二
ニ
ギリギリと音を立てるレールの軋り。メトロノームのような、一定の音を奏でる部屋の掛け時計。鼓膜を刺激する二つの雑音をも子守唄に変えて、ノエルは抗いきれぬ睡魔に大きな欠伸をもらしていた。ふと時計に視線を移せば、指針は深夜2時を回っており、
(いっその事わざと殺気を放ってみるか?)
なんて、短絡的な思考が脳裏にちらつく。
しかし、ロイド=パトリックという男は、戦闘狂でも快楽殺人犯でもない。ターゲットの命にしか興味を示さない暗殺請負人のプロである。殺気を餌に誘き出す事は不可能に近く、察知した時点で仕事を延期してしまう可能性すら有り得た。故にノエルは、隣室で眠るリオの動向に気を配りながら、いつ来るかもわからない暗殺者の奇襲に備えるしかなかった。
「こんな事なら、昨日寝溜めしときゃ良かった」
うわ言のように呟きながら、ノエルは間の抜けた欠伸をする。吐息とも鳴き声ともつかない音が漏れ出て、一瞬、耳の中に空気が溜まるのを感じた。カチッ、という指針の音が一際大きく聞こえる。黄ばんだ文字盤に視線を移すと、背丈の違う2本の針が、時を刻む事を忘れたかのように、先程と変わらぬ場所を指していた。
「はあ……」
長期戦になる事はわかりきっていた。ロイドが動き出すとすれば、乗客が寝静まる深夜だろうと予測もしていた。だけど、元来ノエルは、我慢強い性格ではない。半開きの扉の前に番犬のように屈んで、隙間から突き出した手鏡で殺風景な廊下を見張り、ようやく人影が見えたと思えば、とても暗殺業が務まるとは思えない“でっぷり”とした男。……限界だった。気が狂いそうになるほど、肉体的精神的共に限界であった。
もし、レイがこの場にいたならば、「油断するな!」と叱咤したであろうに。悲しいかな、彼は今、夢の中である。ノエルは、ハズレくじを引いたようなつまらない顔をして、布団の中でモゾモゾと動く塊を一瞥した――その時だった。
「……っ!?」
極く僅かな、ピリピリとした不調和が、だんだんと車内に蔓延り始めたのは。
目を見張る。廊下に突き出した手鏡に、前後左右に体を揺らす男の姿が映し出される。余所見していた一瞬の間に、一体何が起きたというのか。ノエルは、飛び出したい衝動を抑えながら、まだ幼さの残る顔に、険しい色を浮かべた。
太い足の隙間から見える、すらりと長い脚。奇妙な事に、ほとんど感じられない人の気配。重心を失う巨漢の後ろから、すっ……と現れた細身の男は、人一人気絶させておきながら、些かも悪びれた様子を見せなかった。
「悪いね」
気絶させた男を足蹴に、彼は真っ直ぐ歩を進める。
「急所は外してあるから」
センター分けの黒髪に、鮫のような表情のない眼差し。何度も何度も見返した、指名手配書に描かれた似顔絵と非常によく似たスーツ姿の男。ロイド=パトリック――その人に間違いない。
ノエルは、カラカラに乾いた咽喉に唾液を押しやる。恐怖とも歓喜ともつかない戦慄に心臓の音を轟かせながら、レイから拝借した苦無を力の限り握りしめた。ピッキング作業に取り掛かるロイドから、ほんの僅か警戒心が解かれ、ノエルは半開きの扉に手を掛けながら床を踏みつける。そして、気づかれてない今を好機と見て、勢い良く部屋を飛び出していった。
目と目が合う。苦無の切っ先がロイドの頬を掠る。一瞬の狼狽えが彼の余裕を砂のように崩し、ロイドは反撃の糸口もなく、後手後手に回るしかなかった。しかし、長年戦いの場に身を投じている彼からすると、ノエルの動きは単調で雑。武器を握っただけの大ぶりの拳など当たるはずもなく、平常心を取り戻すまでそう時間はかからなかった。
「瞬殺は暗殺術の基本――」
ロイドは息を吐く。苦無切っ先が目前に迫ったその刹那、床を蹴り、苦無を踏台に宙を舞った。
「……っ、な!?」
