37.わたし、あなたが好きです
カバンに手を入れたまま、わたしは振り返った。
周囲にいる生徒も、昇降口付近にいる風紀委員たちも、ざわつきはじめていた。
なぜ藤村早紀が校内放送をしているんだ?
そんな疑問への答えは、当然ながら出ない。
藤村早紀の言葉が続いた。
「いま私は、放送室をお借りしています。もちろん、無許可です。すぐに誰かがやってきて、この放送は終わるでしょう。その前に、少しだけお話をしておきたいことがあります」
周囲の生徒は、学校の方を振りかえったまま固まっている。
何が話されるのか、興味を抱きはじめているのだろう。
そしてわたしは学校に背を向けて、歩きはじめる。
藤村早紀が何を話そうとも、きっと、今のわたしに関係のあることのように思えたからだ。
だとすれば、わたしはわたしのやるべきことを、やるだけだ。
すぐに校門へたどり着いたとき、矢島くんも、高校の方へ目を向けていた。
矢島くんはわたしに、やや困惑した微笑みを浮かべてみせた。
「聞いてなかったけど、これも浦下の計画と関係あるの?」
「実はわたしも、これがなんだか知らないの」
ほー、と口を丸めて見せた後で、矢島くんがつぶやくように言った。
「すっかり注目、奪われちゃったな」
「確かに」
この放送が終わったとき、生徒たちの目がわたしに戻るタイミングはあるのだろうか。
やっぱり、事前に藤村早紀と話しておけばよかったのだろうか。
首をひねりながら、考える。
そんなわたしの考えをよそに、藤村早紀の放送が続く。
「ちょうど一年前のこの日、私は好きな人にチョコをあげようとしました。そして大体のことは、みなさんも知ってのとおりです。本当はチョコじゃなく、ケーキだったのですが、それはまあ、いまさらどうでもいいです。……大事なのは、なぜそんなことをしようとしたのか、ということ」
昇降口の風紀委員の姿は、すべて消え去っていた。
外にいる生徒たちはすっかり静まり返り、藤村早紀の次の言葉を待っている。
「そのバレンタインデーの日に私は、みなさんに、ただ一つのことを伝えたかった。それは、バレンタインデー禁止なんておかしい、ということ。禁止自体もおかしいし、なぜみんながそれに従っているのかもわからない。そこに正しいと思える理由があっても、私はそれを知らないし、知らせようという努力だってされていない。わたしはただ、そう伝えたいだけだったのに、いろいろあって、ダメになってしまいました。それも、まあ、いわば自業自得で……みなさんもご存じのとおり、ですかね」
「浦下は、藤村早紀と仲良しなの?」
矢島くんからそう聞かれ、わたしは首をかしげてみせる。
「ま、仲がいいといえば、いいかな。いい先輩だと思ってる」
「そうか。面白い先輩なのな。話してみたい」
そうつぶやく矢島くんの言葉に、ひょっとすると二人は気が合うかもな、と考える。
「普段はもっと変なしゃべり方してるよ。何とかなんだ、みたいな」
「『そうなんだ』……って感じ?」
「んーとね、『その通りなんだ』、みたいな」
「今はよそ行きの言葉か」
そのよそ行きの言葉で、藤村早紀が続ける。
「そして、今日の私が伝えたいことも、たった一つです。それは、私ができなかったことをやろうとしている人がいる、ということ。そして今ちょうど校門のところにいる、浦下ゆりかさんがその人です。みなさん、注目してあげてください。……それじゃ、ゆりか、がんばるんだ」
藤村早紀がそう言うと、唐突に放送が終わった。
外にいた生徒の目が、すべてわたしの方へと向けられる。
あまりにも急な展開に、慌てそうになりながらも、わたしはやるべきことを思いだす。
カバンを開け、手作りのチョコを取り出した。
周囲に風紀委員の姿はない。
誰もわたしを止める人はいない。
そうしてわたしは矢島くんに言った。
「矢島くん、もう少し後ろに下がって」
矢島くんは、ちょうど、校門のところに立っている。
そこは学校の敷地と、外部との境目だった。
門扉のキャスターの滑る溝が、その敷地の境界を表している。
矢島くんはあくまで、学校の敷地外でチョコを受け取る。
わたしは、学校の中でチョコを渡す。
それが、矢島くんに関しては、ギリギリで言い逃れができるかもしれない、わたしたちの作戦だった。
そうしてそれには、『バレンタインデー禁止の効力は、どこまでなの?』という問いかけも含まれていた。
わたしの言葉を受けて、矢島くんが、大きく一歩、下がる。
誰の目が見ても明らかに、矢島くんは校門の外へと出ていた。
その矢島くんに、わたしは一歩近づいて、右手を伸ばしてチョコを差し出した。
