32.ついこの間まで、全然できなかったこと
週明け、二月十三日は月曜日だった。
教室に入ってすぐ、すでに席にいた矢島くんと目があった。
頬杖をついたまま、ひらひらと片手を揺らす矢島くんに、わたしは近づく。
「おはよう。……それで、どう? 協力してくれる気、変わってない?」
「もちろん。浦下こそ、どうなの」
「わたしは、そりゃあ、言い出しっぺだからね」
矢島くんに軽くうなずいてみせ、わたしは自分の席に向かう。
椅子に座ると、すぐに絵美里が近づいてくる。
絵美里には、昨日の矢島くんとの会話の結果は伝えてなかった。
しかし今のやり取りを見ていたらしく、わたしの依頼がどういう結果になったのか、雰囲気はすでにつかんでいた。
「矢島貴裕は大したものだね」
本人に聞こえないように、そっと絵美里がわたしにささやく。
「停学のことはなんて言ってたの?」
「矢島くんは、別にいいって。いい経験なんだってさ」
肩をすくめてそう答えると、絵美里はいまいち理解しがたい、という顔をしていた。
それから、にやりと微笑んでわたしに言う。
「その点、新町くんも大したものだよ。昨日、電話したら、協力してくれるって。で、チョコはいつ預かればいいの?」
「明日の朝、新町大樹と駅で会える? チョコ、今夜作る予定だから」
「だいじょうぶだと思う」
「新町大樹に、ありがとうと伝えておいて。明日、本人にも言うけどさ」
それからわたしは教室を見渡した。
みんな、どことなく浮かれている。
朝なのに、クラスメイトの男子が教室の外に呼びだされたり、女子がラッピングされた袋を抱えてどこかへ行っている姿が見える。
明らかにチョコのやり取りをしている。
明日のバレンタインデーにはあり得ない光景だ。
だけど今日なら許される。
そしてみんな、そういうものだと思っている。
「二月十三日は、何のお咎めもなしか。言ってしまえば、お菓子をやり取りしてるだけだもんね」
絵美里がそうつぶやき、わたしはうなずく。
「変でしょ」
「確かにね」
「絵美里は新町大樹にチョコ、あげたの?」
「私? 私は、まだだね」
今日のお昼にでも渡すのだろうか。
絵美里は軽くウインクしてみせた。
「そういえば、情報はもう、流してるよ。知り合いに、手当たり次第に、ゆりかのことを触れ回っておいた。最近バレンタインデーに何かしたい、などと支離滅裂な供述をしているってね」
「その言い方、ちょっと嫌だな」
「でも実際、ゆりかはしばらく前から、かなり変なこと言ってるもんね。だけどみんなはそうと知らない。明日にはきっと、みんなゆりかに注目してるはずだよ」
それからわたしは矢島くんへと目を向けた。
まさか今日、矢島くんがチョコをもらったりしないだろうか。
告白をされて、急にわたしとの計画がバカらしくなってしまう、という可能性は、ないこともなかった。
しかしその日、矢島くんが見知らぬ女子生徒に呼び出されたりするようなことはなかった。
その日の放課後は、普段通り弓道部の活動をした。
今日はわたしの調子は上がらず、絵美里の安定した的中率を褒めたたえるばかりだった。
「いやこれ、マジでうまくなってきてるわ」
休憩中、絵美里は自分でも驚いたようにそう言っていた。
「それだけ、努力してるからでしょ」
「まあね。だけど、不思議な感じ。ついこの間まで、全然できなかったことが、簡単にできるようになってるんだから」
自分の両手を見つめながら、絵美里は嬉しそうに微笑んでいた。
そしてわたしもその日の夜、そのときの絵美里とほとんど同じようなことを考えていた。
藤村早紀からもらった材料の分量を量り、それぞれを容器に取り分けて置く。
必要なときに、さっと取り出せるところに置いた後、製菓用のチョコを刻む。
少し前には味すら知らなかった生チョコを、今では四種類、考え事をしながらでも作ることができる。
作業をしながら、わたしは藤村早紀のことを考えていた。
彼女は、もうわたしのバレンタインデーはあきらめようと言った。
リスクが大きすぎる、と。
だけどわたしはその藤村早紀の提案を無視して、当初の予定通り、バレンタインデーにチョコを渡そうとしている。
何かを藤村早紀に言うべきだろうか?
あるいは、相談しておいた方がいいだろうか?
そう、思わないでもなかった。
仮にわたしが相談すれば、絵美里と同じように手伝ってくれるかもしれない。
かえって、藤村早紀の方がわたしよりも乗り気になるかもしれない。
だけど結局のところ、藤村早紀には何の連絡も、相談もしないことにした。
わたしの計画に藤村早紀が何らかの形で参加するリスクは、きっと、わたしたちよりもずっと大きい。
何しろ藤村早紀は一度、すでに停学になっている。
二度、同じ校則を破った生徒に、厳しい処罰が下されるかどうかは知らない。
だけど、その可能性はあるように思えていた。
まさか退学にはならないと思う。
だけど一度目の停学だって、そのまさかだった。
藤村早紀に関しては、石橋を叩いておくに越したことはない。
すべてが終わった後に、彼女と話せばいい。
砕いたチョコレートに、熱した生クリームを注ぎ入れ、その他の必要な材料も加える。似たような作業を四度繰り返す。
そして我が家の冷蔵庫には、銀色のバットに詰まった四種類の生チョコが完成していた。
わたしは頭につけていた三角巾を外し、エプロンを脱ぎ捨てた。
あとは明日、仕上げを行って、準備はおしまいだ。
明日は二月十四日。
わたしは恋をしたことがなかった。
中学校までバレンタインデーは、告白しようとする誰かを横目で眺め、安全圏からひそひそと他人の噂話を行う、意地の悪い楽しみにふける日でしかなかった。
だけど今は違う。
今度はわたし自身の日だ。
そして、ノベ高のみんなに、バレンタインデーを知らしめる日だ。
こんなにバレンタインデーが待ち遠しいのは、はじめてのように思えた。