「さようなら」
上空からノエルの後ろに回り込んだロイドは、無防備に晒された首筋に手刀を入れる。
「賞金稼ぎさん。……永遠の夢を」
衝撃が走った。目の前は歪み、ロイドの声が遠のき、重心感覚を失った身体は次第に傾いていく。まるで、頭の中をシェイクされるような気持ち悪さに、ノエルはこのまま意識を手放しそうになった。だが、
「……さようなら?」
寸での所で身体の重心を取り戻したノエルは、床に手をつき、空中で体制を整える。
「何っ!?」
「それは出来ない相談だな」
ケホ、と小さく咳払いをしながら、ノエルはロイドとの間合いを一気に詰めた。呆気にとられるような速さ、風を両断する苦無の音。S級の賞金首ですら反応出来る者は少ないというのに、ロイドは流れる水のように簡単に避けてみせた。
「なるほど、なるほど。手刀が当たる直前、身体を動かして急所を避けていたな? よく、俺のスピードに付いてこれた、称賛するよ……っ!!」
「……っ!」
「流石は俺を狙うだけはある。でもね」
両脇の壁を交互に蹴って上へ跳ね上がると、ロイドは天井を足場に力いっぱい蹴り飛ばした。袖口に隠された暗器――鍼がノエルの眼球を狙う。
「まだ、まだ」
「っ!」
咄嗟に後転し、寸での所で避けたというのに、ほんの少し掠った右腕から、噴き出すように鮮血が流れ出た。もし、まともに当たっていたらどうなっていた事か――ノエルはじりじりと土俵際に追い詰められる感覚に陥った。
もう少し広い場所だったなら、大剣を使えたなら、少しは善戦出来ただろうに。悲しいかな、ノエルが持つ大剣は、100cmをゆうに超える両手剣である。下手に振り回して壁に刺さりでもしたら、待っているのは“死”しかない。
(苦無の使い道がわからねぇ)
(投げたところで当てる自信もねぇ)
(……なら魔術を使うか?)
(いや、それこそ大惨事になりかねない!!)
「来ないのか?」
「……っ」
「なら、こっちから行くよ!!」
ロイドが動く。高らかに嘲笑い、暗器を投げつけてくる彼に、ノエルは抑えがたいほど強く、敵意と焦燥を抱いた。持ち前の動体視力と運動能力で、全ての攻撃を交わしてはいるが、防戦一方である事に変わりはない。ノエルは大きく後ろに飛び退きながら、やぶれかぶれの笑みを浮かべた。こんな才能に依存した戦い方では、到底“兄”には届かない。
「こんなところで負けられねぇんだわ。弱いロイドなんなに……っ」
「ふん。負け惜しみを――」
ノエルが床を蹴ると同時に、ロイドはバネのように後ろに飛び退いた。抑えていた殺気が溢れ出し、四方から押し迫るような息苦しさが、車内いっぱいに張り詰める。ノエルは魔術の源とも言える魔力を右手に纏わせ、ロイドは袖に隠し持っていたスティンガー(全長83ミリの単発ピストルの事)を両手に滑らせた。
そして、両者の奥の手がぶつかり合おうとした――その時だった。予想だにしない出来事が、それもノエルにとって最悪の事故が起こってしまったのは。
※
耳障りな列車の稼働音に、慣れない箱型の枕。翌日に控えた魔術師試験への興奮も相まって、リオは中々寝付かれずゴロンと寝返りを打った。国家元首である父の名を使い、軍の情報網を利用した彼女は、既に賞金首の身柄を警察へ引き渡している。故に、受験資格を剥奪される心配はなく、傲岸不遜な余裕をかましていたのだが、一睡も出来ないとなると話は変わってくる。
「あ〜……」
唸るような嘆息を洩らして、リオは硬い枕に顔を埋めた。頭も身体も芯は疲れているのに、浅い眠りにさえ落ちる事が出来なくて。目を瞑ると余計に目が冴え、交感神経が活発化していった。睡眠薬に頼ろうと、起きて、紙コップに水を注いでみたが、このまま寝過ごしてしまいそうで、結局、水をひとくち喉に流し込むだけに留まった。
