15.お菓子作りは、化学
その日から、わたしの放課後の過ごし方は大きく変わった。
放課後になるとすぐ、わたしと絵美里は弓道場に足を運ぶ。
着替えとか、様々な準備が終わるのは午後四時前後だ。
普段はそこから午後六時ぐらいまで、練習を行う。
だけど藤村早紀と約束をしているわたしには、一時間ぐらいしか時間がない。
さっさと着替え、弓を構え、ひたすらに的を射る。
気が早っているせいか、的中率はあまりよくなかった。
わたしの成長は、入部後に先輩たちが抜けるまでが早かった。
その後はなんだか伸び悩んでいるように思える。
あんまり真剣に弓道に取り組んでいないからかもしれない。
その点、地道な努力を続ける絵美里は、ゆっくりながらも着実に成長しているように思える。
最初の日、午後五時が近くなり、わたしが弓道場を去ろうとしているときでも、絵美里は未だに矢を放っていた。
手に持った矢を放ち終えるのを待ち、わたしは絵美里に言った。
「じゃ、ごめんだけど、先にあがるから」
「はいはい。藤村早紀によろしくね」
わたしは戸惑っていた。
今の絵美里には、別に不機嫌そうな様子はない。
図々しくて、聞きづらかったことを、わたしはそのときたずねた。
「……絵美里は? 練習、やってくの?」
「うん」
当たり前のように絵美里がうなずく。
わたしはてっきり、彼女も一緒に午後五時にあがるものだと思い込んでいた。
「ゆりかがそっち行っちゃうから、私は新町くんと一緒に帰ることにしたの。そんで新町くんも、六時まで部活あるし」
絵美里はそう言いながら、矢を取りに、的へと向かって歩きはじめる。
「私は毎日二倍の練習をするんだから。そのうち、ゆりかよりも上手くなっちゃうなあ」
「……期待してる。それじゃ、ごめんね。お先に」
「別にいいって。また明日」
弓道場を後にし、更衣室で着替えた後は、まっすぐ藤村早紀の家へと向かう。
その家までは、歩いて十分ぐらいかかる。
彼女の家は見晴らしのいいところにあり、学校を出るとすぐに見えるから、迷う心配はなかった。
黙って入ってきていい、と言われていたけれど、一応玄関のチャイムを押す。
カギはかかっていないらしかった。
靴を脱いであがり、リビングへ続く扉を開ける。
藤村早紀はソファーに座っていた。
すでに制服から、灰色のスウェットに着替えていた。
「遅かったんだね」
読んでいた本をテーブルに置きながら、藤村早紀が言った。
わたしは壁の時計に目を向けた。
午後五時十五分を回ろうとしていた。
「部活やってから来ると、このぐらいになっちゃいますね。遅すぎますか?」
「あんまり部活の時間を奪っても、きみの友達に悪いんだ。弓道部、二人しかいないんでしょ?」
わたしはうなずいてみせる。
その話はすでにしていた。
絵美里には話していなかったけれど、実のところ藤村早紀は、絵美里にも興味津々だった。
「友達は、大丈夫だった?」
「ええ、まあ。練習、続けてました」
「一人っきりの部活か。よく知らないけど、弓道って、それでも練習できるんだ?」
わたしはうなずき、簡単に弓道の練習について説明をする。
射形や作法など、弓道には様々な要素はあるけれど、スポーツとしての要素を煎じ詰れば、結局のところ的に当てる正確性だけの勝負だ。
そして弓は一人でも打てるし、的は動かない。
相手のいる競技とは違い、一人だけでも、本番とまったく同じ練習ができる。
「話を聞く限り、私好みの競技なんだね。一人でも成立するっていうのがいい」
「二年生、誰もいないんで、ワクはあいてますよ」
そう軽口を叩いた後、まさか本気にとらないよな、と少し心配になる。
藤村早紀はもうすぐ三年生になる。
今から部活をはじめても、あと半年も続けられない。
だがしかし、彼女ならやりかねない。
「絶対やらないよ。体うごかすの、嫌いだし」
そう言った藤村早紀は、わたしが安心してほっと息を吐いたのには、たぶん気づかなかった。
「さあ、お菓子作りのいろはを教えよう」
そう言って藤村早紀から招かれたのは、リビングに隣接しているキッチンだった。
ダイニングとは仕切られていない、オープンキッチンになっている。
かなり広い。
そして、整理整頓されている。
先日彼女がちょっと口にしたところによれば、藤村早紀の母親は料理研究家をやっている。
それもうなずけるほど、設備は充実していた。
「ゆりかはほとんどお菓子は作ったこと、ないんでしょ?」
ええ、と言ってわたしはうなずく。
「じゃ、今から私の言うことをよく覚えておくといいんだ。料理はフィーリング。味付けなんかは、感覚で出来る。すこし失敗しても、調整が利く。でもお菓子作りは違う。お菓子作りは、化学」
「化学?」
「そう。感覚じゃできない。失敗も取り戻せない。レシピ通り、ちゃんと計る。決まったタイミングで、混ぜ込む。全部、私の言う通りにすること。それがもっとも大事」
最初の日、わたしが教わったのは、チョコレートの砕き方だった。
