家族のカタチ
朝起きると、キッチンからいい匂いがしてくる。私は眠たい目をこすりながらリビングに行くと、エプロン姿の莉奈が朝食を準備していた。
「花音、あと10分でご飯できるからね」
「うーん、眠い……」
ソファに倒れ込むと、莉奈が苦笑いしてくる。
「早く起きないと会社に遅れるよ」
「……仕事辞めたい」
「毎日それ言うね。でも、今日も頑張ったらお休みでしょ?」
莉奈はフレンチトーストをお皿に乗せながら、私を励ますように微笑む。
甘い香りに誘われて、私は「もう少し寝てたい」と思っていた気持ちを忘れて席に着いた。
「莉奈ってほんとにママみたいだよね」
そう言うと、莉奈は少し呆れた顔をした。
「ママじゃなくて、彼女だからね」
その言葉に私が笑うと、莉奈もつられて笑った。
◇
夕方、私はスーパーで買い物をしていた。莉奈に頼まれた食材リストを持っていたはずなのに、ポケットを探しても見つからない。どうしようかと考えていると、隣にいた子どもが私をじっと見ていた。
「あのね、これってどれがいいと思う?」と私は子どもに聞いた。
私が選んでいたのは野菜売り場の大根だった。子どもは困った顔をして、「わかんない」と言って逃げてしまった。
その後、莉奈に「なんで子どもに大根の相談してるの!」と大笑いされ、私はただ「だって他に誰もいなかったんだもん」と答えた。莉奈は呆れながらも、「次はちゃんとリストを確認してね」と優しく笑ってくれた。
◇
ある日、私たちは久しぶりに地元の町へ帰ることになった。莉奈の家族と食事をするためだった。私は正直、少し怖かった。地元に戻ることは、私にとって避けたい思い出を引きずり出すような気がしたからだ。
「花音、大丈夫だよ。私がそばにいるからね」
莉奈がそう言ってくれたけど、町の風景を見ると胸がざわざわする。
食事の席で、莉奈の親戚の一人が何気なく言った言葉が私を押しつぶした。
「花音ちゃん、家族とは仲直りしないの?」
その瞬間、体が硬直した。
家族。私を責めた母の声、暴力的だった父の手、逃げるように出て行った家。それらの記憶が一気に蘇り、息ができなくなった。目の前の景色が揺れて、手が震える。
「花音、大丈夫だよ、」
莉奈がすぐに気づいて、私の肩を抱きしめた。
「息を吸って、ゆっくりでいいから」
彼女の声が遠くから聞こえてくる。私は必死に深呼吸をしようとしたけど、涙が止まらなくて、それすらうまくいかなかった。
しばらくして、莉奈に支えられて、家から出た。車の中で一緒に座って、莉奈が私の手を握りながら、ただ黙っていてくれた。
「怖かったんだね」
彼女が静かに言ったその言葉に、私はただ頷くことしかできなかった。
◇
東京に戻ってきて、日常が戻った――はずだった。
少し体調が悪いくらいなら、なんとかなると思っていた。仕事が忙しい時期に重なっただけ、そう自分に言い聞かせていた。でも、それはただの言い訳だったのかもしれない。
朝、目が覚めると体が重い。足が動かない。布団の中から出ようとしても体が言うことを聞いてくれない。頭の中では「会社に行かなきゃ」と分かっているのに、どうしても動けなかった。
「今日も休むの?」
莉奈の優しい声が聞こえる。その声が、胸を締め付けた。
「ううん、今日は行くよ」
そう答えてみても、結局ベッドから出られない。会社からのメールも電話も怖くて触れなかった。
莉奈が代わりに対応してくれるのを見ていると、自分がどんどん小さくなっていく気がした。
「ありがとう、ごめんね」
その言葉しか出てこない。莉奈は「いいんだよ」と微笑んでくれるけど、その笑顔を見るたびに、自分が情けなくてたまらなかった。
ある日、ふと気づいた。
「私、誰かに監視されてる」
部屋の窓に映る影、電車の中で感じる視線、会社のパソコンに届くメール。それら全てが、私を狙っている気がしてならなかった。
「莉奈、聞いて」
夕食を食べているとき、私は思い切って話した。
「最近ずっと、誰かに見られてる気がするの」
莉奈は少し困ったような顔をして、「そんなことないよ」と笑った。でも、その笑顔がどこかぎこちなく見えた。その瞬間、私はさらに不安になった。