(まいったな)
ため息一つ。こんな事ならいっそ事件でも起きればいいのに……なんて、不毛な考えに支配されつつ、リオは重たい足取りで布団の中へ戻っていく。そして、硬い枕に再び顔を埋めようとした、その瞬間。不吉な拍動が心臓を走り、リオは弾かれるようにして身を起こした。
「え……っ?!」
総毛立つようなピリピリとした殺気。葛湯のように重くなる空気。物音はない。列車の稼働音しか聞こえない。けれども、隠し切れない2つの気配は、禍々しいオーラを放っている。リオは、不自然に釣り上げた口を、声を出すでもなくハクハクと動かした。
(何? このヤバい感じ)
気配を感じ取る事を苦手とする彼女だが、全身の毛穴が伸縮してしまうようなこの殺気は、気づかない方が難しいだろう。リオは椅子にかけたカーディガンを羽織ると、警戒する事もなく扉に近づいた。夜の学校に忍び込む少年のような、悪戯じみた表情を浮かべながら。
※
「こんなところで負けられねぇんだわ。弱いロイドなんなに……っ」
「ふん。負け惜しみを――」
ノエルが床を蹴ると同時に、ロイドはバネのように後ろに飛び退いた。抑えていた殺気が溢れ出し、四方から押し迫るような息苦しさが、車内いっぱいに張り詰める。ノエルは魔術の源と言える魔力を右手に纏わせ、ロイドは袖に隠し持っていたスティンガーを両手に滑らせた。
そして、両者の奥の手がぶつかり合おうとした――その時だった。予想だにしない事故が、それもノエルにとって最悪の出来事が起こってしまったのは。
(なっ……!?)
引き戸が開く。2人の間に挟まれた扉が、ガラッと音を立てて、リオ=クルスクその人が姿を現す。勢いがついた両者の攻撃は今更止める事が出来ず、間に挟まれた彼女へとその矛先は向けられた。よりによってこんな時にと、ノエルの顔に焦燥と憤懣が刻まれる。
リオは一般人ではない。魔術を扱う者であれば、強さの程度に差はあれど、皆等しく武芸を嗜んでいる。なのに、今の彼女はあまりに無防備で、突然の出来事に身体が硬直してるようにも見えた。
(このままじゃ、確実に当たる――)
「……っのやろ!」
ノエルは空中で身体をひねると、壁を蹴りつけ、転がるように地面へと着地する。だが、ロイドの標的は元よりリオ。これを好機と捉えたか、攻撃を止めるつもりは端からないようだった。リオは、丸い目を大きく見開いて、スティンガーの銃口を向けるロイドに畏怖の感情を向ける。
「チィ!」
ノエルは大きな口を開いて、
「ぼさっとすんな、リオ=クルスク!!」
「……っ!」
極僅かな金属音が2度、深夜の車内に鳴り響いた。自身めがけて乱れ飛ぶ弾丸に、リオは頭の中を白くしながらも1つ2つと弾を避けていく。ほぼ反射だった。勝手に身体が動いただけで、思考は未だ置いてきぼりを食らったまま動いてはくれなかった。
事件が起きる事を望んだのは確かだが、それは言葉の綾に過ぎない。一瞬の間に距離を詰め、理不尽な暴力を振るってくるロイドに、リオは命からがら逃げる事しか出来なかった。攻撃が見きれないわけじゃない。恐怖で足が竦んだわけじゃない。ただ、運動能力の差に成す術がなかったのである。ノエルは顔いっぱいに狼狽を浮かべながら、ロイドとリオの間に割って入ろうとした。その刹那、
「聖領域……!」
リオでもノエルでもない。第三者の、凛とした声が、車両に響き渡った。瞬間、ロイドの身体はあらぬ方向へ弾き飛ばされ、窓ガラスに叩きつけられる。大きく曲がった唇から、苦痛の声が漏れ出ていた。
「な……何? 何が起こったの……!?」
驚目を瞠らせたリオと視線がかち合う。彼女の周りに張られた虹色の結界が、音も立てずに消えていった。おそらくロイドは、この初級防御術に直撃したせいで、吹っ飛ばされたのだろう。ノエルは望外とでも言いたげな目つきで、尻餅をついたままのリオを立たせてやった。
