38.なぜ、バレンタインデーが禁止なんですか?
風紀委員たちに連れられて、職員室まで歩く。
校内にはまだ多くの生徒が残っていた。
ひと騒ぎあって、多くの人が校門へと注目していたらしい。
前後を風紀委員に囲まれて、行列のようになって歩くわたしたちには、多くの好奇の目が寄せられた。
「あれが浦下ゆりか?」
別にささやき交わすでもなく、普通の声の大きさで、校内放送を聞いていたらしい誰かが誰かにたずねる。
「いいぞ、よくやった」
途中の廊下でからかい混じりの男子生徒の大声が響き、周囲がわずかにざわつく。
そんなことはあれど、ほとんどの生徒がただ黙って、わたしたちの方を見つめていた。
でもその視線に冷たさはなかった。
好奇心と、そしてどこかあたたかな視線が寄せられていた。
このみんながわたしの告白を知っていると思うと、かなり恥ずかしい。
でも同時に誇らしい。
わたしは、自分がやりたいと思ったことを、やり通した。
わたしの少し前で、滝上楓が声をあげる。
「用事のない生徒は、立ち止まらずに、昇降口へ向かってください。ほら、ちょっと、邪魔しないで。見世物じゃないのよ。写真なんか撮らないで」
立ち並ぶ生徒たちの間を抜け、ゆっくりと職員室へ向かうわたしの胸には、何の恐れもなかった。
想定していたことではあったけれど、わたしたちはあっさりと捕まった。
敷地の外だからノーカウント、なんて屁理屈のような言い逃れは出来なかった。
だけどもう、それでもいい。
みんながわたしの行動をどう受け止めたかはわからない。
だけど何かを伝えたことは、確実にできた。
校内にいる生徒たちの反応を見ていると、そんな風に思える。
移動中、矢島くんとは何の話もしなかった。
時折彼に目を向けても、彼は満足げに微笑んでいるだけだった。
きっとわたしもそんな顔をしていた。
職員室の近くまで行くと、さすがに周囲を取り巻いていた生徒の姿は消えていた。
滝上楓を先頭に、わたしたちは職員室の中へと入った。
滝上楓は職員室の入り口で立ち止まり、きょろきょろと中へと目を向けていた。
それから近くに座っていた教師に声をかける。
「五十嵐先生はいませんか?」
「ん? ああ、彼なら生徒指導室にいるよ。さっき無断で校内放送していた子と一緒」
そう答えたまだ若い男性教諭に、滝上楓が頭を下げる。
そうして、職員室の奥にある、灰色の扉に向けて歩きはじめる。
窓もなく、普段は閉められてばかりいるその部屋のことは、ウワサでしか聞かない。
あれがウワサの、生徒指導室。
「そっか、生徒指導担当って、五十嵐か」
矢島くんが思い出した、というような声をあげる。
「誰? 矢島くん、知ってるの?」
「世界史クラスの担当が、五十嵐なんだ。社会科教諭で、確かに、性格が悪そうだ。でも授業は案外面白いんだよ」
わたしは社会科の授業としては日本史をとっていた。
だから五十嵐のことはほとんど知らなかった。
性格が悪いと聞いて、つい、ヘビのような人間を想像する。
「めっちゃ怒られそう?」
「いいや。でも、無罪放免はないだろうな」
灰色の扉までたどり着いた滝上楓が、扉をノックする。
返事はない。
それでも、滝上楓は扉を開けた。
「失礼します」
滝上楓の後ろに続き、わたしも部屋に入る。
生徒指導室はそう広い部屋ではない。
六畳程度の広さしかない部屋で、長机が部屋を二分している。
話に聞いていた通り、すでに先客がいた。
その部屋に入ったわたしを振りかえって見つけると、椅子に座らせられていた藤村早紀は、例の悪魔的な笑みを浮かべた。
「また誰かきた」
大きな独り言のように、奥に座っていた社会科教諭、五十嵐は言った。
五十嵐は見た目としては平凡な男だった。
年齢は三十歳後半から四十歳前半ぐらい。
体もさほど大きくはない。
ただ、腕やあごの周りを見ると、少し毛深いところがある。
「五十嵐先生、この二人も校則違反です」
滝上楓が言うその言葉に、五十嵐は嫌そうな顔をして、えー、と濁った声を出す。
「つい先ほど、校門のところでチョコレートのやり取りをしているのを見つけました」
その報告をはじめとして、滝上楓は五十嵐に、わたしたちを見つけた状況について一通りの説明を行った。
五十嵐はあまり口を挟まずに聞いていた。
やがて報告が終わり、滝上楓が部屋を出て行くと、彼がわたしたちに言った。
「じゃ、まあ二人とも、座って。……それで、えーと、何できみたちは校則違反なんて、するのさ。特に矢島、お前ってそういうタイプじゃないと思ってたけど」
「俺もそういうタイプじゃないと思ってました」
矢島くんはあくまで真面目にそう答える。
「だけど、やっちゃったわけね」
そう言ってため息をつき、五十嵐は藤村早紀へと目を向ける。
「藤村は二度目だけど」
その声のかけ方で、五十嵐は藤村早紀と面識があるのだと知る。
昨年の生徒指導も五十嵐が担当していたのだとすれば、藤村早紀へ停学の判断を下したのも彼だということになる。
あるいは藤村早紀も世界史を学んでいるのかもしれないけれど、どちらにせよ、あまりプラスとなる情報ではない。