藤村早紀が冷蔵庫から取り出してきたのは、変わった形のチョコレートだった。
丸く、大きめの碁石のような姿をしている。
最初に藤村早紀は、その重さを計った。
計りを出してきて、その上に、銀色のボウルを置き、チョコレートの粒を入れていく。
最後のいくつかは慎重に袋から取り出し、その後でボウルを計りから下ろした。
「これが製菓用チョコレート。これを、砕く」
包丁とまな板を取り出して、藤村早紀はためらいのない手つきで、チョコレートを細かく砕きはじめる。
みじん切りをするように、包丁の柄に近い部分を使って、チョコレートをどんどん小さくしていく。
一つを刻み終えると、藤村早紀がわたしに包丁を渡す。
「今のと同じように、やってみるんだ」
実際にやってみて、藤村早紀と同じようにするのは、案外難しいことがわかった。
彼女は軽々とやっていたのに、砕くのには結構力がいる。
わたしは比較的、力がある方だと思っていたのに。
それに下手なところを触ると、すでに細かくなったチョコが手に付く。
そうしてそれが体温で溶けてベタベタになる。
わたしがもたついていると、藤村早紀が言った。
「貸して。よく見てて」
そうして包丁を手に取り、リズミカルに砕きはじめる。
そして再びわたしの手に包丁が戻る。
最初の日は、ただそれだけで、藤村早紀のレッスンが終わった。
すべて砕き終え、銀色のボールにいれたチョコレートを冷蔵庫に戻しながら、藤村早紀が言った。
「続きは、明日やろう。明日は、溶かして、混ぜて、冷やす」
「何を作るんです?」
「生チョコ。初心者には、ちょうどいいんだ」
リビングに戻って時計を見ると、午後六時が近づいてきていた。
藤村早紀が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、今朝のことをわたしは話した。
「矢島くんと話しました。朝、勇気を出して」
「へえ。何の話をしたの?」
「朝の挨拶、ですかね」
ふふん、と鼻を鳴らして、藤村早紀が言う。
「それは大した成果なんだ」
そのバカにした様子に、わたしは少し気分を害する。
実際のところ、わたしにとっては大した成果なのに。
そのわたしの心を察してか、藤村早紀が言葉を続ける。
「だけどまあ、初日にしては悪くない。その調子で、明日は連絡先も聞くといいんだ」
「……連絡先、か。ハードル、高くないですか?」
「簡単だよ。そういえばいい。連絡先を教えて、って」
「何で、って言われたら?」
「繰り返す。連絡先、知りたいからって」
本気か?
わたしはじっとその顔を見た。
藤村早紀は、笑いだしもしなかったし、冗談だともいわなかった。
「私は、そうしたんだ」
その翌日、再び藤村早紀の家に訪れたわたしは、生チョコづくりの続きを教わった。
砕いたチョコをわたしは、湯せんで溶かすものかと思っていた。
しかし藤村早紀は、冷蔵庫から牛乳パックみたいなのを取り出してくると、わたしに言った。
「これは、生クリーム。これを熱して、チョコレートを溶かす。さて、はじめにやらなければならないことは?」
「パックを開ける?」
「聞きたいのはそんな、『とんち』みたいな答えじゃないんだ。では、ヒント。お菓子づくりは、化学です」
「……生クリームの量を計る」
「正解。飲み込み、早いね」
小さな白い鍋を計りに置いて、藤村早紀はその中に生クリームを流し込んだ。
計りの表示から目を離さず、ちょうどいいところで、パックの傾きを止める。
「これを、火にかける。沸騰は、させない。……矢島くんの連絡先は、聞いた?」
「今日も、話しかけはしましたよ。だけど、連絡先までは、さすがに……」
「さっさと聞いた方がいいよ。バレンタインデーが近くなればなるほど、きみの告白はうまくいかなくなる。何か、連絡先を聞く、いい理由はない?」
わたしは少し考える。だけど、何も思いつかない。
「絵美里と相談してみます」
以前に絵美里とも似たような話をしたことがある。
そのときは、直接聞けば、と絵美里にも言われたけれど、相談をすれば何か解決方法を考えてくれるかもしれない。
「それがいい」
熱された生クリームが湯気を放ちはじめ、しばらくすると藤村早紀はわたしに言う。
「そろそろだよ。火からおろして、ボウルの中に、静かに回しいれる」
藤村早紀はすでに冷蔵庫から出し常温にしておいた、昨日砕いたチョコレートを差し示しながら、そう言う。
「わたしが?」
「そんなに、難しくない。その後ですぐ、へらでチョコを混ぜ合わせる。全部、うまく溶かす。ほら、もう沸騰しちゃうんだ」
あわてて、わたしは鍋の柄をつかんだ。
熱された生クリームは、心なしかとろみがある。
生クリームをボウルにいれても、チョコはすぐにはとけなかった。
重なったチョコの表面だけがまだらに溶けて、白い中に黒い粒が浮かんだ状態になる。
溶けきったチョコチップアイスによく似ていた。
