27.きみに教えることは、もう何もない
その週の平日を、わたしは以前と変わらない生活をして過ごした。
朝は絵美里と過ごし、矢島くんとあいさつを交わす。
お昼もほぼ、そんな感じだ。
お昼ご飯を食べた後、話題があれば矢島くんと話す。
夕方は絵美里と部活をした。
久しぶりに見た絵美里の腕前は、実際のところ、ずいぶん上達していた。
ほとんど三割に行くか行かないかぐらいだった的中率も、十パーセント近くあがっていた。
一方わたしの方は、予想どおりというべきか、あまり調子はよくなかった。
五割の壁は程遠い。
今ならほとんど絵美里と変わらない実力といっても差し支えない。
「弓道部創設以来の天才が、どうしたの?」
あまり調子の上がらないわたしを見て、絵美里がそんなことを言う。
その表現は、わたしが実際に先輩に言われたことのあるものだった。
「やっぱり、好きこそ、物の上手なれ、というか……」
わたしは撃ち終えた後の自分と絵美里との的を見比べながら言った。
以前とは、まるで真逆の結果に見える。
「わたしみたいに不真面目だと、スランプやプラトーが長い、というか」
「ウサギとカメだね。アリとキリギリスでもいい」
絵美里はウインクをしてそう言い、刺さった矢を抜きに的へ歩き出す。
そんな絵美里の背中に、わたしは声をかける。
「そのどちらも、負けちゃう方がスタイリッシュな存在だと思わない?」
「言ってろ、バーカ」
絵美里と一緒に帰宅をするとき、その話題のほとんどは矢島くんについてのものだった。
わたしのはじめての休日デートの内容を相談するのは、絵美里以外にはありえなかった。
「やっぱり映画とかがいいのかな。それか、遊園地とか」
わたしの問いかけに、絵美里は途中のコンビニで買ったアイスをなめながら答える。
「ゆりかが好きな方でいいんじゃない? 矢島貴裕と、どっちに行きたいの」
「遊園地かな。でも矢島くん、絶叫マシン、嫌いじゃないかな」
「今どき、そんな男がいたら、情けないったらありゃしない」
「絵美里って、新町大樹とどこに遊びに行くの?」
「んー? 私たちは……最近は、体を動かしている方が多いかな。ボウリングとか、バッティングセンターとか。ダーツとかもやるよ」
「遊園地は?」
「行ったことない」
別な日に、部活帰りの新町大樹と偶然遭遇した。
特に絵美里と約束してない限りは、新町大樹はサッカー部の仲間たちと帰っているはずだった。
しかしその日は教室に忘れ物をしたとかで、一人きりだった。
自然とわたしたちは三人で帰り道を歩くことになった。
二人で絵美里を挟んで歩く。
久しぶりに会う新町大樹は、絵美里の言う通り、若干いい匂いがした。
「仲直り、したんだ」
素直な笑顔をわたしに向けて、新町大樹が言う。
普通、思っていてもなかなかそういうことは言えない。
嫌みなく、平然と口にできるあたりが、新町大樹だった。
「まあね。彼女と一緒に帰れる時間を奪っちゃって、ごめんね」
「元気のない絵美里と一緒にいるより、前と同じ方がずっといいよ」
絵美里がまた軽く肘で新町大樹を小突く。
そんな愛情表現も見慣れてきていた。
それからわたしは、ふと新町大樹にたずねてみた。
「新町くんって、絵美里とのデートコースってどう決めてるの? 絵美里の行きたいところにしてる?」
「いや……その時々かな。最近はあんまり、事前に話したりはしないし」
ね、と絵美里とうなずきあってこっちに顔を向ける。
長い付き合いになりつつあるから、もうそんな感じなのだろう。
「男子的には、遊園地と映画館なら、どっちがいい?」
「人にもよると思うけど、ぼくは映画館」
迷うことなく、新町大樹は答える。
その回答の速さは少し意外だった。
どっちでもいいよ、と答えそうなやつなのに。
「どうして?」
「絶叫マシン、苦手だから。あれだけは、どうもダメなんだよ。男のくせに、って思われるかもしれないけど」
わたしは絵美里の顔に目を向けた。
しかし絵美里は平然として言う。
「今どきはそんなことないよ。怖いの平気なのが男らしいだなんて、前時代的だし」
それから絵美里はわたしの視線に気づく。
そうして挑発的な声色で言う。
「なに? 何か文句ある?」
わたしは素直な感想を絵美里に告げた。
「愛の力って、すげーわ」
新町大樹はわたしたちのやり取りの意味もわからず、ただニコニコしていた。
やがてバレンタインデー前の、最後の週末が訪れた。
絵美里に事情を話し、土曜日の部活は休みにしていた。
午前中、数日ぶりに訪れた藤村早紀の家の様子は、何も変わっていなかった。
