5.いま、一つの誤解が生まれた
そうかといって大きく何かが変わるわけではなく、その週は小康状態が続いた。
同じ教室でわたしは、しばしば矢島くんの後ろ姿や横顔を盗み見た。
彼の声は特徴的で、渋い癖によく通る。
どんな話をしているのか、わたしは耳をそばだてて聞いた。
あの子が気になるとか、どの子がかわいいとか、そんな大した会話はしていなかった。
好きな漫画がどうとか、見ていたテレビの感想がこうとか。
せいぜいそのぐらいだった。
金曜日の昼休みに、そんなわたしの様子を、絵美里は机に頬杖をしながら見ていた。
「ゆりか。親友から、一言いいかしら」
何かお嬢様のような声で絵美里が言う。
そんな冗談に付き合う余裕もあまりなく、わたしはうなずいた。
「ここしばらくのあなたの様子がおかしいの、たぶんみんなに、バレバレですわよ。男子はいざ知らず、女子ならみんな、何かヘンなことに気づいてる」
わたしは何度か瞬きをして、絵美里を見る。
恋愛経験のないわたしは、こんなときどうしていいか、さっぱりわからない。
「そういうとき、どうしたらいいの?」
「ゆりかみたいなわかりやすい人、わたしもはじめて見ましたわ。だから、私にもどうしたらいいか、よくわかりませんことよ」
「……みんなにバラした方、いいかな。そんで味方になってもらう」
「みんなに? やめときなよ。そんなことする人、いないよ」
それが変かどうかなんて、わたしにはわからない。
すでにわたしは混乱していた。
「大体、ゆりかの他に、矢島貴裕のこと好きな子いたらどうするの」
そう言われて、わたしははじめてその可能性に気づく。
わたしは今まで、矢島くんに魅力を感じたことはなかった。
だから、そんな人はハナからいないものだと決めつけていた。
なんという、恋する乙女。
「矢島くんって、モテるの?」
「マジな話するよ。童顔ボーイの矢島はたぶん、好きな人は好きだ」
わたしの目は、そのときたぶん、『カッ』と見開かれた。
「怖っ」
「もしかして、すでに彼女がいる?」
「聞いたことはない。……でも、あるいは」
知りたい、と思った。
でもわたしには無理だ。
なぜって、すでに挙動不審なのだから。
矢島くんの『や』の字だけで、すぐにみんなから、何が起きているのか悟られてしまう。
だからわたしは絵美里に言った。
「すぐに調べて」
絵美里なら、大丈夫だ。
彼女が新町大樹と半ばデキてるのは、すでにみんなが知っている。
「オーケイ、ブラザー。放課後までには」
放課後になって、絵美里から報告が来た。
「矢島貴裕には彼女、いないみたい。あいつのこと、気になっている人の噂も聞かなかった」
誰もいない教室で、わたしはその言葉を聞いた。
わたしはほっとして、ヘナヘナと自分の机に座り込む。
やっと見つけた『好きな人』が、すでに誰かのものだったとすれば、そんなのは悲劇以外の何物でもなかった。
「だけどさ、やっぱり矢島貴裕、いいやつみたいよ。悪く言っている人はいなかった。それ自体はいいことだけど」
何かを言い淀む絵美里。
「けど?」
「それはつまり、ゆりかみたいに、そのうち矢島貴裕に惚れる人が現れることを意味している」
わたしはじっとその可能性を考える。
絵美里が突然わたしの肩をちょんちょん、とつつき、にっこりと笑っていった。
「告白、しちゃえば」
「もう? いや、ムリでしょ」
「そうかなあ。案外、いけると思うけど。ゆりかって、ちゃんとしてればかわいいんだよ。ちゃんとしてれば、だけど」
そんなことはない。
わたしは首を横に振る。
女らしさとは程遠い人生を送ってきた、とわたしは思っている。
それはきっと、恋をしなかったことと深い関係がある。
