25.わたしは、そうは思いません
放課後になって行った藤村早紀の家で、わたしは滝上楓との昼休みの話をした。
滝上楓が、わたしの教室の中ですべてを話そうとしたことを伝えると、藤村早紀はおかしそうに声をあげて笑った。
「あいつは相変わらずなんだ。そういうことしてるから、真面目バカだって敬遠される。融通の利かないやつ」
言っていることは痛烈な批判だったけれど、その口調に鋭い響きはなかった。
そうして一通り、最後まで話を聞き終えると、藤村早紀は言った。
「そう、私が楓から聞いたのもそういう内容。あいつはあいつなりに、私たちに気を遣ってくれたんだろうね。別にわざわざ、私たちに話す必要のないことなんだ」
「それで、藤村先輩は、諦めようって思ったんですか?」
「うん」
藤村早紀は平気な顔でうなずく。
わたしにはその表情が、本当のものか、演技をしているのか読めない。
「リスクが大きすぎる」
「いや、そりゃ、もし見つかったら、チョコが没収されちゃいますけど……」
「ゆりか、きみは停学の話は聞かなかったんだ?」
わたしは首を横に振る。
取り締まりが厳しくなった、という話しか聞いていない。
わたしのそのリアクションを見て、藤村早紀は眉間にしわを寄せる。
「楓め。たぶん、言い忘れたんだ。あいつはそういう、間の抜けたところもあるから、たちが悪い」
「やっぱり、停学になるんですか?」
藤村早紀は、ゆっくりとうなずいた。
「見つかったら、一週間の停学になる見込みだと、楓は言っていた。理事長に処分を提案するのは風紀委員じゃなく、教師たちだから、彼らとある程度そんな話になっているんだろうね。どこまで本気かわからないけど、もしやろうと思えば、過去に同じ例がある。前例踏襲は、たやすい選択なんだ」
停学。
あらかじめわかってはいたものの、その言葉はさすがに、重く響く。
わたしは一応、進学をするつもりだ。
そしてノベ高は私立の進学校だ。
大学への推薦枠はいくつかある。
もちろん、そういった推薦枠は優秀な生徒じゃなければとれない。
わたしには縁のないことかもしれない。
ただ可能性はゼロではない。
だけど停学という経歴が残ることは、その可能性をゼロにすることを意味する。
頭脳優秀な藤村早紀にはあまりダメージがないことかもしれない。
でもわたしにとって、同じダメージで済むかはわからない。
そして藤村早紀は、去年のバレンタインデーで、まさか停学までにはならないだろうと思っていた。
「私のせいだ。そんなくだらない、前例を作ってしまった」
「でも、停学ぐらい、休みが増えるだけで、なんてことは……」
わたしのその反論の語尾は、消え去っていく。
なんてことはないかもしれない。
いや、多いにあるかもしれない。
自分で言っておきながら、自信がない。
そして藤村早紀は大きく首を横に振った。
「ゆりかがそれでよくても、きみの慕う矢島貴裕が巻き込まれるかもしれない。しかも、きみのせいで」
「どういう意味ですか?」
「男子生徒も、持ち物検査の対象になるそうだ。つまりバレンタインデー禁止の対象にね。もし、チョコを受け取っているのが見つかったら、もちろんアウトだ。処分はきっと、女子も男子も変わらないだろう」
矢島くんが、わたしのせいで停学になるかもしれない。
さすがに、言うべき言葉は見つからなかった。
藤村早紀は肩を落とし、そうして言葉を続ける。
「私は、別にいいんだ。ある程度、ゆりかのために協力できたから、もう満足だ。そしてバレンタインデーの終わった次の週末、きみは矢島貴裕と二人で遊びに出かける。チョコは、そのとき渡すといい。そうして好きだと伝えるんだ」
「……あと三種類のチョコのレシピ、教わってませんよ」
「今週末、きみはヒマなんだろう? そのとき、うちにくればいい。レシピも教えるし、材料もあげる。藤村早紀のお菓子づくり教室は、その日が最後だ」
わたしは唇をかんでいた。
自分でも説明のしがたい、悔しさを感じていた。
これまでわたしを振り回し、バレンタインデーにこだわっていた藤村早紀が敗北を認めているのに。
どうして?
