第一話
リズは王宮騎士団に所属する平民の女性騎士である。
この国の騎士団は、厳しい試験に合格すれば性別や身分を問わずに入団を許される実力主義の騎士団であり、リズは十五歳の時にその試験を突破して騎士団へと入団した。
入団後は騎士見習いからスタートして騎士になるまで丸二年かかり、そして正式に騎士に叙任されてから早三年。
先日無事二十歳の誕生日を迎えたリズは、平民や下級貴族出身の者が集められた隊に配属され、毎日剣の修練と騎士団の任務に明け暮れていた。
同僚に剣ばかり振り回しているから行き遅れるのだと揶揄われる事にもすっかり慣れた。むしろずっと騎士を目指してきた自分にとっては、こうして過ごす毎日が充実しているので気にもならない。
平民出身でありながら剣の腕前だけで王宮騎士団に入団した女性という事で、入団当初は周りが騒がしかったものの、今では好奇心から修練を覗きに来る輩もめっきり少なくなって快適だ。
そして何より、ここには尊敬する隊長がいる。
これが何より大きかった。
リズが所属する隊の隊長を務めるドミニク・ギーは、深みのある赤毛と灰銀色の瞳を持つリズよりも五つほど歳上の男性だ。
平民や下級貴族からなる隊の隊長を務めながらも、自身は伯爵家の出である。
身分や性別に関係無く皆を平等に扱ってくれる彼は、貴族の中では変わり者の部類に入るだろうが、部下にはよく慕われていた。
リズが騎士団に入団した当初、彼はまだ隊長ではなく、所属する隊も別だったが、女性騎士の物珍しさからリズを見ようと沸いた野次馬を一喝の元に蹴散らし、お前は見込みがあるから修練に集中しろとリズに言ってくれた人だった。
リズが二年で叙任まで漕ぎ着ける事が出来たのも、剣術に優れた彼が時折指南役を引き受けてくれた点が大きいとリズは考えている。
日々の修練や任務を共にし、また非番の時には同僚達と一緒に町に繰り出して酒場で食事をする事もあった。
そういう諸々の積み重ねがあり、リズがギー隊長に淡い恋心を抱くまでに然程の時間は必要なかった。
──そんな折、そのギー隊長がとある貴族家の令嬢に婚約の申込みをしたという話が騎士団内に広まった。
噂によれば、今まで浮いた話の一つもなかった隊長が突然婚約の申し込みをした相手というのは、病弱でデビュタント以来殆ど表に出て来ない深窓の貴族令嬢であるという。
彼はそもそも伯爵家の人間なのだから、むしろ今まで婚約者がいなかった事の方が不思議なくらいだったが、リズは耳にしたその噂にわかりやすくショックを受けた。
「ギー隊長! 婚約の申し込みしたって本当ですか?」
この隊では他の隊より上下関係が緩い事もあり、勇気ある一人の騎士が隊長に噂は本当かと尋ねれば、隊長は少し照れたように灰銀色の瞳を細めて首肯した。
しかも、聞いてもいないのに「数年前のデビュタントの夜会の折に会った非常に可憐な令嬢だ」と追加情報まで披露してくれたのだ。
その様子にこれは隊長の一目惚れだなと同僚らは察し、上手くいくように祈っていると声を掛けてそれぞれ修練へと戻っていった。
同僚の騎士らに混じってそれを聞いていたリズは、その頃にはショックのあまり頭の中が真っ白になっていて、そうなんですかと笑って言えた事は最早奇跡に近かった。
──二十歳にして初めて体験する初恋が失恋に変わった瞬間である。
温め過ぎた初恋が、そのまま息絶えて冷たくなっていくのを感じながら、リズは騎士団に入団して初めて隊長に三日間の休暇を申請した。
何せ初めての失恋であるから、今まで抱えていた恋心を弔うのにどのくらいの期間が必要なのかリズにはさっぱりわからなかった。
わかっているのは、いつか来ると理解していたはずの恋の終わりは予想以上に辛いものだということだけだ。
適当に三日間と申請したが、もしかしたら半日で充分かもしれないし、三日では足りないのかもしれない。
それすらも上手く考える事が出来ないまま、リズは何とかその日の勤務を終えて騎士団の女性官舎に戻ったのだった。
(……そっかぁ、隊長結婚するんだ……)
まだ婚約申込みの段階らしいが、病弱な令嬢に結婚を申し込む奇特な貴族令息などそうそういない。
しかもドミニク・ギー伯爵令息という人は、精悍な顔付きと逞しい恵まれた身体を持った長身のイケメンなのだ。
顔良し、家柄良し、性格もリズの知る限り良し。断る理由が見当たらない。きっとこの申込みはそのまま結婚へと進展するのだろう。
ドミニクの結婚式に参列してお祝いの花を手渡す未来の自分の姿を想像して、その夜リズは少しだけ泣いた。
翌朝。取得した休みの初日であるのに、身体に染み込んだ習慣によっていつもと同じ時間に起床したリズは、官舎の管理をしている女性から手紙が届いていると言われ、不思議に思いながら受け取った手紙を部屋で開封していた。
誕生日以外で実家からの手紙なんて珍しい。
騎士団に入団してからは殆ど帰省もしていなかったので、もっと頻繁に顔を見せろという催促だろうか。
「ヒェ」
しかし、何気なくそこに書かれた内容を読んだリズの口から漏れたのは、恐怖とも困惑ともつかない呟きだった。
震える手で手紙を持ち、リズは念の為だと口の中で繰り返して、確かめるように最初から一字ずつじっくりと手紙を読み直した。
