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序章 -曲折-

 雷鳴のごとき喚声が、東メルヴ平野に響き渡る。


 隣でマリンが肩をすぼめながら耳を塞いでいる。この声量ならば、たかだか百名程度の傭兵団が出しているとは、誰も思うまい――空気の震えを感じながら、アルヴィンは確信した。三百、いや五百の伏兵が現れたと言っても疑われないだろう。


 ニクラスの声量は圧倒的だった。彼の咆哮は突出して大きく、一人で二、三十人分の喚声を賄えるほどの迫力だ。スウィフティアの傭兵たちも、十二分に健闘している。ある者は地面に軍旗を突き立てながら、またある者は両手に持った軍旗を振り回しながら、あらん限りの声で叫んでいた。


 アルヴィンは敵の姿に目を凝らす。


 敵は最前列の槍兵隊から三十歩ほど離れた場所で、十列横隊を維持したまま停止していた。狼狽した表情で、絶えず視線を左右に彷徨わせている兵も多い。先ほどまでの殺気は、まるで感じられなかった。


 伏兵の出現に動揺しているのだろう。実際にいるのは百人程度だが、敵からは稜線の裏側は見えない。並び立つ軍旗の量と喊声の大きさに、敵は伏兵の数を把握しかねている。今こそ好機。


 「坊ちゃん!」


 喊声に混じって、わずかに聞こえてきた声の方を見る。アンリ麾下の傭兵が、一人こちらに向かってくる。


 彼はアルヴィンに駆け寄り、一礼した。


「アンリ小隊長の伝令として参りました! 伝言を預かっております!」

「聞こう! 大きな声で頼む!」


 アルヴィンは声を張って答えた。伝令は、半ばわめくように報告する。


「『敵は混乱しているみたいだから、早く攻撃命令を寄こしなさい』とのことです!」

「伝令! 伝令です!」


 別の方向から、弓を持った兵士が走り寄ってくる。彼もアルヴィンに一礼すると、声帯が張り裂けんほどの大声で言った。


「ヨハン小隊長よりご伝言! 『敵が動かぬ今が好機、斉射を再開してよいか』とのことでございます!」


 どちらの伝令も、アルヴィンの攻撃命令を促すものだ。既にアルヴィンの心は決まっていた。厳かな、だがはっきりとした声で言う。


「よし、では全軍――」

「待て、攻撃するでない!」


 強引に割り込んできたのは、交易商人ギルド長のディエゴだ。ディエゴは脂ぎった顔を青ざめさせ、必死の形相でアルヴィンに縋る。


「なあ、頼むから攻撃はやめるんじゃ! 奴らの強さを、奴らの動きを見たじゃろ!? 傭兵風情が敵う相手などじゃあるまいて! 降伏して、助命を乞うんじゃ!」


 『傭兵風情』という言葉に引っかかるものはあったが、ひとまずアルヴィンは反論する。


「ディエゴ様! 難敵なことには相違ありません! ですが、敵が混乱している今がまさに、敵に打撃を与える好機なのです! どうか、攻撃のご許可を!」


 青かったディエゴの顔が、みるみるうちに赤くなっていく。


「だめじゃ! 下手に奴らを刺激して、返り討ちにあったら何とする! わしの命はどうなる! 傭兵風情が、わしの命令を無視する気か! わしはまだ死にとうない!」


 ディエゴは明らかに正気を失っていた。恐怖と怒りで、我を忘れているのだ。


 困り果てたアルヴィンはビクトールに助けを求める。


「ビクトール殿!」

「拙者に戦の方針を決める権限はござらん! ご自身で考えられよ!」


 アルヴィンは愕然とした。取り付く島もないとは、まさにこのことだった。


 質的量的に劣ると言えども、我が軍は高所に布陣し、地の利を得ている。その上擬兵策が奏功し、敵の士気も下がりつつあるようだ。ここで反撃に転じるは、まさに起死回生に賭ける一手。この機を逸するのは致命的だ。第一、敵に降伏したとして、命が助かる保証がどこにある。


 攻撃命令が喉の奥までせり上がってきた時、不意にアルヴィンの脳裏を義父ゲオルグの言葉がよぎった。


――アルヴィン、傭兵をやるなら覚えておけ。傭兵にとって、雇い主の言うことは絶対だ。


 アルヴィンはうなだれ、大きなため息をついた。そして、伝令二名の方へ向き直る。


「アンリ、ヨハンに伝えよ! その場で待機、次の指示を待てと!」


 二人の伝令は一瞬困惑したような表情を浮かべたが、すぐに「はっ!」という短い返事を残し、それぞれの陣へ走り去った。続いて二クラスにも喊声中止の伝令を送る。しばらくすると鬨の声は止み、戦場は水を打ったような静寂に包まれた。


 アルヴィンの胸に、焦りが募る。


 このままでは敵に時間を与えるだけだ。敵が擬兵策の混乱から回復すれば、我が軍にはますます勝ち目がなくなってしまう。だが、雇い主であるディエゴが禁じている以上、攻勢に打って出ることもできない。


 まさに万事休す。ここから敵が体勢を立て直すのを、指を咥えて見ているしかないのか。アルヴィンは唇を噛んだ。


 その刹那、前線から地響きが湧き起こった。ついに敵の突撃が始まったか。アルヴィンは覚悟した。


 しかし、アルヴィンの覚悟は杞憂に終わる。敵は前線より反転し、北東方面に向け走り始めたのだ。戦場を離脱する山賊団を見て、ヨハンがアルヴィンに向けて叫ぶ。


「坊ちゃん、追撃しましょう!」

「だめだ!」


 アルヴィンが叫び返す。


「追撃の許可が出ていない! 敵の再侵攻に備えて待機せよ!」


 ヨハンはあからさまに不満そうな顔で、前線の方へ向き直った。


 その後、山賊団は一度も反転することなく、南アルト山脈の方角へ消えていった。


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