「そしてきみはその日まで、ここには来ない。来る必要は、もうなくなった」
「わたし、ここに来るの、結構好きだったんですけど」
「それは、私だって、……きみといる時間は楽しかった。でも、ゆりかにはもっと大事なことがある。きみにとっては、親友と仲直りする方が大事だ。きみと親友との仲たがいは、バレンタインデーが原因なんだろう? だったら、それももうおしまいだ。明日、きみは親友にこのことを話し、部活に復帰する」
「藤村先輩は……それでいいんですか?」
藤村早紀は、どこか寂しげに笑って、うなずいた。
「私に出来なかったことを、きみがやろうとしてくれたことが、嬉しかった。一年間、私が感じていた、モヤモヤとしたエネルギーを受け止めてくれたのが、きみだったんだ。結果は、こうなってしまったけど、これもある意味、自業自得と言える。浦下ゆりか、きみと出会えてよかったよ」
藤村早紀は、そう言ってわたしに右手を差し出してくる。
わたしはためらったけれど、その手を握った。
「お互いに、元の生活に戻ろう。そして今週末、また会おう」
どう考えても、藤村早紀の言っていることが正しいように思えた。
だけど、胸の中にひっかかるものが、ある。
わたしはゆっくり、自分でも確かめるように、藤村早紀に聞いた。
「……藤村先輩は、去年のバレンタインデーにしたことが、くだらないことだったと思います?」
「今となってはね」
わたしもはじめはそう思っていた。
でも、今は違う。
藤村早紀が、言葉を続ける。
「結局、ゆりかのバレンタインデーを台無しにしてしまったんだから。くだらない校則のために、くだらない意地を張って、そんなわがままでみんなの楽しみを奪ってしまった。バレンタインデー禁止を、厳格なものにしてしまった。本当にくだらないのは、私だ」
「わたしは、そうは思いません」
言葉にしてから、はっきりとそう思う。
「一日ずらせばいいとか、次の週に渡せばいいとか、誰かが誰かを想う気持ちってそんなものなんですか? くだらない校則だってわかっているのに、何で誰も変えようとしないんですか? 厳しさで正当化するだけで、そんなものがなければいいって気づかないのは、なぜなんですか」
青春として、最高。
そんな矢島くんの言葉が、耳の奥に響く。
「わたしの青春を、誰が何で、そんな大した意味もなく奪おうとするんですか」
予想よりもはるかに大きく出たわたしの声を聞いた後、藤村早紀は、ゆっくりと首を横に振る。
「私も、そう思っていた。今でも、そう思っている。だけど、現実はこんなものなんだ。最後には学校を退学して、好きにバレンタインデーを楽しめ、なんて言われる。伝えたいのは、そういうことじゃないのにね」
藤村早紀は微笑んで、言葉を続けた。
「今の言葉だけでも、私には十分だ。ありがとう、浦下ゆりか」
感情を吐き出し終えたばかりのわたしには、もう言うべき言葉は見当たらなかった。
藤村早紀の言葉にただうなずいた。
そうして、彼女の家の玄関へ向かった。
すでに時刻は午後六時を回ろうとしていた。
「きみの初恋が、うまくいくことを祈ってる」
別れ際に、藤村早紀がそう言った。
玄関の扉が閉まってから、わたしはなぜだか、高ぶる自分の心を抑えきれなかった。
少しだけ、涙が出た。
それはひとしずくだけで、すぐに収まった。
目の端から流れた涙をぬぐい去り、それからわたしは、学校の最寄り駅に向けて歩き出した。