「違いますよ、五十嵐先生。今回、私は無断で校内放送をしたんです。バレンタインデー禁止を破ったわけじゃない」
「それならもっと重罪だよ、と言いたいところだけれど、……実際そのとおりなんだな。藤村は校則を破ったわけじゃない。そこにも書いていない、もっととんでもないことをしでかした。でも、だから、先生に出来るのは、せいぜいお説教だ」
その話を聞いて、少しホッとする。
藤村早紀が放送をしたのは、明らかに、わたしの援護のためだった。
でもそのために、停学や退学といった処分を受けることはなさそうだ。
「先ほどまで、拝聴させてもらいましたよ、五十嵐先生」
「大したこと、言ってなかったよな。でも何が言いたいか、お前ならわかるだろ、藤村。頭、いいもんな」
藤村早紀が小さくうなずく。
真顔で五十嵐が、重いトーンで言葉を続ける。
「お前は大人をバカにしすぎだ。頭がいいからって、何をしてもいいわけじゃない。それにさっきも言ったが、高校生活は、実質あと一年もないんだぞ」
五十嵐は、壁にかかっていたカレンダーへと目を向ける。
他の月よりも短い二月の暦がそこに開かれていた。
「もうすぐ三年の卒業式だからな。藤村も来年は卒業だ。受験にはげむ必要がある。もうひっくり返っても推薦なんぞは無理だからな。特待生の指定を解除されないだけ感謝して、勉強に集中しろ。お前には、以上だ」
「ありがとうございます」
藤村早紀は表情も変えず、深々と頭を下げる。
彼女は言い返しもしないけれど、わたしはすっかりこの五十嵐という教師が嫌いになっていた。
何だその言い草は、と思っていた。
授業は面白い、と矢島くんは言っていた。
例えそうであっても、この男の授業は、わたしはもう一切受ける気が起きない。
「それで、矢島。それに浦下、っていったっけ。きみたちに伝えることはあれだな、もっとシンプルだ。きみたちは生徒手帳を読んだこと、あるだろ」
わたしは反応をしなかった。
ただ、五十嵐の目をにらんでいた。
矢島くんは、ゆっくりとうなずいた。
「生徒手帳には、懲戒処分について記されている。そこには『教員は、必要と認める場合は生徒の懲戒処分を求めることができる』そして『懲戒処分の決定は、理事長がこれを行う』とある。ではこの、必要と認める場合とは何か。別に『懲戒処分について』という学内の通知があって、そこにはこう書かれている。『軽微でない校則違反を確認した場合』。つまり、そういうことだ」
「停学は、理事長が決めるってことですか?」
矢島くんがそう言い、五十嵐は首を横に振る。
「矢島、混ぜ返すんならもっと上手にやるんだな。前例はすでにあるし、軽微な校則違反の定義についても『懲戒処分について』には記されている。そしてきみたちの校則違反は、『軽微な校則違反』には含まれていない。つまり、きみたちは明日にでも保護者同伴のもと、理事長から停学処分を言い渡されるってこと。な、そうだろ、藤村」
藤村早紀はうなずいて言った。
「懐かしい話です。懐かしすぎて、チョコとケーキを誤認されていたことすら、忘れてしまいました」
「大した違いじゃないだろ」
そう言ってから五十嵐は、わたしと矢島くんへ目を向ける。
「言っておくが、どっちかが敷地外にいたからって、関係ないからな。風紀委員の言った通りだよ。生徒は生徒で、校則違反は校則違反だ。処分は適正に行う。きみたちには、以上だ」
「待ってください」
はじめて口を開いたわたしに、五十嵐が軽く首をかしげて見せる。
「まだ、何かあるのか?」
「五十嵐先生、わたしは一つだけ、聞いておきたいんです。わたしたちの高校は、なぜ、バレンタインデーが禁止なんですか?」
五十嵐は、すぐには質問に答えない。
「それはさっき、藤村の校内放送を聞いて、そう思ったのか?」
わたしは首を横に振った。
ただ、昔から考えていたわけではない。
「最近、そう気づいたんです。禁止なのは知っている。でもなぜなのか、その理由を知らない。ただただ、不合理に思えるんです」
「興味が湧いた、というわけだな。じゃあ去年、藤村にも言ったことを繰り返そう。そこに理由などない。校則で、ルールだ。教師も従う、生徒も従う。それだけの話だ」
「そうですか? 私の認識は違っていましたが」
不意に背後からそんな声がする。
はじめて聞く声。
でも、どこかで何度も聞いたことのある声。
わたしは生徒指導室の扉を背にしていた。
振り返ると、その扉が開いており、ある程度年齢を重ねていることはわかるものの、どこか若々しく見える女性がそこに立っている。
女性は灰色のスーツ姿だった。
どこで見た顔なんだろう、と思っていると、わたしの隣で藤村早紀が言った。
「理事長」
「理事長、どうされましたか。今は、校則違反をした生徒の指導中です」
五十嵐がそう答える声がする。
わたしはじっとその顔を見つめる。
理事長、と言われてやっと気づく。
この人は、この学校で一番えらい人だ。
わたしたちのノベラギ高校への入学を認め、様々な式典でたびたび挨拶をする人。
そしていまは、わたしたちへの処断を下す権限を持っている人。
初代理事長である野辺良子の娘、二代目理事長・野辺聖子だ。




