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15/41

15.お菓子作りは、化学

 その日から、わたしの放課後の過ごし方は大きく変わった。

 放課後になるとすぐ、わたしと絵美里は弓道場に足を運ぶ。

 着替えとか、様々な準備が終わるのは午後四時前後だ。

 普段はそこから午後六時ぐらいまで、練習を行う。


 だけど藤村早紀と約束をしているわたしには、一時間ぐらいしか時間がない。

 さっさと着替え、弓を構え、ひたすらに的を射る。


 気が早っているせいか、的中率はあまりよくなかった。

 わたしの成長は、入部後に先輩たちが抜けるまでが早かった。

 その後はなんだか伸び悩んでいるように思える。

 あんまり真剣に弓道に取り組んでいないからかもしれない。

 その点、地道な努力を続ける絵美里は、ゆっくりながらも着実に成長しているように思える。


 最初の日、午後五時が近くなり、わたしが弓道場を去ろうとしているときでも、絵美里は未だに矢を放っていた。

 手に持った矢を放ち終えるのを待ち、わたしは絵美里に言った。


「じゃ、ごめんだけど、先にあがるから」

「はいはい。藤村早紀によろしくね」


 わたしは戸惑っていた。

 今の絵美里には、別に不機嫌そうな様子はない。

 図々しくて、聞きづらかったことを、わたしはそのときたずねた。


「……絵美里は? 練習、やってくの?」


「うん」


 当たり前のように絵美里がうなずく。

 わたしはてっきり、彼女も一緒に午後五時にあがるものだと思い込んでいた。


「ゆりかがそっち行っちゃうから、私は新町くんと一緒に帰ることにしたの。そんで新町くんも、六時まで部活あるし」


 絵美里はそう言いながら、矢を取りに、的へと向かって歩きはじめる。


「私は毎日二倍の練習をするんだから。そのうち、ゆりかよりも上手くなっちゃうなあ」


「……期待してる。それじゃ、ごめんね。お先に」


「別にいいって。また明日」


 弓道場を後にし、更衣室で着替えた後は、まっすぐ藤村早紀の家へと向かう。

 その家までは、歩いて十分ぐらいかかる。

 彼女の家は見晴らしのいいところにあり、学校を出るとすぐに見えるから、迷う心配はなかった。


 黙って入ってきていい、と言われていたけれど、一応玄関のチャイムを押す。

 カギはかかっていないらしかった。

 靴を脱いであがり、リビングへ続く扉を開ける。

 藤村早紀はソファーに座っていた。

 すでに制服から、灰色のスウェットに着替えていた。


「遅かったんだね」


 読んでいた本をテーブルに置きながら、藤村早紀が言った。

 わたしは壁の時計に目を向けた。

 午後五時十五分を回ろうとしていた。


「部活やってから来ると、このぐらいになっちゃいますね。遅すぎますか?」


「あんまり部活の時間を奪っても、きみの友達に悪いんだ。弓道部、二人しかいないんでしょ?」


 わたしはうなずいてみせる。

 その話はすでにしていた。

 絵美里には話していなかったけれど、実のところ藤村早紀は、絵美里にも興味津々だった。


「友達は、大丈夫だった?」


「ええ、まあ。練習、続けてました」


「一人っきりの部活か。よく知らないけど、弓道って、それでも練習できるんだ?」


 わたしはうなずき、簡単に弓道の練習について説明をする。

 射形や作法など、弓道には様々な要素はあるけれど、スポーツとしての要素を煎じ詰れば、結局のところ的に当てる正確性だけの勝負だ。

 そして弓は一人でも打てるし、的は動かない。

 相手のいる競技とは違い、一人だけでも、本番とまったく同じ練習ができる。


「話を聞く限り、私好みの競技なんだね。一人でも成立するっていうのがいい」


「二年生、誰もいないんで、ワクはあいてますよ」


 そう軽口を叩いた後、まさか本気にとらないよな、と少し心配になる。

 藤村早紀はもうすぐ三年生になる。

