恋をしたくない令嬢は、皇太子との距離を置きたい(2/2)
昼食ができるのを待つ間、私はバルコニーの手すりに寄りかかって外を見ていた。エドウィン様の言う通り、今日の風は爽やかだ。被っていたスカーフを脱ぎ、ゆっくりと深呼吸をする。
「何だか久しぶりにクリスタの顔を見た気がするな」
バルコニーに置かれている瀟洒な椅子に腰掛けたエドウィン様が言った。
「カツラを被っていたり扇子で顔を覆ったりしているせいか、何だか君が別人みたいに見えて、ずっと妙な気分だったんだ」
「……私は私ですよ」
そう言いつつも、私は変装用の小道具を取り去り、テーブルの上に置いた。
自分を守る鎧を脱いでしまったように思えて無防備さを感じたのは一瞬のこと。すぐにエドウィン様の温かな視線に緊張を解される。
「イメチェンも悪くないけど、俺はこっちの方がいい。……好きだよ、クリスタ」
エドウィン様が椅子から腰を上げ、私の隣に立つ。私は彼の方を見ることができなかった。
前みたいにきっぱりと、「バカなことを言わないでください」とはねつけられたら、どんなに気が楽だろう。
エドウィン様はいい人だ。レディー捜しだって皇太子の権力を使えば楽に進められるだろうに、あえてそうせずに自分の力で成し遂げようとしている。
ううん、それ以前に彼は私に命令ができる立場だ。「俺のものになれ」って言えばこんな面倒なことをしなくても私を手に入れられる。
でもエドウィン様はそんなことはしない。彼は本気なんだ。本当に私が好きなんだ。少なくとも、今の彼はそう思い込んでいる。
彼は知っているんだろうか。その想いが叶わなかった時に何を感じるのか。絶望とはどんな感情なのか。柔らかくて純真な心を傷付けられるのがどれほど苦痛を伴うのか。
きっと知らないんだろう。想像したことすらないに違いない。彼は私に夢中だ。そういう時は、希望に満ちたことしか考えられなくなってしまう。
心が乱れるのを感じた私は、「レディーを捜し出す」という目的を束の間忘れ、ここから逃げ出したくなってきていた。
「エドウィン様、今日はもう帰っていいですか?」
私との恋に破れたら、エドウィン様はどうなってしまうんだろうか。エドウィン様は「諦める」と言っていた。けれど、もし上手くいかなかったら?
彼は私を恨むだろうか。それは嫌だった。エドウィン様に嫌われるのはきっと辛いだろう。そんな苦しみは味わいたくなかった。
「男の人と二人きりなんて、どうかしてました。こういうのはよくないです」
「いきなりどうしたんだ?」
唐突に拒絶され、エドウィン様は少しショックを受けたようだった。ああ、そんな反応はやめて。私だって、言いたくて言ってるわけじゃないのに。
彼に嫌われないためにはこうするしかない。こうやって少しずつ距離を遠ざけていって、最後には私を忘れてもらうしかないんだ。
それに、これはエドウィン様のためでもある。恋心なんて、消してしまうのが一番いいんだから。
「もしかして……俺が心の中で『こうして二人でいるとデートみたいだ』と思っていたことに気付いたのか? ごめん、クリスタ。君がそういうのを嫌がるのは知っていたから、口には出さなかったんだが……」
「違います。……いえ、デートが嫌っていうのは間違ってないんですけど」
とんちんかんなことを言うエドウィン様に苛立つ。どうして私が最善の道に誘導しようとしていることに勘付けないんだろう?
「恋なんて興味ありませんから。エドウィン様も早く考えを改めるべきです。『自分は本気だ』『二人なら幸せになれる』って思っていても、所詮待っているのは真っ暗な未来だけなんですよ。信じても痛い目を見るだけです」
「クリスタ……」
エドウィン様は痛々しそうな顔になる。でも、私の言葉が響いたわけではなさそうだった。
「前から聞きたかった。でも……触れない方がいいかと思って、あえて何も言わなかったんだ。だけど、これ以上は無視できそうもない。……どうして君はそんなに無理をしてまで、頑なに恋を信じようとしないんだ?」
「無理なんかしてません!」
反論したけど、自分でも狼狽えてしまうくらい、虚勢を張ったように聞こえる言い方だった。
私は唇を噛んで心を落ち着かせようとする。
無理なんかしていない。無理なんか。「恋なんて虚しいだけ」「誰かを好きになっても無駄」。私はそのことをちゃんと知っているんだから……。
「クリスタ?」
声をかけられ、思考が途切れる。でも、話しかけてきたのはエドウィン様じゃなかった。声の主を求め、私は反射的に辺りを見渡す。
「こっち、こっち!」
庭の方からだ。私は視線を下へ向ける。そして、その迂闊な行動を悔やんだ。
「しばらくだな」
親しげに声をかけてきたのは、惚れ惚れするほど整った顔立ちの青年だった。たくさんの友人を引き連れて、こちらに手を振っている。
「元気だったか? また今度遊ぼうぜ」
青年の言葉に、友人たちが爆笑する。皇太子が近くにいることには気付いていないようだ。
私は呼吸が段々と浅くなっていくのを感じながら後ずさった。
「誰だ?」
エドウィン様が尋ねてくる。
彼ですか? マンフレートっていうんですよ。ほら、宮内大臣の息子の。
そんな風に何気ない調子で返せたら、どれほどよかっただろう。
私にできたことといえば、ただ一目散に駆け出すことだけだった。少しでもあの青年から遠ざからないと、どうにかなってしまいそうだ。
それとも、もうおかしくなっているのかもしれない。頭が真っ白になり、胃が締め付けられるような不快感に襲われ、何も考えられなくなっていたのだから。
……いいや違う。ただ一つだけ、ある最悪の思い出が心の奥底から蘇ってきていた。
それは半年前に体験した、私の初めての恋と、失恋に関する苦い記憶だった。