その状態のボウルに、藤村早紀の指示通り、ゴム製のへらを差し込んで、混ぜ合わせる。
最初は生クリームの白い比率の方が多かった。
だけど粘性の高いチョコレートに、へらを差し込んで混ぜるにつれて、どんどんと黒へと色が変わっていく。
最終的には、とても柔らかい、チョコレート色をしたスライムのような姿になった。
「これで、ほぼ完成。バットに流し込んで、冷やす」
藤村早紀が取り出してきた銀色のバットに、わたしはゴムのへらでチョコレートを注ぎ込んだ。
ほとんどのチョコを流しいれた後で、藤村早紀が、その表面を平らにならしてくれる。
ゴムベラに残っていたチョコを、指に取り、なめてみる。
柔らかく、甘い。
すごくおいしい。
「えらい簡単ですね」
「やり方がわかっていればね。レシピだけじゃ、難しい。私が教えているから、簡単に感じる」
そんなものかな、と思うが、反論もしない。
実際、目の前で実演してくれるから、わかりにくいことは一つもなかった。
「藤村先輩は、お母さんから教わったんですか?」
「ううん。全部、ネットの動画。すごくわかりやすい」
その後一日、生チョコは冷蔵庫で冷やされることになった。
その翌日の朝、わたしは連絡先の件を絵美里に相談した。
どうしたらいいだろう、という真剣なわたしの問いかけに、絵美里はあっさりと答えを返した。
「一番簡単なのは、何か、写真とか送るのを理由にする。もしストレートに聞けないとすれば、ね」
「写真」
わたしはそう繰り返し、頭の中を探る。
わたしから、矢島くんに何か、送れるような写真はあっただろうか。
一つだけ思い当たるものがある。
しかしその写真は、わたしのスマホの中には存在しない。
おそらくそれは、矢島くんのスマホの中にもない。
あの日、矢島くんには写真を撮っている様子はなかったし、そんな余裕だってなかったはずだ。
それでもわたしは、そのチャンスを試してみることにする。
少なくとも矢島くんに話しかける理由にはなるし。
お昼休みになってから、わたしはいつものグループの中に混ざって話している矢島くんに近づく。
わたしの向かう気配に気づいたのか、矢島くんがこちらに目を向ける。
「あのさ、矢島くん」
そういうわたしに、柔らかい笑みを矢島くんはみせる。
彼の笑顔はいつも柔らかく、優しい。
「去年の、年末のこと、覚えてる? ほら、あの……迷子を助けた日のこと」
わたしはもちろん、一瞬たりとも忘れたことはない。
しかし矢島くんはどうだろう。
すっかり忘れてしまっている可能性もある。
矢島くんにとっては、何のことはない、日常の一コマだったかもしれない。
しかし矢島くんは、少しもためらわず、すぐにうなずいてみせた。
「ああ、覚えてるよ。浦下がいてくれて、助かった」
「本当に?」
「もちろん。ああ見えて、俺だってあのとき、不安だったし」
助かった、なんて言われて、わたしはついニヤニヤしてしまう。
その喜びに浸っていたいところだったけれど、そういうわけにもいかない。
いま、わたしには別な目的があった。
「それでさ、矢島くん。あのとき、何か写真とか撮ってないよね? 実はあれ、結構いい思い出だったな、ってたまに考えるんだ。思い返せるような写真があったらな、って思うんだけど……」
わたしのその言葉は、ほとんどダメ元だった。
あるわけないよな、と思っていたのだけれど、矢島くんは、意外な答えを返してきた。
「あるには、あるよ。変なのだけど」
「……え?」
わたしの妙な顔にうなずき返し、矢島くんはポケットからスマホを取り出した。
しばらく画面を操作してから、わたしにその画面を見せる。
「ほら」
そう言って見せてくれたのは、あの女の子の写真だった。
ただし頭上から見下ろすようなアングルで、うつむいているために顔は隠れている。
「あの子を見つけたとき、あの子から話を聞きながら、どこに連絡すればいいか探そうと思って、いろいろ検索してたの。でもなんか変なとこ押しちゃって、シャッター音がした。後で見たら、そんな写真が残ってた」
わたしはじっとその写真を見つめた。
ぱっと見せられただけでは、何が何だかわからないその写真は、わたしにとっては理想的なものだった。
「何となく消さないで放ってあったんだけど……こんなのでも、よければ」
「それ、欲しい。……わたしのスマホに送ってくれない?」
わたしの、本当の目的を叶える一言は、思っていたよりもあっさりと言えた。
「いいよ。浦下、QRコード、出して」
やがてLINEでメッセージが来た。
画面には、矢島くんの名前が表示されている。
そうして送られてきた写真を、わたしは見つめた。
あなたはわたしにとって、本物の恋のキューピッドかもしれない。
うつむくその子の写真を見ながら、わたしはそう考える。
そしてわたしは感謝をした。
今頃わたしから感謝をされているだなんて、彼女は夢にも思わないだろうな、なんて考えながら。