傷心の令嬢は、皇太子との別れを決意する(1/1)
こっそりと家を抜け出した私は城へ向かった。エドウィン様の部屋を訪問すると、彼は驚きつつも快く入室を許可してくれる。
「クリスタ! 君の方から訪ねてきてくれるなんて!」
エドウィン様は感激しているようだったけれど、すぐに怪訝そうな表情になった。
「具合でも悪いのか? まっ青だぞ?」
「……私じゃなかったんですね」
私は唐突に切り出した。ここに来るまでに言いたいことを順序立てて考えておいたはずなのに、エドウィン様の顔を見た途端に、何の脈絡もないところから話し出さずにはいられなくなってしまったんだ。
「これは私じゃなかったんですね、エドウィン様」
ポケットからくしゃくしゃになった似顔絵を出した。エドウィン様が困惑する。
「いや、君だが……」
「いいえ! 私じゃなかったんです!」
私は自分でも驚くくらいの大声を出していた。
「これは私の母です! 私は母親似なんですよ!」
「クリスタ、何を言っているんだ?」
エドウィン様は取り乱す私をどう扱っていいのか思案するように腕組みした。
「俺は君の母上に会ったことがない。面識のない人の肖像画を描けるわけないだろう?」
「いいえ! エドウィン様は母に会ったことがあります!」
私は髪を振り乱しながら首を大きく横に振った。
「あなたがとても小さい頃、母はエドウィン様の住む離宮へ足繁く通っていました! そんな母にエドウィン様はすごく懐いていたんですよ!」
「何だって?」
エドウィン様が口をポカンと開ける。私はお母様の日記に書いてあったことを一つ一つ思い出していった。
「エドウィン様にとって母は特別な人でした。何度も「だいすき」と言って、母がいないと泣いてしまったんですって。それだけじゃなくて、『らぶれたー』なんて送ったそうですよ。微笑ましいこと!」
努めて穏やかな口調を心がけたつもりだったけど、言葉の裏に潜む棘は隠しようもなかった。「クリスタ……」と、エドウィン様が恐る恐るといったように囁く。
「君……もしかして妬いているのか?」
エドウィン様が少し苦笑いした。
「そんなの、小さい頃の話じゃないか。それは……確かに俺の初恋の相手は君の母上だったかもしれないけど、ずっと昔のことだ。第一、俺は彼女のことなんか何も記憶に残っていないんだぞ?」
「記憶に残っていない? そうでしょうか?」
エドウィン様は事の重大性が分かっていない。私は頬をピクピクさせた。
「レディーの手紙から香ってくる香水の匂い、覚えていますか? エドウィン様はあれを懐かしいと表現した。そして、私も同じことを思いました。どうしてでしょう? 母が使っていた香水だからですよ! 二人とも、幼少期にそれを嗅いだことがある! 私の言いたいこと、分かりますか? ハッキリとは覚えていなくても、心のどこかには大切な思い出は残るものなんです!」
私は声を荒げた。
「エドウィン様、私と舞踏会で会った日、あなたは何と言いましたか?」
「え……? 君が好きだ、と……」
「他のことも言ったでしょう!」
私は腹立たしくなった。こんな些細なセリフを覚えていたせいで、今頃になって苦しめられるなんて。
「『前にどこかで会ったことがないか?』、『初めて会った気がしない』。そう言いました」
私は絶望のあまり笑い出したくなった。お母様の似顔絵をテーブルに叩きつける。
「そりゃそうですよ! 初めて会ったわけじゃないんですから! エドウィン様はこの顔を知っていた! 私と同じ顔をした人を! 私の母を! エドウィン様は初めから私を見てなかった! 私を通してもう会えなくなってしまった恋しい人を……私の母を見ていたんですよ!」
エドウィン様は何も言わなかった。衝撃で固まってしまっている。私は拳を固く握りしめた。
「エドウィン様が好きなのは私じゃないんです。一目惚れなんて……初めから存在しなかったんですよ」
踵を返し、部屋を出る。エドウィン様は止めようとしなかった。
早足で廊下を歩きながら、唇を噛んで涙が出そうなのを必死で堪える。
普通の女の子なら、こういうことは気にしないんだろうか。エドウィン様が描いた肖像画が別の人と似ていたことなんて、ただの偶然で済ませたのかもしれない。
だけど、私は普通じゃない。かつての失恋が私を臆病にさせ、疑心暗鬼を生じさせていた。
その結果、幸せはまたしてもこの腕の中をすり抜け、後に残されたのは、何もかもを呪わずにはいられないような捨て鉢な気持ちだけだった。
一目惚れなんてないと分かっていたはず。人を好きになってもろくなことにならないと理解していたはずだ。
私は本当にバカだった。たった一回恋に破れただけじゃ、何も学べなかったらしい。
もう間違いたくない。今度こそ正しい選択をしなければ。これ以上惨めな思いはしたくないから。
私は宮殿を後にした。二度とここには戻って来ないつもりだった。