「睡眠の妨害、されたくないんじゃなかったの?」
前を見据えたまま軽口を叩くと、後ろから大きな息が聞こえた。この嘆息にはどういう意味が込められているのか。呆れ。苛立ち。それとも救えた命に対する安堵か。
「殺気の事まで考えていなかった。好き勝手暴れおって……眠れるわけないだろう」
「し、仕方ないだろ」
「大体……なんだこの有り様は」
何を考えてるかわからない、仄暗い瞳が、リオを捉えた。
「私が来なかったら大惨事だぞ」
蝋人形のような顔に、若干の呆れを滲ませて、レイは2人の元へ歩み寄る。決まり悪げな表情を浮かべるノエルにも、礼を言うタイミングを見計らうリオにも、気づかないふりをして。彼は、ゆっくりと起き上がるロイドの姿を凝視していた。魔術を直に喰らったとはいえ、所詮は防御術。殺傷能力は低く、致命傷を与える事は出来なかったのだろう。
「ノエル」
「ああ。次で決める」
一歩、前に歩を進めたノエルの後ろで、レイが三棍棒を構える。ロイドの標的はあくまでリオ。彼女に攻撃の手が伸びないよう、レイが守りに徹する戦略である。ロイドは「そういう事」と納得したように呟いて、歪な笑みを頬に浮かべた。
「魔術師が加勢に来るなんて。ついてないね」
「なら、降参するか?」
「そうだね。……でも、僕は負けるつもりはないよ!」
言うが早いか踵を返すと、まるで逃げるが勝ちと言わんばかりに、韋駄天の如く駆け出していった。感情的な要素を徹底的に排除し、いとも簡単に背を向けたロイドに、ノエルとレイは僅かに反応を鈍らせる。武芸に秀で、絶対の自信を持っていた彼が、まさか逃げるだなんてこれっぽっちも思わなかったのだ。
しかし、ロイドの素性を全く知らないリオは違う。翡翠の魔力を全身にまとい、蔦の鞭を両腕に浮かび上がらせていた。フラストレーションを散髪するかのように、命を狙われた恨みをぶつけるかのように、彼の背中に向かって攻撃術を放とうとしていたのである。まずい――レイは狼狽を顔に浮かべて、
「やめろ!」
「……っ、何でですか!?」
リオが扱える術の中に、防御や拘束といった補助術は存在しない。好戦的かつ攻撃一辺倒な彼女が、狭い車内で魔術を使用したらどうなるか――受験生の素性を調べ上げてるレイに、わからないはずがなかった。憤懣やるかたないといった様子のリオの腕を引いて、行く手を阻むかのようにレイは彼女の前に立ちはだかる。そして、
「ノエル」
「ああ……!」
ノエルが一歩前に躍り出る。
足に蓄積された金色の魔力が、威嚇するような稲妻へと変わり、今度はリオがぎょっとする番であった。植物属性より、雷属性のほうが、遥かに攻撃範囲が広いからである。
「ちょ、待っ、流石にヤバいんじゃ……!」
「中級強化術――電光石火」
青白い閃光が車両内を透明にし、威嚇的な音が鳴り響いた瞬間。車両間を跨ごうとしていたロイドとの距離を瞬時に詰め、ノエルは彼を羽交い締めにし、動きを封じていた。速い――いや、速いなんて言葉じゃ言い表せない。術者の身体能力を爆発的に上げる中級強化術を使用したとは言え、今の彼は天空神が放つ雷の矢そのものである。
「なっ……!?」
追い詰められた心境が焦燥感を招き、ロイドは視線の定まらない目で後ろを見やった。彼が驚くのも無理はない。ノエルは、今の今まで、体術のみでロイドと対峙していたのである。戦いの痕跡を列車に残さない為、というのが一番の理由だが、最初から手の内を最初から明かすのは得策ではないという戦略でもあった。
「貴様……魔術師……!?」
「悪いけど、大人しくしてもらうよ……!」
獣のよう荒れ狂うロイドの首を捉えると、
「電撃」
微弱の電気を右手に流して、ノエルは彼の意識を飛ばすのだった。