9.バレンタインデー。そして藤村早紀
そして放課後がやってきて、わたしと絵美里は弓道場に向かった。
弓道場に来るのは久しぶりだった。
冬休み、わたしと絵美里は部活をしないことに決めていた。
弓道部には顧問はいるものの、あんまり部活には顔を出さない。
そしてほぼ廃部寸前のこの部活を担当しているその先生は、弓道の経験者というわけではない。
だから競技の指導は出来ない。
活動方針はわたしと絵美里に任せられており、後は顧問に報告をすれば事足りる。
素人だったわたしたちは、三年生の先輩から教えられたわずか三か月程度の指導の下に、ほとんど独学で練習を積んでいた。
そしてわたしと絵美里は、大体の場合、部活を特別な時間だととらえていた。
学校ジャージでだって練習はできるのに、いつも弓道着に着替えて弓を引いた。
わたしも絵美里も、弓道着を着ること自体が好きだった。
経験年数は一年にも満たないわたしたちだけれども、これを着るだけで、何かちゃんと弓の道に精を出している気になるからだ。
弓道場は、わたしたち二人だけで使うには広い。
だけどおかげで思う存分に練習ができる。
弓を構え、撃つ。
しかし、その日のわたしの調子は悪かった。
案の定、とでもいうべきか。
普段通り狙いをつけているのに、なかなか的に当たらない。
調子が良ければ五割近くあたるのに、その日はせいぜい、二十パーセント程度だった。
「ゆりか、調子悪いね」
わたしのあまりの外しっぷりに、絵美里がそう聞いてくる。
彼女の方もあまり的には当たらない。
やっぱり、二十パーセント程度。
でもそれが絵美里にとってはいつものことだ。
でもわたしは違う。
自分でも意外なことだったけれど、わたしは案外、弓道に向いていたらしい。
先輩たちからは、はじめから射形がきれいだと褒められたし、絵美里に比べるとずっと早く、まともに矢を放てたし、的にも当てられた。
たぶん、素人に毛が生えたような状態で、五割近く当てられるのは、自分で言うのもアレだけれど、脅威の才能だ。
もちろん普通の高校のレギュラー選手には及ばない。
それにわたしはこの競技を極める気はなかった。
ただ弓を引き、矢を放つその瞬間が好きなだけだった。
的にうまく当たる、というのは、ただの結果に過ぎなかった。
しかし、こだわってはいないとはいえ、普段できることが、すっかりできなくなっている、というのは気分のいいものではなかった。
「しばらく練習、サボってたからね」
わたしがそう言い、絵美里の弓を引く姿を見る。
はじめはまともに矢を飛ばせなかった彼女は、少しずつではあるけれど、上達している。
たぶん弓道というものに、まともに取り組んでいるのは、絵美里の方だろう。
絵美里の放った矢は、的の真ん中を射抜いた。
「やるじゃん」
残身を解いてから、絵美里が笑顔をみせる。
「やっぱ、男のハートも射抜く女は、違うわ」
そんなわたしの軽口に、絵美里は笑わなかった。
「それ、どっちかといえば、ゆりかに言い返したい」
「ん?」
ごほん、と軽く咳ばらいをしてから、絵美里は言った。
「お主は雑念にとらわれている。だから、当たらない」
そして、にやりと笑って言葉を続ける。
「男のハートも射抜けない」
練習の間中、わたしは絵美里のその言葉のことを考えていた。
なぜって、絵美里の言うとおりだったから。
あの日が過ぎてから、わたしは余計なことばかりを考えている。
矢島くんのことにとらわれている。
弓を引いて、矢を放つ。
クラスメイトとして、普通に会話をする。
ただそれだけのことも出来なくなっている。
どうすればいい?
何度も矢を放ち、的を外す。
隣の絵美里は、今日はやけに調子がいい。
スパスパと的を射抜き続ける。わたしの調子のいいときよりも、ずっといいかもしれない。
これが愛の力か。
なんてからかいの言葉がつい浮かんでしまうぐらい、わたしは集中が出来ていない。
これじゃ、ダメだ。
集中力が、わたしのいいところだと思っていた。
弓を引き、無になるあの一瞬が、わたしは好きだった。
わたしは何かに集中する必要がある。
そして矢島くんの顔がまた意図せず思い浮かんできたそのとき、ふと、あの日彼とした会話を思い返す。
青春として、最高。
その言葉が耳の奥で響き、わたしはつがえていた矢から、つい手を離しかけた。
慌てて持ち直し、弓から矢を外す。
その奇妙な動作に気づいたらしい絵美里が、わたしに声をかける。
「ゆりか? どうしたの?」
わたしは、背後に立つ彼女を肩越しに振り返った。
「絵美里。……わたし、思いついたかも」
「何を?」
「バレンタインデー。そして藤村早紀」
「え、なに?」
絵美里にはその言葉の意味はたぶんわからなかった。
自分で言っていて、わたしも妙なことだと思う。
だけど、わたしにはそのぐらいしか、手がない。
ふらふらと定まらないこの気持ちを抱え続けているより、さっさと決めて、集中しちゃった方がいい。
うまくいくのなら、それでうまくいく。
ダメなら、それはそれでいい。
わたしは弓に矢をつがえ直し、的へと向ける。
弓を引く一瞬、無が訪れて、わたしは指を離す。
その矢は、的の中心を貫いた。