 今から部活をはじめても、あと半年も続けられない。

 だがしかし、彼女ならやりかねない。


「絶対やらないよ。体うごかすの、嫌いだし」


 そう言った藤村早紀は、わたしが安心してほっと息を吐いたのには、たぶん気づかなかった。


「さあ、お菓子作りのいろはを教えよう」


 そう言って藤村早紀から招かれたのは、リビングに隣接しているキッチンだった。

 ダイニングとは仕切られていない、オープンキッチンになっている。

 かなり広い。

 そして、整理整頓されている。

 先日彼女がちょっと口にしたところによれば、藤村早紀の母親は料理研究家をやっている。

 それもうなずけるほど、設備は充実していた。


「ゆりかはほとんどお菓子は作ったこと、ないんでしょ?」


 ええ、と言ってわたしはうなずく。


「じゃ、今から私の言うことをよく覚えておくといいんだ。料理はフィーリング。味付けなんかは、感覚で出来る。すこし失敗しても、調整が利く。でもお菓子作りは違う。お菓子作りは、化学」


「化学?」


「そう。感覚じゃできない。失敗も取り戻せない。レシピ通り、ちゃんと計る。決まったタイミングで、混ぜ込む。全部、私の言う通りにすること。それがもっとも大事」


 最初の日、わたしが教わったのは、チョコレートの砕き方だった。

 藤村早紀が冷蔵庫から取り出してきたのは、変わった形のチョコレートだった。

 丸く、大きめの碁石のような姿をしている。


 最初に藤村早紀は、その重さを計った。

 計りを出してきて、その上に、銀色のボウルを置き、チョコレートの粒を入れていく。

 最後のいくつかは慎重に袋から取り出し、その後でボウルを計りから下ろした。


「これが製菓用チョコレート。これを、砕く」


 包丁とまな板を取り出して、藤村早紀はためらいのない手つきで、チョコレートを細かく砕きはじめる。

 みじん切りをするように、包丁の柄に近い部分を使って、チョコレートをどんどん小さくしていく。

 一つを刻み終えると、藤村早紀がわたしに包丁を渡す。


「今のと同じように、やってみるんだ」


 実際にやってみて、藤村早紀と同じようにするのは、案外難しいことがわかった。

 彼女は軽々とやっていたのに、砕くのには結構力がいる。

 わたしは比較的、力がある方だと思っていたのに。


 それに下手なところを触ると、すでに細かくなったチョコが手に付く。

 そうしてそれが体温で溶けてベタベタになる。

 わたしがもたついていると、藤村早紀が言った。


「貸して。よく見てて」


 そうして包丁を手に取り、リズミカルに砕きはじめる。

 そして再びわたしの手に包丁が戻る。

 最初の日は、ただそれだけで、藤村早紀のレッスンが終わった。

 すべて砕き終え、銀色のボールにいれたチョコレートを冷蔵庫に戻しながら、藤村早紀が言った。


「続きは、明日やろう。明日は、溶かして、混ぜて、冷やす」


「何を作るんです?」


「生チョコ。初心者には、ちょうどいいんだ」


 リビングに戻って時計を見ると、午後六時が近づいてきていた。

 藤村早紀が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、今朝のことをわたしは話した。


「矢島くんと話しました。朝、勇気を出して」


「へえ。何の話をしたの?」


「朝の挨拶、ですかね」


 ふふん、と鼻を鳴らして、藤村早紀が言う。


「それは大した成果なんだ」


 そのバカにした様子に、わたしは少し気分を害する。

 実際のところ、わたしにとっては大した成果なのに。

 そのわたしの心を察してか、藤村早紀が言葉を続ける。


「だけどまあ、初日にしては悪くない。その調子で、明日は連絡先も聞くといいんだ」


「……連絡先、か。ハードル、高くないですか?」


「簡単だよ。そういえばいい。連絡先を教えて、って」


「何で、って言われたら?」


「繰り返す。連絡先、知りたいからって」


 本気か?

