勇者の結婚と元婚約者
カズキが隣国に戻ってから、もう二か月が経とうとしていた。
あとひと月もしたら、彼が帰って来る…私は指折り数えて、その日を楽しみに待っていた。
カズキに心配をかけないように、彼がいなくてもきちんと運営ができていたと胸を張って報告ができるように、皆で一丸となって頑張っていた、そんなある日の出来事だった。
「お嬢様、大変でございます!」
執務室で仕事をしていた私のもとに、ジェイコブが血相を変えて走り込んできた。
「隣国から来た商人が話していたのですが、勇者様が…」
「カズキがどうしたの?」
「隣国の王女様、聖女様とご結婚をされたと…」
「…えっ!?」
思わず立ち上がっていた。
――カズキが…隣国の王女様や聖女様と結婚?
なんで? どうして?
「つい先日、盛大な結婚式が催されて…全国民が祝福したそうです」
「結婚式…」
頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなった。
膝がガクガク震え立っていられない私は、力なく椅子に座り込んだ。
「…どうやら、王命で決められた結婚らしく、カズキ殿のご意思ではないようです」
「そ、そうなんだ…」
たとえ勇者といえども、王命に逆らうことはできない。
一夫一妻制のこの国とは違い隣国は一夫多妻制なので、カズキは二人と結婚させられたのだろう。
「結婚後は、勇者様は国の要職に就かれるのだとか」
「傷だらけになりながら国に貢献したんだから、当然よ…」
こんなちっぽけな領地で働くより、カズキにはその身分に相応しい場所がある。
彼の将来はこれで安泰なのだから、私は喜んで祝福してあげなければ…
「…お嬢様?」
ジェイコブに声をかけられたが、私の耳には届いていない。
こんなことになるのなら、せめてカズキに自分の気持ちだけでも伝えておけばよかった…たった一つの後悔が、ぐるぐると私の頭の中を駆け巡る。
「ちょっと疲れたから、部屋で休むわ…」
それだけを告げると、執務室を出て急いで部屋へと向かう。
とにかく、早く一人になりたかった。
部屋に戻ったあとも、私はボーっとしていた。何も手に付かず、やる気が全く出ない。
ふと顔を上げると、カズキから預かっている鞄が目に入る。
『大事な鞄を、中身ごとルビーへ預けたい。俺が戻るまで、預かっておいてくれ』
「…カズキの嘘つき。これからも…一緒に…領地をもり立ててくれるって…言ったのに…」
悲痛な心の叫びは誰に聞かれることもなく、薄暗い部屋の中ですすり泣きの音と共に消えた。
◇
もうすぐカズキと約束した三か月になろうとしているが、もちろん彼は帰ってこない。
それでも、心のどこかで待っている自分は、相当未練がましい女だと思う。
私は、毎日仕事に打ち込んでいた。
何かに没頭していなければ、すぐにカズキのことを思い出してしまう。
一緒に過ごした期間はたった三か月くらいなのに、彼の存在の大きさに改めて気づかされてしまった。
彼が最後にやっていた仕事…色付きゆで卵は、大人気の土産物となっていた。
『ヒガエリオンセン』の客だけでなく、街道を通る旅人がわざわざ立ち寄って買ってくれるのだ。
ゆで卵や蒸し野菜は土産だけでなく休憩所の食事処でも提供されていて、好評を博している。
それ以外にも、皆が意見を出し合って新しい土産や料理の開発にも力を入れていた。
これは全て、カズキが言っていた『リピーター』を飽きさせない努力になるのだろうか。
私は、どうにかしてカズキへ鞄を返せないかと考えていた。
彼の大切な物を、私がいつまでも預かっているわけにはいかない。
◇
今日、私は一人で領内の視察をしていた。
領民たちは皆、私に気づくと声を掛けてくれる。彼らの表情はいきいきとしていて、今の生活に満足している様子が見てとれた。
給金が払えず別の仕事に従事していた者たちを呼び戻し、観光客が増えた領内の治安維持にあたらせているが、特に問題は起きていないようで一安心だ。
私は屋敷へ戻ることにした。
馬に乗れない私の移動手段は、一頭立ての幌のない小型馬車。自ら手綱を握り操作するのだ。
カズキのいた世界では、馬車ではなく別の乗り物が主流だったらしい。
隣から私の一挙手一投足を興味深げに見つめる黒い瞳は、いつもキラキラと輝いていた。
◇
屋敷近くに差し掛かったとき、一台の馬車が私の進路を妨げるようにして止まる。