次の日、莉奈に連れられて病院に行くことになった。
彼女は「大丈夫だから、一緒に話そう」と手を握ってくれていた。
診察室で医師と話したけれど、何をどう伝えればいいのか分からなかった。自分の言葉が正しいのか、自分がどう見られているのかばかり気にしてしまう。頭の中はぐるぐるして、声が震えた。
診察が終わったあと、莉奈が医師と話しているのをぼんやりと見ていた。
数分後、莉奈が戻ってきた。どこか申し訳なさそうな顔だった。
「どうだった?」と聞くと、莉奈は「ううん、大したことないよ」と微笑んだ。
だけど、その笑顔が少し曇っているのを私は見逃さなかった。
その夜、莉奈がポツリと呟いた。
「私が家族だったら、もっといろんなことをできたのかもね」
意味がよく分からなかった。家族?私たちは一緒に暮らしているのに。それでも、何か足りないのだろうか。
「私で、ごめんね」
そう言った私に、莉奈は小さく首を振った。
ある朝、莉奈が突然言った。
「結婚しよう」
私が固まったまま何も言えないでいると、莉奈は続けた。
「そうすれば、花音が困ったときにもっと支えられるから」
彼女の目は真剣だった。いつもの優しい笑顔ではなく、強い意志を持った瞳が私を見つめていた。
「でも、私なんかでいいの?」
情けない声が出た。それでも莉奈は首を振らなかった。
「花音じゃなきゃだめなんだよ」
その一言に、私は涙が出た。
数日後、莉奈が手続きを進めてくれた。
「申請が認められたよ!」と嬉しそうに報告してくれる莉奈は、私の手を握って言った。
「これで私たち、家族だね」
その言葉が胸に響いた。家族。その言葉を聞くと、胸の奥が少しだけ暖かくなった気がした。
私はまだ、自分の病気のことも、未来のことも、何も分からない。
でも、莉奈がそばにいてくれるなら、それでいいと思えた。
「ありがとう、莉奈」
その言葉を、私は何度も繰り返した。
◇
「しばらく休んだほうがいいんじゃないですか?」
上司から電話でそう言われたとき、頭の中が真っ白になった。
「……え?」
「体調が優れないみたいだし、無理をしても良くないから。会社としても花音さんが元気になってから戻ってきてくれるほうが安心です」
優しい口調だった。でも、その言葉が私には突き刺さるように感じられた。
「大丈夫です。仕事はちゃんとやりますから……」
そう答えたけれど、上司は「今はゆっくり休んでください」と言うだけで、私の言葉を聞いてくれなかった。
電話を切ったあと、全身が震えた。
「休めって……どういうこと?」
私はちゃんとやっていた。少し遅刻することがあったけれど、それでも会社の仕事を放り出したりはしていない。
なのに、どうして?
その夜、莉奈に相談しようと思ったけれど、何も言えなかった。
「仕事はどうだった?」と聞かれて、「普通だよ」と返すのが精一杯だった。莉奈にまで迷惑をかけたくなかった。
でも、心の中はぐちゃぐちゃだった。
きっと、会社の人たちは私を「面倒な人間」だと思っているんだろう。私のいない間に、陰で笑われているんだ。あの電話も本当は「もう来なくていい」と言いたかったに違いない。
次の日、ベッドに横たわりながら天井を見ていた。
「裏切られた」
その言葉が何度も頭をよぎった。私が信じていた場所は、結局私を切り捨てたんだ。
会社の人たちは、私がいないほうが楽なんだ。そう思うと、胸の中にぽっかりと穴が空いたような気がした。
「花音、どうしたの?」
夕方、莉奈が帰ってきて、ソファに座り込む私に声をかけた。
「……何でもないよ」
何でもないはずがない。でも、口にしたら壊れてしまいそうだった。
「花音、無理しなくていいんだよ。何かあったなら話して」
莉奈は私の隣に座り、そっと肩に手を置いた。その手の暖かさが、逆に痛かった。
「莉奈は……私のこと裏切らないよね?」
気づけば、そんなことを口にしていた。
莉奈は驚いたように目を見開いたあと、小さく首を振った。
「何があっても、私は花音のそばにいるよ」
その言葉が、胸にじんわりと染み込んできた。
◇
数日後、莉奈に連れられて病院へ行った。
