序章 -戦後-
東メルヴ平野を照らす陽はいつしか地平線の果てに顔をうずめ、大地を茜に染めていた。
敵は平野を疾風のごとく走り抜け、北方の山岳地帯に消え去った。彼らの正体が何者か、目的は何か、その痕跡は戦場に一片も残されていない。残されたのは真円状に抉られた地面と、周辺に転がるメルヴィラ傭兵の無残極まる姿だけだった。
威容を誇った六千余の傭兵たちは、平野の八方に無造作に放置されていた。あるものは流血しながらのたうち、あるものは芋虫のように這いずり回り、あるものは失った片腕の根本を抑えながら悲鳴を上げ、あるものはぴくりとも動かない。
呆然として眼下に視線を泳がせていると、丘の麓からアルヴィンを呼ぶ声が聞こえてきた。
「坊ちゃん!」
前線より駆け戻ってきたグスタフの声だった。後ろにはヨハンとアンリの姿も見える。
アルヴィンは労いの言葉をかけた。
「ご苦労だった。無事で何よりだ」
「全くでござる! 冷や冷やさせられましたぞ」
グスタフが言下に大きなため息をついた。鉄兜の中に見える顔中の皺が、今日は一層深いように、アルヴィンには映った。
「戦線を瓦解させぬためにああは言ったものの、多勢に無勢は否めなかったからのう」
グスタフの力強い激励が思い出される。前線の兵たちにとって、年季の入った彼の声は頼もしかっただろう。あの時にかいた冷や汗が、アルヴィンの肌着をいまだにぐっしょりと濡らしているが。
「あら、怖かったの?」
アンリが大きな瞳でグスタフを見つめながら、いたずらっぽく笑う。
「あんな奴らが何人来ても、楽勝に違いなかったわ」
「うるさいわ、小童」
グスタフが怒鳴りつけた。
「きゃつらが十人、いや百人束になって掛かろうが、この剣で蹴散らしてやったわい。だが兵どもが怯えていては、戦にもならぬでな」
グスタフは腕を組み、小柄なアンリを見下ろした。
「敵はかなりの手練れであったのは確か……貴様の技量が勝っていたとも思えん」
「何ですって!」
アンリは気色ばみながら地団駄を踏んだ。目尻と眉が、きいっと吊り上がっている。若き同僚の怒気を煙たがったのか、隣にいたヨハンは顔をしかめ、面倒くさそうに右手を振った。
今年二十になるこの娘を小隊長に推挙したのは、外ならぬグスタフである。前線における彼女の強さは、クレセントの誰もが一目置くものだ。身の丈ほどはあろうかという戦斧を嵐のごとく振り回し、敵の戦列を砕く姿を、アルヴィンも一度ならず見たことがある。
そのアンリをして勝てるか分からないと言うのだ。百戦錬磨のグスタフもまた、敵を高く評価している。その敵と真正面から相対していればどうなったか。アルヴィンの背筋に、ぞっと寒いものが走った。
「副団長」
背後のかすれた声に振り返ると、ニクラスが鉄兜を脱ぎながら近づいてきていた。後ろには、スウィフティアの団員と思しき男を二人連れている。それを見たマリンが喜びの声を上げた。
「無事だったのね!」
半ば涙声で叫びながら、マリンはニクラスの横をすり抜け、自分より大柄な男二人の頭を両手に抱きしめた。男の一方が苦笑しながら言う。
「俺たちは丘の後ろで、旗を振りながら騒いでいただけだよ。無事じゃないわけないじゃないか」
マリンは男たちの顔の間に頭をうずめ、狂ったようにぐりぐりと頬ずりし続けている。もう一方の男がマリンの肩を撫でながら、ニクラスの方に視線を向けた。
「ニクラスさん。戦の『い』の字も知らない我々でも出来るような役割を与えてくださって、感謝の言葉もありません。本当にありがとうございました」
「私は副団長の意向に従ったまでのこと。戦果は、必死に戦旗を振り声を上げた君たちにこそある」
男たちに背中を向けたまま、ニクラスは謙遜の言を述べた。だがその『戦果』に最も貢献した者が誰であるかは、ニクラスの喉から響く擦れきった声が雄弁に物語っていた。
アルヴィンがニクラスに声をかける。
「ニクラスもご苦労だった。いつもとは勝手が違って、骨が折れただろう」
今回の戦闘で、本来指揮している部隊はグスタフの麾下に入り、ニクラスにはスウィフティアの指揮を任せていた。戦の経験がない者を思い通りに動かすのは、並大抵のことではない。
ニクラスは首を横に振った。
「大したことではございませぬ。彼らは彼らなりによくやってくれました。それよりも副団長、ひとつ気がかりなことが……」
「何だ? 言ってみてくれ」
「戦場に残っている負傷兵のことでございます」
グスタフと睨みあっていたアンリがこちらを向くのが、アルヴィンの視界の隅に映った。
「本隊の中には、まだ生きている者もおります。今から救助活動に行けば命を取り留める者もいるでしょうが、時間がたてばそれも絶望的となっていくことは必至と存じます」