彼女もいつものようにリビングのソファーの上で待ちながら、本を読んでいた。
部屋に現れたわたしを見つけると、にやりと笑って言った。
「さあ、最後のレッスンをはじめよう」
用意されたチョコレートは、二種類しかなかった。
ホワイトチョコレートと、どうやらストリベリー味らしい、ピンク色のチョコレート。
いずれも製菓用らしく、例の碁石のような形をしている。
「材料が少し違うだけで、基本は全部同じなんだ。刻んで、溶かして、混ぜて、固める」
「緑色のチョコがないですけど、抹茶味はどうするんです?」
「簡単なんだ。ホワイトチョコレートに抹茶を加える」
すでに慣れ切った作業ばかりだった。
渡されたチョコをさっさと刻み終え、生クリームを温めた。
その作業を行っている間に、藤村早紀は三つの空のボウルと、そのほかにガラスの器に入った三種類の粉末を用意していた。
粉末は緑色と赤色と白色。
赤と緑は濃い色をしている。
「抹茶はわかりますけど……赤は?」
「ストロベリーパウダー。白は、粉砂糖」
刻んだチョコレートをボウルに入れる。
ホワイトチョコは二つのボウルに分ける。
その間に藤村早紀は、計りを使って用意した粉末の量を調整していた。
「いまさら言うまでもないことだけど、分量は必ず、レシピ通り」
「お菓子づくりは、化学ですからね」
熱した生クリームを入れ、チョコを攪拌する作業は、ボウルごとに行った。
ストロベリーと抹茶には、混ぜながら、藤村早紀の指示で用意された粉末を入れた。
混ぜているうち、粉末の色が濃くなっていく。
「要するに、入れる材料を少し増やすだけ。簡単なんだ」
そう言う藤村早紀に、わたしはうなずいてみせる。
混ぜ終えたチョコは、バットに流しいれ、冷蔵庫の中に入れる。
全部で、二時間もかからない作業だった。
使った用具を一通り洗い終えた後、藤村早紀は言った。
「三時間もすれば、チョコは固まるんだ。時間があれば、最後の仕上げまで教えるけど、どうする?」
「今日、ヒマですから。最後までお願いします」
藤村早紀は微笑んで、わたしに言った。
「今日は、うちの親は出かけてるんだ。だから、お昼ご飯は私が作る。ゆりかは何がいい?」
「……藤村先輩の得意料理って?」
「チャーハン」
お菓子づくりだけでなく、藤村早紀は料理も得意なようだった。
どこからか本格的な中華鍋を取り出してきて、盛大な炎を上げるコンロの上で、大きなアクションで振りはじめる。
わたしはその様子を眺めながら、藤村早紀に言った。
「藤村先輩って、いろいろ、意外ですよね。細腕なのに、よくそんな鍋が振れる」
「もちろん力もいるけど、力を入れるコツを知る方が大事なんだ」
「第一印象は、変人でミステリアスな美少女かと思ってたんですけど」
「その認識で合ってるよ。特に美少女というところは、正しい」
「あと、思っているよりもずっと、面倒見がよくて優しい。そこも意外でしたよ」
そんなわたしの言葉に、藤村早紀は何の反応も示さない。
だけどそんな彼女が間違いなく照れているのだということは、それなりに長い時間を一緒に過ごしてきたわたしにはわかる。
無言のまま、藤村早紀は中華鍋をあおる。
コメが空中で半円を描き、綺麗に中華鍋へと戻っていく。
「美少女が、そんな豪快に中華鍋を振り回します?」
沈黙を破ったわたしがそう言うと、藤村早紀は微笑んで答える。
「そういう美少女はちょうど今、きみの目の前にいるんだ」
藤村早紀の作ってくれたチャーハンは、実際、相当においしかった。
彼女が作り、食べさせてくれるものは、どれもこれもわたしを感嘆させるほどにうまい。
「わたしにも、こういうの作れます?」
「経験があれば、ね。料理はフィーリングだ。すぐには、難しい」
食事を終えた後、しばらくリビングでのんびりとした。
藤村早紀は本を開き、わたしは藤村早紀の了解を得た上でテレビをながめた。
定番の情報番組を、見るともなく眺める。
やがて藤村早紀が、時計にちらりと目を向け、本を閉じた。
「そろそろ時間だね」
最後の仕上げも、そう難しいものではなかった。
切り分けたそれぞれの生チョコを、ココアパウダーと同様に、抹茶やストロベリーパウダー、粉砂糖の上で転がす。
完成した三種類の生チョコは、わが手によるものではあったけれど、実に色とりどりで美しかった。
ぱくりと一口、生チョコを食べて、藤村早紀が言う。
「うん、味もいい」
「なら、よかったです」
藤村早紀がうなずいて、わたしに目を向ける。
「きみに教えることは、もう何もないんだ」
わたしはじっとその目を見つめた。
言葉は出てこなかった。