縄文の仮面”が盗まれた。監視カメラには、黒いローブの集団が写っていた。……君の石板と関係があるかもしれん」
悠馬の背筋に冷たいものが走る。
「カグツチの末裔……彼らは、夢と現実の“門”を開こうとしているのか?」
「おそらくな。君は、夢の中で何か見なかったか?」
「……はい。ムーの神殿の門が黒い炎に包まれ、アマテが“東京に門が開く”と……」
佐伯は、深く頷いた。
「君の夢は、ただの幻覚ではない。波照間で起きたことが証明している。これからは、夢の記録も研究の一部として扱おう」
悠馬は、ノートを差し出した。
「これが昨夜の記録です。……先生、僕は“記憶の橋”として、もう逃げません」
佐伯が、力強く肩を叩く。
「頼もしいぞ、新田。私も全力で支える。君の使命は、歴史を守り、未来へ繋ぐことだ」
その言葉に、悠馬は自分の決意が確かなものになったのを感じた。
昼休み、カナエからメッセージが届いた。
【新田さん、都内で“カグツチの末裔”の動きが活発化している。警戒を怠らないで。何かあればすぐ連絡を】
悠馬は、スマートフォンを握りしめ、心の中で誓った。
「アマテ、ラグナ、サラ、ナギサ……みんなの想いを、必ず守り抜く。夢の門が開かれても、僕は“記憶の橋”として立ち続ける」
東京の空は、どこまでも高く青かった。
しかし、その下で、夢と現実を繋ぐ新たな戦いが、静かに始まろうとしていた――。