アルヴィンは右手で首筋を撫でながら言う。
「早く救助に向かいたい気持ちは私も同感だ。だが我々が救助に向かうこと、それ自体が罠だと、ニクラスは言いたいのだろう」
「はっ、左様にございます」
ニクラスは落ち着いた口調で続ける。
「我々が要救助者の回収作業をしている間に敵が再出撃した場合、迎撃の手はありません。二度も擬兵策が通用するとも思えませんし……」
「ふむ……」
アルヴィンは思案を巡らせた。ただでさえ量でも質でも我々を超える敵だ。救助作業で乱れた陣形に突撃されては、ひとたまりもないだろう。だがこのまま手をこまねいて時間を浪費すれば、救える者の命も救えなくなる。
須臾の後、アルヴィンは命令を下した。
「ニクラスとアンリは兵を率い、生存者の捜索に当たれ。荷駄車をあるだけ引いて行って、生存者を乗せるんだ。もし敵が襲ってきたら全力で逃げろ」
「承知いたしました」
「わかったよ、アルヴィン!」
続けてヨハンの方へ体を向ける。
「ヨハンはこの丘に待機して、周囲に不審な動きがないか見張れ。何か動きがあれば、火矢を放って知らせてくれ」
「了解!」
「私も生存者の捜索に参加する。それから……」
「待つのじゃ、アルヴィン!」
制止する声は、またしてもディエゴのものであった。アルヴィンはフラストレーションを奥歯で噛みつぶし、ディエゴに恭しく言上した。
「ディエゴ様、何かございましたでしょうか」
「今すぐ皆でメルヴィラに退却すべきじゃ! 救助とやらのために戦力を分散しては、そこらで潜んでいた敵にやられるかもしれんじゃろ!」
「おっしゃる通りです。しかしお味方を見捨てるわけには……」
「見捨ててもよいわ! たかだか傭兵風情、代わりはいくらでもおるではないか!」
この男を斬り捨ててしまえ――乱暴な誘惑が脳裏をよぎったが、アルヴィンは振り払った。確かにクレセントにとって、平野で苦しんでいる傭兵たちは確かに商売敵だ。それでも、今目の前で苦しんでいる者に救いの手を差し伸べない選択肢など、アルヴィンには最初からなかったのである。
怒りを抑えつつ、あくまでも穏やかな声で、小太りの男に語りかける。
「確かに、彼らはただの傭兵でございます。しかるに、彼らが実績ある有能な傭兵であることも事実、またメルヴィラが傭兵に防衛力を依存していることも事実にございます」
「……何が言いたい」
ディエゴは胸甲を着込んだ青年の顔を睨みつけた。アルヴィンは視線を受け止めながら、毅然とした態度で言う。
「ここで救助を行い損ねれば、メルヴィラの防衛力は再起不能なダメージを負うでしょう。多少の危険を背負ってでも、救助活動を行うべきです」
「なれば、わしの安全はいかにする! 貴様らが救助とやらにかまけている隙を突いて、奴らがここを襲ってきたら……」
やはり、それが本音か。アルヴィンは自己の安全しか考えないディエゴを心底軽蔑したが、一方である種の安堵を感じた。畢竟、ディエゴの言いたいこととはこれに尽きるのだ。
――傭兵にとって、雇い主の言うことは絶対。義父の言葉がアルヴィンの脳内で強烈に反響した。
「ディエゴ様のご安全は、クレセントが保証いたします。グスタフ」
「はっ」
アルヴィンに名を呼ばれたグスタフが、背後で片膝をついた。
「この者がメルヴィラまでディエゴ様を護衛します。ビクトール殿、ディエゴ様はこちらまでどのようにしてお越しに?」
「馬車でござる」
近くで戦場跡を眺めていたビクトールは、微動だにせず答えた。アルヴィンは軽く頷く。
「では、お帰りの馬車に護衛としてグスタフをお乗せください。彼の者は百戦錬磨の将、権能では我が傭兵団で随一です」
「そ、それで追手がかかったらどうする」
「私が見たところ、敵の中に騎兵はおりませんでした。敵の進軍速度がいかに速いと言えども、全力疾走する馬車には追いつけないでしょう」
「いや、いやしかし……」
しどろもどろになりながらも何か言おうとするディエゴに、アルヴィンはまくし立てた。
「ディエゴ様のおっしゃる通り、敵が襲うとすれば、ここメルヴ東の丘は標的たり得る場所にございますれば、敵が攻めてくる前に、早くご避難を」
「う、うむ……」
腑に落ちない様子のまま、ディエゴは馬車が停めてあると思しき方向へ歩いていく。追随しようとするグスタフを手で制し、アルヴィンは耳打ちした。
「メルヴィラの自警団に言って、籠城戦の準備をさせておいてくれ」
「もちろん、承知しております。自警団長とはよく飲みに行く仲でしてな」
グスタフはにやりと笑い、アルヴィンも微笑んだ。
やがて、メルヴィラ方面へ一台の馬車が疾走するのを確認し、アルヴィンは号令を下す。
「では、救助を開始する」