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107 猫と鼠



 その光に触れた瞬間、とても懐かしい匂いがして、気づけば

 私はー、僕は、かつての ぼく に戻っていた。



 膨れ上がった巨大な体から、何かがしゅうしゅうと音をたててなくなって、ちいさくなったその体は…。時成の残留思念も、異形の力も、何ももってはいない…ただの1匹の猫だったときのぼくになっていた。


 なにもかもが懐かしい。そうだ。かつてのぼくを…捨てられていたぼくをひろってくれたのは大好きなあの人だ。他の動物たちもたくさんいたけど、ぼくが一番あの人を好きだった。

 好きすぎて大切すぎて、冷たくなる体に触れていたくなくて…地面を染める血を見たくなくて…あの人がもういないのだと…認めたくなくて…。

 ぼくは…とても永くー、長く 悪い事 をしてしまった…。


 自責と後悔の念に、ボロボロと涙が頬を伝った時、あたたかい何かに体が包まれるのを感じた。

 焦がれて焦がれて仕方なかったあの人の匂いがして、ぼくは小さく「ニャー…」と鳴き声をあげて、そっと目を閉じる。



 あぁ…、体がだんだんと、崩れていくー……。



 あの人の光もおなじように、小さく弱くなっている…。

 ぼくと一緒に消えてくれるのかな…だけど、同じ場所へは行けないのだろう…。


 あの人は明るい場所へといく…。ぼくはきっと、もっとずっと暗いところへいく。

 それだけのことをぼくはしたから。

 

 もう、本当に…。いいんだ。


 すこしでも、一刻でも、もう一度、あの人に会えたのだから…。


 消えゆく視界の端に、倒れる由羅に駆けつけるかつての仲間が見える…。


 大切な彼女を彼らはもう一度、失ってしまったのかもしれない…。

 ごめんね…。身勝手なぼくを許してとはいえないけれど…由羅にだけは、感謝を伝えたかった。


 だから、せめて約束はしっかり守るよ。


 由羅、安心してほしい。時成を縛るものはもうどこにもいない…。


 解放されたよ。もう自由だ。






 ーーーーー

 ーーーー

 ーーー

 ーー

 ー






 まっくらな、真っ暗な闇の中だ…。


 体もなく、声もなく、意識だけがずっとある。


 海の中をただ漂っているかのように、暗闇のなか、ぼんやりとそれだけが存在していた。



 猫魔に光を譲り、私という存在が、あの世界から消滅して

 どのくらいたったのだろうか…。


 

 時成さんは、無事救出されたのかな…。ケガの具合はどうなのだろう…。

 猫魔についていた返り血の量から考えると、決して軽傷ではなさそうだけど…。

 この際、生きててくれるだけでも、ありがたいのかもしれない。


 だけど大丈夫かな…。時成さんの事だから、サダネさんたちが見つけても治療を拒んだりするかもしれない。あんなにも強情に消滅したがっていたし…。

 だれか私の代わりに時成さんに説明してあげてほしい。もう消えなくていいんだと…。これからは自由に、ただの人間として、トキノワの皆と生きていけるのだと。


 まぁ、でもあの時成さんの事だ。猫魔から解放されたことも、私が消えている理由も、きちんと理解しそうだから、心配ないか…。


 前よりも、すこしは人間らしくなった今の時成さんなら、特別な力なんてなくても、ただの人間になっても、きっと皆とも今まで以上に打ち解け仲良くやっていけるはずだ…。


 歪みもないから世界を渡るような力ももう必要ないし、闘う必要もない。

 生まれ落ちたあの世界でもう一度、人生をやり直せる。


 

 時成さんはきっと、怪我が治るころにでもなれば、人間であることにも慣れて、いつものように旅館の自室の窓際で、座椅子に座って町を眺めながら、キセルの煙をふかせていることだろう…。



 容易に想像できるその姿に、ないはずの心臓がぎゅっと締め付けられる感覚がした。



 暗闇の中、何巡と繰り返す思考。

 この永遠に続く孤独が、死なのだろうか…。


 

 (だとしたら、嫌だなぁ…)



 終りのない独り言を存在しない声でつぶやいた。


 光も、音も、なにもないはずなのに、私の無音の独り言に応えるように、突如としてそれは聞こえてきた。


 


『君は本当に、後先考えず突っ走る人だよね』




 え・・・?



 反応ができなくて、思考が追い付かなくて、ピシリと固まった意識が、次の瞬間ーーーストン。と、どこかに落とされた感覚がした。


 ボフンと何かに衝突して、痛みがあることに驚いて、目に映る自分の体に「は?」と声がでてまた驚いた。

 


「あれ?え?私?声がでる…ていうか体がある…なんで、ここどこ…」



 座り込んでいた体を起こし、見渡せばそこはどこか既視感のある床も壁も一面真っ白な空間。



『ここは僕の精神の中だよ』


「え…ね、鼠?」



 現れたのは真っ白い小さな鼠だった。

 その鼠は、あろうことか二足歩行でとことこと私に歩み寄ると、ぴょんと私の肩にとび乗った。そして私を見上げるなりまじまじと顔を見つめてきたかと思うと、何故か深いためいきを吐く。



『前世の君と今の君の性格は随分と違うようだけど、自分の事を軽んじる傾向にあるのは変わらないみたいだね』

「…とりあえずあなたは何者なのでしょうか?」


 

 聞きたいことは山ほどあるけれど、混乱状態の頭がなんとか絞りだしたその質問に鼠はなにかを納得したように『あぁそっか』とうなずいた。



『君はあまり聡い子ではないんだっけ。じゃあ、時成が君にしていたように僕も言葉よりも映像で君にみせようか』 



 この癇に障る物言いは間違いなく時成さんのそれに似ているけれど、私が何か言うよりも早く、その鼠は近づき、ーチュッとその小さな鼻で私の唇に触れた。

 


「っ…!」




 鼠にキスされるだなんて、一体どこのおとぎ話だろうか…。





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