序章 -計略-
クレセントの傭兵たちは、『メルヴ東の丘』の裾野付近に布陣している。最前線にはアンリとグスタフが率いる近接歩兵百四十余が、二列横隊で敵の攻撃を待ち受けていた。最前列の傭兵が持つ長槍の穂先が、青空に向けて高く伸びる。
その背後、五十歩ほど上ったところで、ヨハンとその弓兵隊六十余が、やや間隔の空いた三列横隊を成して号令を待っていた。彼らは誰に命令されるでもなく、自分の右側の地面に手持ちの矢を突き刺して立てていた。矢筒から矢を抜く手間を省くための処置だ。
さらにその後方、三十歩ほど上った丘の中腹に、アルヴィンはいた。麓から吹き付ける風が、傭兵たちの不安を運んでくる。アンリとグスタフの鼓舞で持ち直したものの、動揺と士気の低下は否めない。アルヴィンは奥歯を噛みしめながら、敵に視線を移す。
迫りくる敵は、不気味なほど静かだった。定規で測ったような十列横隊を維持しながら、駆け足で平野を進軍している。兵の喊声も、指揮官の号令も聞こえない。聞こえるのは、千の兵が奏でる地響きの音だけだ。
「構え!」
ヨハンが号令しながら、自慢の強弓を引き絞る。それに習い、弓兵たちも一斉に弓を引いた。鋭利な鏃が水平よりやや上を向き、太陽の光を受けて鈍く光る。
はちきれんばかりの殺気が、弓に蓄えられていた。接敵まで、あと百二十歩。
「撃てっ!」
六十もの矢が、風を裂きながら麓に向けて飛んでいく。義父とヨハンが鍛えた弓兵たちの狙いは正確無比だ。着弾地点は敵の移動速度をも折り込み、確実に敵陣の前衛を捉えていた。
しかし、弓兵隊が放った矢は一本も命中しなかった。矢が放たれた瞬間、山賊団が急加速したのだ。彼らは矢の雨をかいくぐり、矢は後背の地面を穿つのみに終わった。全力で疾駆する彼らはまるで一つの意思を共有しているかのようだ。
ヨハンが驚愕の声をあげる。
「馬鹿な、なんて奴らだ!」
「二列目、左右に展開しなさい!」
アンリの号令に従い、前線二列目の隊列が両翼に伸びていく。数で勝る敵に側面を突かせないための陣形変更だ。しかしこれで、我が軍は敵の重厚な布陣を僅か一列で迎え撃たなくてはならなくなった。
アルヴィンの懸念を吹き飛ばすように、グスタフが低い声を張り上げる。
「槍兵、構えい!」
身の丈の三倍ほどもある長槍の穂先が、敵の目前に突き出された。一列横隊の槍衾は見るからに脆弱で、接敵すればすぐにでも食い破られそうだ。
しかしそれでも、戦意を失って脱走する槍兵は一人もいなかった。グスタフ自身も剣を抜き、戦列に加わっている。
決死の覚悟で難敵と向き合っている戦友に、なんとしてでも報いなければ。アルヴィンは自らを奮い立たせた。
接敵まで、あと七十歩。
心臓の鼓動が、脳を激しく打ち付ける。
接敵まで、あと五十歩。
アルヴィンを形づくる血肉の全てが、好機を告げていた。後ろを振り向くと、喉が張り裂けんばかりの声で、アルヴィンは叫ぶ。
「ニクラス!」
その瞬間、丘の裏側から怒号のごとき喊声があがった。丘全体を揺るがすほどの轟音である。
次いで、丘の北側に走る稜線に沿って、旗が一本、二本と現れる。やがてそれは何十、何百へと増え、瞬く間に稜線上が旗の森と化した。
旗に描かれているのは、黄色い三日月に、青い風。クレセントとスウィフティアの軍旗だ。こわばっていたマリンの表情が、スウィフティアの軍旗を見て若干緩む。
稜線に旗が現れる間も、咆哮のごとき喊声は響き続ける。アルヴィンは再び敵陣に向かって振り返った。
敵の進軍が止まっている。
突然の喊声と軍旗の出現に驚いたのか。敵はあと三十歩のところで立ち止まったまま、ぴたりと動かない。
アルヴィンは軽く息をついた。作戦の第一段階は、ひとまず成功か。
稜線の後ろで旗を持っているのは、マリンの傭兵団スウィフティアの団員だ。カイトたちメルヴィラ軍主力が包囲から突撃に移行し、敵の注意が前線に向く瞬間、スウィフティアの団員を丘の陰に隠すよう、アルヴィンは小隊長の一人、ニクラスに指示していたのだ。
喊声や旗の出現も、全てアルヴィンの考えた作戦だ。この作戦を伝えた時、生真面目で従順なニクラスは、多少の難色を示した。
「副団長、失礼を承知で伺いたい」
アルヴィンのことを『副団長』と呼ぶのは、二クラスだけだ。二クラスが続ける。
「敵と我が軍の戦力差は決定的、しかるになぜ斯様な小細工を弄する必要があるのでしょうか」
アルヴィンは二クラスの疑義を受け止め、答える。
「敵が前線を突破してきた時のためだ」
「カイト様らの陣を、ですか? しかしその可能性は……」
「ああ、極めて低いだろう。だが、決してゼロではない」
アルヴィンは二クラスを見据えた。
「万一前線が突破されれば、敵は一直線に数の少ない本陣を目指すだろう。後方をメルヴィラ軍主力に追われ、死兵となった彼らと戦うのは容易ではない。最終的には勝てるかもしれないが、こちらも損耗を強いられるはずだ」
二クラスは顎に拳を押し当て、考えながら頷いた。アルヴィンが続ける。
「此方の被害を少なくするには、まず敵の士気を挫く必要がある。今回は擬兵を用いようと思う」
「擬兵……ですか」
「そうだ。少ない兵を多く見せる策だ」
そう言いながら、アルヴィンは丘の北側に走る稜線を指さした。
「スウィフティアの団員を丘の裏に伏せておく。そして頃合いを見計らって、稜線上に大量の軍旗を立てさせる。同時に大きな喊声をあげ、兵の多さを演出する。敵には、あたかも何百もの伏兵が側面に現れたと思うだろう」
「動揺した敵を、追いついた主力と一気に挟撃する……ということですね?」
「その通りだ」
アルヴィンは大きく頷いた。
「軍旗は我々が持参したものと、スウィフティアが持っているものを使う。我々のものだけでも三百はあるから、十分な数にはなるだろう」
「『軍旗と金は多いに越したことはない』……ゲオルグ団長の金言ですね」
アルヴィンは「そうだ」と相槌を討った。
「スウィフティアの団員は戦に関しては素人同然、よって安全な後方でこの任務を任せたい。必要なのは軍旗を立てる手際と、声の大きさだ。出来そうか?」
二クラスは拳を顎から外した。褐色の眼がアルヴィンの視線を受け止める。
「運用の仔細はお任せください。迅速に軍旗を展開できるよう、計画を立てさせていただきます。喊声についてもご心配なく」
アルヴィンは頬を緩ませ、にこりと微笑んだ。
「心配していないよ、二クラス。声量で君に敵う者など、大陸中を探してもそうそうお目にかかれないだろうからね」
真面目一徹に引き結ばれていた二クラスの口角が、すっと上がった。