見覚えのある家紋が目に入り、「なぜ、ここに?」と私は首をかしげた。
「久しぶりだね、ルビー嬢。相変わらず、元気そうだ」
「大変ご無沙汰しております…アーチー様」
彼はアーチー・スコット、二十三歳。
スコット伯爵家の三男であり、私の元婚約者だ。
「今日は話があって来た。未だ婚約者のいない君のために、私が一肌脱いであげようと思ってね…」
「どういうことでしょうか?」
「ははは、察しが悪いな君は…私が、また君の婚約者になってあげようと言っているのだよ」
「………」
一年前、家同士が決めた婚約を一方的に破棄しておいて、今度はまた婚約をすると言うアーチー。
自分勝手な物言いには呆れて言葉が出ないが、もともと彼は昔からこういう人物だった。
だから私も、婚約破棄をされたときは正直ホッとしたくらいだ。
「大変ありがたい申し出とは存じますが……お断りさせていただきます」
私は、きっぱりと断りを入れた。
貴族同士の結婚は、家と家とのつながりを強化するための政略結婚だ。
もとより、相手に愛情などは求めていない。…が、それでも、せめて人として尊敬できる相手がいい。
そう思ったとき、ふと脳裏に浮かんだのは……やっぱり彼だった。
「実は、他家から婚約の打診を受けておりまして…」
これは、本当の話。
ドレファス領の評判が王都へ広まると、婚約者のいない私へ見合い話が多数持ち込まれてきたのだ。
それこそ、アーチーより家柄も人柄もよい人物たちから。
あなたより条件のよい人物から、婚約の申し込みを受けている…暗にそう伝えると、余裕の笑みを浮かべていたアーチーの表情が一変した。
「そんなことは、私が認めない!」
「誰と結婚するかは、わたくしが決めることですので…」
もう正式に婚約は解消されているのだから、彼からとやかく言われる筋合いはない。
では、失礼いたします…そう言って立ち去ろうとした私の前に、アーチーは立ちふさがった。
「わ、私は、何としても君と婚約を結ばなければ…今度こそ、父上から勘当されてしまうのだ」
そもそも、あの婚約話は婿入り先がどうしても見つからないアーチーのために、彼の父親…スコット伯爵が私の父へ強引に持ち掛けたもの。
格上の伯爵家からの申し出を、子爵家である我が家が断ることはできなかったのだ。
それを、アーチーがどうしても嫌だと泣きついて、スコット伯爵は渋々婚約解消を許したと聞く。
しかし、ドレファス領の評判が上がり、父親から命令を受けたのだろう。
まあ、この先アーチーがどうなろうとも、私には一切関係のない話だ。
「さあ、私と一緒に来てもらうぞ」
「やめてください。手を離して!」
アーチーに手を握られただけで、体がゾワッとして嫌悪しか感じない。
「何だ? その指に嵌めている奇妙な物は…そんな安物の装身具ではなく、私がもっと高価な物を買ってやろう」
「そんな物はいりません!」
この『ナックルダスター』は、一人で出歩くときは必ず装着するようにとカズキから言われ嵌めているが、私にとってこれは護身用の武器ではなく、彼からもらった大切な宝物なのだ。
カズキは「一発殴って、逃げろ!」と言ったけど、万が一壊れたり傷が付くのは嫌だった。
私たちが押し問答をしていると、一台の馬車が通りかかる。
黒塗りの豪華な馬車から、貴族らしき男性が降りてきた。
「『ヒーローは、ヒロインの危機的な状況にいつも偶然通りかかる』なんてね…」
「カズキ…」
髪型や服装が前とは異なり別人のようだが、間違いなくカズキだった。
「彼女が嫌がっているので、その手を離していただけませんか?」
カズキはアーチーの手を掴むと、私から引き離した。
「貴殿は、誰だ? 初めて見る顔だが…」
「申し遅れました。私は、パルフィナ王国のサカイと申します」
貴族らしい所作で挨拶をしたカズキは、微笑を浮かべている。
「こちらのルビー嬢に大事な話がありますので、私たちは失礼させていただきます」
私を連れて立ち去ろうとしたカズキに、アーチーが待ったをかけた。
「私との話が、まだ終わっていない!」
「…失礼ですが、あなたに私を止めることはできませんよ」
「はっ?」
「馬車の家紋を見れば、お分かりいただけるかと…それとも、詳しい説明が必要でしょうか?」
家紋を確認したアーチーが、一瞬にして青ざめる。
「これは、パルフィナ王家の…」
「ご理解いただけたようで、何より…ではルビー嬢、参りましょう」
カズキは、恭しく私の手を取った。