そして時間をかけて最後まで読み終えるとおもむろに天を仰いだ。
「ははは。そ、そっかぁ。隊長が婚約を申込んだ相手ってエリザベス・ヴェスピエ子爵令嬢だったのかぁ」
ふーん。そっかぁ。そうなんだぁ。
乾いた笑いと共にそんな言葉を繰り返すこと約五分。
リズは手紙を思い切り床に叩き付けて叫んだ。
「──それ、私の事じゃん!!!!!!」
平日の朝という事もあり、元々人数の少ない女性官舎では、幸いリズの叫び声を聞き咎める者はいなかった。
肩で大きく息をして、リズは封筒ごと床に叩き付けた手紙を見詰め、そのままずるずるとその場にへたり込む。
なんだかとってもややこしい事になってしまった。これは失恋の痛手に浸っている場合ではない。というかその辺から既にややこしい事になっている。
「ど、どうしよう〜」
蒼白な顔で頭を抱えたリズこそ、病弱な深窓の令嬢ことエリザベス・ヴェスピエ子爵令嬢その人であった。
──そもそものきっかけは、彼女が幼少の頃に剣と馬術の才能を開花させた事にある。
ヴェスピエ子爵家の三姉妹の末っ子として生まれた彼女は、幼い頃から『じゃじゃ馬を煮詰めて凶悪にしたような娘』と評される程、よく言えば活発な、悪く言えば評価通りの娘であった。
そんなリズは、貴族社会の堅苦しい空気が合わず、家族と離れ領地の片田舎で育った。
基本的な令嬢としての教育と躾こそ受けたが、その頃から騎士になると言って憚らなかったので、両親もこんなじゃじゃ馬に貰い手はあるまいと結婚は早々に諦めて田舎で伸び伸び暮らす事を許可したのだった。
そもそもヴェスピエ子爵家は長子である姉が婿を取っていて安泰であったので、政略結婚の必要がなかったのも大きい。
貴族の結婚とは家格と品位。
ドレスの裾をからげて庭を駆け回り、木登りを嗜み、嬉々として剣を振り回すこの娘を無理やり結婚などさせて嫁ぎ先から返品されたら、それこそ取り返しのつかない大問題である。
彼女の田舎暮らしは両親と本人の利害の一致の結果だった。
最初は試験さえクリアすれば良いと思っていたのだが、実際のところは貴族社会の暗黙の了解によって貴族令嬢は騎士団入団試験の受付さえ受理されないと知り、伝手を頼りに幼少期から過ごした片田舎出身の平民という身分を急遽用意したのもこの時だ。
父としては難しいと評判の試験に落ちればさすがに諦めて令嬢として生きていく事を受け入れるだろうと思っていた部分もあったのだろうが、そんな淡く砂糖菓子よりも脆い期待は、当然のようにばっきばきにへし折られた訳である。
騎士団への入団が決まり、リズは平民の騎士として生きる為にまず子爵令嬢エリザベス・ヴェスピエの不在を隠す工作に出た。
入団が決まったのはデビュタント前だったが、デビュタント後、成人貴族として認められた者達は皆王都で社交活動に勤しむのが通例だ。
全く何処にも顔を出さないのは要らぬ詮索のもとになるし、何より社交活動自体が煩わしい。
リズは王都にいながら社交活動をシャットダウンする為に、エリザベス・ヴェスピエはデビュタントこそするものの病弱で屋敷から出る事が出来ないという設定を作り、家族や使用人達にそれを吹聴して回ってもらった。そうすれば程なくして病弱な令嬢の出来上がりである。
幼少期から田舎で過ごしていた身で、一日の大半を剣の稽古に明け暮れて生きて来た彼女に貴族としての付き合いや友人は皆無である。
王都にエリザベスの顔を知る者がほとんどいないのはかえって好都合だった。
病弱設定を選んだのは、貴族の結婚で女性に求められるのが、多くの場合は家の差配と後継者を産む事であるからだ。
後者は家門の存続にも関わるので重要かつデリケートな問題だった。
外に出られないほど健康を損なっているというのは、それだけで結婚に向かない事を示すので、病弱であると触れ回ればあえて婚約の申込みをするような輩は現れないだろうという目論見があった。
今まではそれで通っていたから油断した。
まさか行き遅れ甚しい二十歳になった令嬢相手に婚約を申し込む者が現れるだなんて。
そしてそれがリズの初恋の相手であるドミニク・ギー本人だなんて。
「あぁあ、どうして隊長は『エリザベス』に婚約の申込みなんてするの……!」
このまま何かの拍子に子爵令嬢がよりにもよって身分を偽って騎士になっていたなんて事が露見しては、家名に傷が付いてしまう。
絶対に、何としてでも絶対に、正体がバレる事だけは避けなければ。
(私、騎士辞めたくないし、いっそエリザベスは病気で死んだ事にして貰う? いやそれだと葬儀や各種手続きでバレる。貴族籍そのものを改竄なんて、それこそバレたら貴族裁判ものだわ。でも今から海外に行ったなんていうのは病弱設定考えたら不自然だし……)
こんな事なら不在の理由を海外留学とかにして、そもそもこの国にいない事にしておけば良かったとリズは思ったが、後悔は先に立たないからこそ後悔という。
ダラダラと冷や汗をかきながら、バレる訳にはいかないの一心でリズはこの婚約を断る理由を考え始めた。
好きな人からの婚約の申込みなのに、自分の身勝手のせいで断らなければならないなんて。
婚約を断る理由をあれこれと考えながら、あまりの自業自得さにその夜やはりリズは少しだけ泣いたのだった。