診察室で医師に症状を話したけれど、自分が何を言っているのか分からなかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、ラジオや監視の話をしているうちに、自分でも何が本当なのか分からなくなってきた。
医師は静かに頷き、メモを取りながら言った。
「花音さん、今の状態では入院による治療が必要です。症状が進行しているため、適切な環境でケアを受けることが重要です」
「入院……?」
その言葉に、また裏切られたような気がした。
「でも、私は大丈夫です。家に帰らないと……」
そう必死に訴えたけれど、医師の表情は変わらなかった。
「花音、私も一緒に考えるから。今は休むことが大切だよ」
莉奈がそっと手を握り、優しい声で言った。
入院手続きをしている間も、頭の中は混乱していた。
「入院なんてしたら、私はもう誰からも必要とされなくなる」
そんな思いが渦巻いて、涙がこぼれそうになった。
でも、莉奈が手続きのために、静かに「家族です」と言うのを聞いて、少しだけ心が軽くなった。莉奈だけは、私を裏切らないんだ――そう思えたからだ。
◇
◇
入院生活が始まって、私は莉奈と少し距離ができたように感じていた。
毎日面会に来てくれる彼女を待ち遠しいと思う反面、「私のせいで負担をかけている」と考えてしまう自分がいた。
「花音、今日はどうだった?」
莉奈はいつも通り優しく聞いてくれる。病室に入ってくるたびに、私の世界に色が戻るような気がした。
「うん……今日は本を読んでたよ」
そう答えると、莉奈が目を輝かせた。
「あ、それならこれ、持ってきたよ!」
莉奈が取り出したのは、私が何度も読み返していたお気に入りの本だった。
「あ、これ!!」
「これ、家で見つけたから。花音がいつも読んでたやつ」
手渡された瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。
「覚えててくれたんだ……」
「もちろんだよ。だって、花音がこの本を読んでる姿、よく見てたもん」
莉奈が笑いながら言う。その笑顔が眩しくて、私は思わず目を伏せた。
「ありがとう」
その本を抱きしめながら小さく呟いた。
莉奈は毎日、何気ない会話で私を安心させてくれた。
「退院したら何したい?」
そう聞かれたとき、私は少し考えてから言った。
「うーん……莉奈のフレンチトーストが食べたいな」
「いいね、じゃあ退院したら作ってあげるよ。花音の好きなメープルシロップいっぱいかけたやつ」
莉奈がそう言うと、私の胸にじんわりと温かいものが広がった。
彼女の優しさが、いつも私を支えてくれる。
◇
退院の日、莉奈が迎えに来てくれた。
病院の外に出ると、冷たい風が頬を撫で、久しぶりの外の世界に心が震えた。
「おかえり、花音」
莉奈が微笑みながら言う。その言葉に、私は涙が溢れそうになるのを必死にこらえた。
「ただいま……」
小さな声で返しながら、莉奈の手をぎゅっと握った。その手の温かさに、私はこれからの不安が少しずつ消えていくのを感じた。
◇
家に戻り、莉奈との生活が再び始まった。
朝、キッチンから聞こえる包丁の音と甘い香り。それが私にとっての「幸せ」だったことを思い出す。
「花音、フレンチトースト、もうすぐできるよ!」
莉奈が振り返りながらそう言う。私はソファに座り、彼女の姿をぼんやり眺めていた。
「莉奈、ありがとう。本当に……ありがとう」
自然に出た言葉に、莉奈は少し照れたように笑った。
「ありがとうは私のセリフだよ。花音がいてくれるから、私は頑張れるんだ」
その言葉が、胸の奥にじんわりと広がった。
夜、ベッドで隣に座る莉奈にそっと言った。
「私、莉奈がいなかったら、ここまで来られなかった」
「そんなの当たり前じゃん。だって私は花音が好きなんだから」
莉奈が私を見つめて笑う。彼女のその言葉が、私にとってどれほど大きな意味を持つかを考えると、また涙が溢れそうになった。
「私も……莉奈が大好き」
小さく呟いた私の言葉に、莉奈がそっと私の肩を抱き寄せた。
私たちは家族であり、恋人だ。
形にはこだわらない。ただ、こうしてお互いを大切に思い合える。それが何よりも幸せなことだと、私は知っている。