「矢島くん。これ、バレンタインデーのチョコレート」
「ありがとう」
そう言ってにっこり笑い、右手でチョコを受け取りかけた矢島くんに、わたしは、計画では伝えてなかったことを告げる。
「これ、義理じゃないから。義理って伝えてたけど、違うから」
計画を話したとき、矢島くんにはそう教えていた。
あくまで、義理チョコだと。
目的は、みんなの前でチョコを渡すだけ。
ただ、それだけだと。
だけど、もちろん、わたしの本音は違う。
矢島くんの伸ばした手は、そこで止まった。
そうしてわたしへ、驚いた目を向ける。
「え?」
「本命なの。矢島くん、わたし、あなたが好きです」
矢島くんは、少しの間、無言でわたしを見つめた。
それから彼は、伸ばしていた右手をゆっくりと下ろした。
チョコを持ったわたしの手だけが、宙に浮いていた。
「……それ、本気?」
矢島くんの声が、慎重にたずねてくる。
わたしは、もう彼の顔は見ることができなかった。
恥ずかしさと、半ばの諦めとで、伸ばした自分の手の先にあるチョコだけを見ていた。
わたしの気持ちを聞いた矢島くんは、喜んでチョコを受け取ってはくれなかった。
それが意味していることはただ一つ。
いくらはじめての恋だって、それがわからないほど、わたしは鈍感じゃない。
そう思っていると、不意に、伸ばしていたわたしの右手の肘がつかまれる。
矢島くんの手が、わたしを軽く引いていた。
あまり力は強くなかったけれど、不意を突かれたこともあって、わたしはバランスを崩していた。
前に数歩進んだところで、矢島くんの手が、わたしの肩を支える。
わたしたちは共に、学校の敷地の外へと出ていた。
それから矢島くんは、わたしに笑いかけ、そうして数歩、わたしの背後へと進んだ。
つまり、わたしと入れ違いで学校の敷地へと入っていた。
そうして、振り返ってわたしに言う。
「それじゃ、こっちの方がいいな。はじめから、こうしようかな、って思ってたけど」
いつの間にか、矢島くんはわたしの手作りチョコを手にしていた。
肩の高さまでそのチョコを持ち上げ、じっと、そのラッピングを眺める。
「きれいに包まれてる。これ、浦下の手作りなの?」
わたしはうなずいた。
そうして、前へと進みかけると、矢島くんが口を開いた。
「こっちに来ない方がいいな。あくまで浦下は、学校の外でチョコを渡した。そうして俺は、中で受け取ったの。そういうことにしておいた方が、今はいいだろ」
矢島くんだけに迷惑をかけるわけにはいかない。
そういう思いもあった。
だけど、いまわたしも敷地の中に歩み出ることは、何の意味ももたらさない。
二人でただ、校則違反をしただけとなる。
何の問題提起にもならない。
「中身、食べるの楽しみだな。何が入ってるわけ?」
「生チョコ。自分で言うのもあれだけど、おいしいよ」
「食べたことないから、おいしいかどうか、わかるかな」
「わかるよ。気持ちが詰まってるから」
言っていて自分でも恥ずかしくなり、わたしは下を向いてしまう。
やがて矢島くんの言葉が聞こえてきた。
「返事は、後でな」
「うん」
そのときのわたしには、昇降口から走ってこちらに近づいてくる風紀委員の生徒たちの姿が見えていた。
よっぽど急いでいたと見え、集団でやってきた彼らは息を切らせている。
放送室からここまで、全力で走ってきたのだろうか。
あるいは途中で引き返したのだろうか。
もはや、やるべきことを終えていたわたしは、それを気の毒に思う余裕があった。
先頭グループにいた数人がわたしたちの周囲に立ち、そのうちの一人が言った。
「きみたち、校則違反だ」
矢島くんは、わたしにちらりと目を向けてから、風紀委員の誰に言うでもなく、口を開く。
「そこの彼女も、校則違反なんですか? そこ、学校の敷地外ですけど」
みんなの目線が、わたしの足元へと向かう。
風紀委員たちが目を見合わせる。
わずかに戸惑いの空気が広がったそのとき、遅れてやってきた女子生徒が言う。
その女子生徒は、滝上楓だった。
「当たり前でしょう。敷地の外にいれば、校則違反にならない、ってわけじゃないわ。どこだろうと、ノベ高の生徒なのは、変わりはないんだから」
矢島くんは、滝上楓へ目を向け、それからわたしを見た。
「風紀委員としては、そういう見解らしい。どう思う?」
「まあ、納得かな。だけど、それって、先生たちも含めた統一見解なのかな」
滝上楓は、忌々しそうにわたしの顔を見た。
つい先ほど、わたしをフォローした自分を悔やんでいる様子だった。
それから、彼女は言った。
「校則違反です。あなた方は、生徒指導の対象になります。……さ、職員室へ行くわよ」