女子とすれば比較的身長が高く、手足も長い。
かといってスタイルがいいかといえば、そうでもない。
だから頭を小さく見せたくて、首をあらわにしたショートカットを選んでいる。
兄弟のいない一人っ子なのに、言動はガサツで、男みたい、とよく言われる。
そのくせ男友達はほぼいない。
別に男に興味がなかったから、近づく必要性すら感じなかった。
そのわたしが、かわいい。
そんなのありえない。
その『ちゃんとすれば』は、決して達しえない条件の元に導かれる『ちゃんとすれば』だ。
「いや、絶対ムリ」
「そ。じゃ、矢島貴裕の方を何とか、振り向かせてみることだね」
絵美里がそうもっともなことをいう。
だけどそのハードルは、ものすごく高いように思える。
わたしが目を落としていると、絵美里が小さくため息をつく。
それから、ぽん、とわたしの肩を叩く。
「……ところでその、ゆりかには絶対ムリなことを、親友の絵美里ちゃんはこの週末に実行するわけだけど。そのことについて、何かコメントは?」
実のところ、わたしはすっかり忘れていた。
そうして、心からわたしは絵美里に言う。
「絵美里はすごいね」
「そうでしょ。……うまくいくかな」
不安げな声を出す絵美里の肩を、わたしは強めにグーで叩く。
「痛いな、もう」
「絵美里は可愛いんだから、大丈夫だってば」
わたしから叩かれた肩をさすりながら、絵美里はにんまり笑う。
「そう? じゃあ、もっと言って」
「絵美里、すごく可愛い」
「もっと大きな声で」
「すっげー可愛いよ、絵美里」
その途端、ガタン、と教室の入り口で物音がする。
見るとなぜか、サッカー部のユニフォームを着た新町大樹がそこに立っている。
つい今交わしていたわたしたちの会話を、彼が聞いていたことは明らかだった。
「……、あ、あの、ぼく……」
イケメンの彼はおどおどと視線をさまよわせ、それからそっと一歩、後ろに退く。
「ごめん」
そのまま新町大樹は廊下へと出て、どこかに走り去っていった。
「いま、一つの誤解が生まれた」
わたしがそう言ったそのとき、すでに絵美里は膝を抱えてしゃがみ込んでいる。
「最悪。……私たちの仲って、なんかそういう、恋愛要素アリに見えるかな?」
高校で知り合った割には、いつも一緒にいるし、結構じゃれ合ってもいる。
だけどまあ、度を越したものではないはずだ。
「ま、まあ、大丈夫でしょ。日曜日に会うんだから、そのときに笑い話としてちゃんと説明しなよ。なんなら、わたしがふざけてすぎてた、ってことでいいからさ」
はあ、と深いため息をつきながら、絵美里が立ち上がる。
「しんどい。……まあ、ゆりかの言うとおりにするしかないよね」
絵美里が金曜日の放課後に学校を後にしたのは、そんな微妙なテンションで、だった。
日曜日の夜に、わたしのスマホに彼女からLINEで着信が届いた。
通話がつながると、彼女は歌うような喜びの声をあげた。
「うまくいっちゃった」
わたしも嬉しかったけれど、あえて冷めた声を出した。
「予想通りじゃん」
「そうだけど、なんかもう、すごくホッとした。……新町くんも、私のこと、好きだって」
なんだかしみじみとそんなことを言う絵美里のことが、すごく羨ましく思えた。
でもそれは、彼女が差し出した、勇気の対価なのだ。
「おめでとう、絵美里」
「ありがと。じゃ、また月曜日に」
わたしたちには長電話の習慣はない。
話は大体、顔を合わせて行う。
その短い電話が終わった後、わたしは自室の天井を見上げた。
絵美里はうまくいった。
わたしはそれを羨ましいと思う。
わたしはどうしたい?
自分のその問いかけに、うずくような胸の痛みを覚えた。