7.きっかけ、ね
「バレンタインデーといえば、先輩に聞いたんだけどさ」
初詣を終え、石段を下りている最中に、新町大樹が突然そう口を開いた。
「去年、ノベ高で、普通にチョコをあげた先輩がいたんだって。当時三年生の先輩に告白したそうだね」
どんな願い事をしたのか、二人できゃあきゃあやっていたわたしと絵美里は、その言葉を聞いてさすがに耳を傾けた。
ノベ高のバレンタインデー禁止は、有名だ。
有名すぎて、それが常識のようになっている。
バレンタインデーは、登下校の最中に、コソコソと楽しむものだと聞いている。
「それ、ウソでしょ」
「いや、ホント。一部の先輩たちには、有名な話なんだって」
弓道部には、先輩がいない。
入部したてのころ、三人ばかり、三年生の先輩がいた。
だけどすぐに彼女たちは引退してしまった。
二年は誰もいなかった。
後に残ったのは、わたしと絵美里だけ。
だから、わたしも絵美里も、その一部で有名な話を知らなかった。
「ホントに知らないの? 誰がやったのか、名前だってわかってる。いま二年生の、藤村早紀さん。普通科のね」
藤村早紀。
わたしにはその名前は、初耳だった。
「……それで、どうなったの?」
バレンタインデー禁止は有名でも、その禁を破った者がどうなったのか、誰も知らない。
いや、知らないものだと思っていた。
だが一部では禁を破った者がどうなったのかも、有名なことだったらしい。
「一週間の停学」
ゲッ、と絵美里が彼氏の前なのに、可愛くない声を出す。
そして続ける。
「ナンセンスぅ」
「ホントだよね。冗談みたいな校則なのに、破ったら、しっかりと罰が来る」
「その……藤村早紀は、どうしてそんなことしたんだろう」
わたしの問いかけに、新町大樹は首をかしげた。
「さあ。停学になるとまでは思ってなかった、とか」
それから少し低い声になり、新町大樹が言葉を続ける。
「藤村さんはその日、運悪く、教師から直接見つかってしまったそうだよ。その日は風紀委員も見回ってたのに、見つけたのは教師だったんだって。風紀委員なら、同じ生徒だし、まだ見逃してもらえたかもしれないのにね」
「詳しいね」
絵美里がそう、妙に冷たい声を出す。
別な女のことに詳しいから、妬いたのかもしれない。
「先輩が、面白おかしく教えてくれるから、覚えちゃったんだよ」
新町大樹は、自分でも呆れるようにそう言った。
それからわたしたちは駅前に戻り、ファミレスでモーニングセットを頼んだ。
運ばれてきたトーストなんかをかじりながら、わたしは主に、絵美里と新町大樹の話に耳を傾けていた。
もう五か月以上一緒にいるだけあって、二人の会話はよくかみ合っている。
可愛いだけじゃない、絵美里のふざけたところとか、時折見せる意地悪な一面とか、どうやら新町大樹はそういうのもしっかり理解しているようだった。
そのうえで彼は能天気そうに、朗らかに笑っているらしかった。
そしてわたしがあまり会話に混じらなかったのは、二人の世界の邪魔をしたくない、という理由だけではなかった。
少し、考えごとをしていた。
何か頭の端に、引っかかるものを感じていた。
特に、ある名前が、いつまでもわたしの頭を去っていかない。
藤村早紀。
彼女は、どんな人間なのだろう。
何を思い、バレンタインデー禁止のノベ高で、バレンタインデーを敢行したのだろう。
「ゆりか、どうしたの?」
ぼんやりと考え事を続けるわたしのことが気になったのか、それまでスマホで新町大樹と何かを見せ合っていた絵美里が、わたしの顔をのぞきこんできた。
「いや、別に……満腹で、眠くなったかな」
「おかしいな。このぐらい、いつものゆりかならペロリでしょ。もう二セットぐらいはいけるはず」
「絵美里、それ、自分のことでしょ」
実際のところ、絵美里はそれぐらい、食べようと思えば食べられる。
にやりと笑って絵美里が言葉を返してくる。
「新町くんの前でそういう冗談、やめてよね」
「新町くん、気をつけなよ。あんたの彼女、虚言癖がある」
「気をつけるよ」
そう言って新町大樹はおかしそうに笑っている。
なんでも素直に受け止める、この男が物足りなくならないのかな、とわたしは少し絵美里のことを考える。
それからわたしは、絵美里に対して意地悪なことを思いついてしまう。
「新町くん、もしかしたら、あなたのことを好きと言ったのも、虚言かもしれない」
「そうなの?」
新町大樹は、やっぱり平気で受け流し、そう絵美里に聞く。
この癖のなさは、もしかするとこいつのいいところなのかも、とわたしは考える。
絵美里のリアクションは、わたしの思っていたものとは違った。
特にひねりもなく首を横に振り、素直に口にする。
「そんなことないよ。新町くんのこと、好き」
「ありがとう。ぼくもだよ」
わたしは自分でも渋い顔をしているのがわかる。
絵美里は、あれだ。
こいつに対しては、素直でストレートなやつなのだ。
というのを、いま、はっきりと理解した。
妙なからかいはやめよう。
こっちの気が抜けるだけだ。
気を取り直して、わたしは少し、気になっていたことを聞いた。
「でもさ、新町くんって、絵美里のことどう思ってたの? ずっと一緒だったじゃない。告白しようとか、思わなかったの?」
「うん。あのさ、ずっと好きだったけど……なんていうか、きっかけがなくて」
「新町くんは、クリスマスに告白しようかどうか、迷ってたんだって。だから、私に先を越された形」
ふーん、とわたしはうなずいてみせる。
そして、つい、頭の中では矢島くんのことを考えている。
「好きって言われて、どう思った?」
「やっぱり、嬉しかった。そして絵美里のこと、すごいと思った。ぼくがやりたくても、出来ないことだったから」
「もし、絵美里から告白されていなかったら、新町くんからしてた?」
「そのつもりだったけど……実際は、どうだったかな。クリスマスでも、結局できなかったかもしれない。そして今日は、絵美里と会えていなかったかも」
「だけど、そうはならなかった。絵美里のおかげで」
「そう。だから、感謝してる」
絵美里が不意に頭を傾け、新町大樹の肩に軽い頭突きを見舞う。
それはどうやら言葉に詰まったときに出る、絵美里なりの照れ隠しなのだと気づく。
今日見た、親密そうな二人の姿は、正直妬けた。
わたしの知らない一面を見せる絵美里の姿も、なんというか、わたしには複雑に思える。
でもそれ以上に、羨ましい。
わたしにも、矢島くんとこういう風にできる瞬間は訪れるのだろうか、なんて考えてしまう。
「きっかけ、ね」
誰に言うでもなく、わたしはそう、つぶやく。
バレンタインデーは、そのきっかけになるんだろうか、と考えながら。