 わたしはじっとその顔を見た。

 藤村早紀は、笑いだしもしなかったし、冗談だともいわなかった。


「私は、そうしたんだ」


 その翌日、再び藤村早紀の家に訪れたわたしは、生チョコづくりの続きを教わった。

 砕いたチョコをわたしは、湯せんで溶かすものかと思っていた。

 しかし藤村早紀は、冷蔵庫から牛乳パックみたいなのを取り出してくると、わたしに言った。


「これは、生クリーム。これを熱して、チョコレートを溶かす。さて、はじめにやらなければならないことは?」


「パックを開ける?」


「聞きたいのはそんな、『とんち』みたいな答えじゃないんだ。では、ヒント。お菓子づくりは、化学です」


「……生クリームの量を計る」


「正解。飲み込み、早いね」


 小さな白い鍋を計りに置いて、藤村早紀はその中に生クリームを流し込んだ。

 計りの表示から目を離さず、ちょうどいいところで、パックの傾きを止める。


「これを、火にかける。沸騰は、させない。……矢島くんの連絡先は、聞いた?」


「今日も、話しかけはしましたよ。だけど、連絡先までは、さすがに……」


「さっさと聞いた方がいいよ。バレンタインデーが近くなればなるほど、きみの告白はうまくいかなくなる。何か、連絡先を聞く、いい理由はない?」


 わたしは少し考える。だけど、何も思いつかない。


「絵美里と相談してみます」


 以前に絵美里とも似たような話をしたことがある。

 そのときは、直接聞けば、と絵美里にも言われたけれど、相談をすれば何か解決方法を考えてくれるかもしれない。


「それがいい」


 熱された生クリームが湯気を放ちはじめ、しばらくすると藤村早紀はわたしに言う。


「そろそろだよ。火からおろして、ボウルの中に、静かに回しいれる」


 藤村早紀はすでに冷蔵庫から出し常温にしておいた、昨日砕いたチョコレートを差し示しながら、そう言う。


「わたしが?」


「そんなに、難しくない。その後ですぐ、へらでチョコを混ぜ合わせる。全部、うまく溶かす。ほら、もう沸騰しちゃうんだ」


 あわてて、わたしは鍋の柄をつかんだ。

 熱された生クリームは、心なしかとろみがある。


 生クリームをボウルにいれても、チョコはすぐにはとけなかった。

 重なったチョコの表面だけがまだらに溶けて、白い中に黒い粒が浮かんだ状態になる。

 溶けきったチョコチップアイスによく似ていた。


 その状態のボウルに、藤村早紀の指示通り、ゴム製のへらを差し込んで、混ぜ合わせる。

 最初は生クリームの白い比率の方が多かった。

 だけど粘性の高いチョコレートに、へらを差し込んで混ぜるにつれて、どんどんと黒へと色が変わっていく。

 最終的には、とても柔らかい、チョコレート色をしたスライムのような姿になった。


「これで、ほぼ完成。バットに流し込んで、冷やす」


 藤村早紀が取り出してきた銀色のバットに、わたしはゴムのへらでチョコレートを注ぎ込んだ。

 ほとんどのチョコを流しいれた後で、藤村早紀が、その表面を平らにならしてくれる。


 ゴムベラに残っていたチョコを、指に取り、なめてみる。

 柔らかく、甘い。

 すごくおいしい。


「えらい簡単ですね」


「やり方がわかっていればね。レシピだけじゃ、難しい。私が教えているから、簡単に感じる」


 そんなものかな、と思うが、反論もしない。

 実際、目の前で実演してくれるから、わかりにくいことは一つもなかった。


「藤村先輩は、お母さんから教わったんですか?」


「ううん。全部、ネットの動画。すごくわかりやすい」


 その後一日、生チョコは冷蔵庫で冷やされることになった。


 その翌日の朝、わたしは連絡先の件を絵美里に相談した。

 どうしたらいいだろう、という真剣なわたしの問いかけに、絵美里はあっさりと答えを返した。


「一番簡単なのは、何か、写真とか送るのを理由にする。もしストレートに聞けないとすれば、ね」

「写真」


 わたしはそう繰り返し、頭の中を探る。

 わたしから、矢島くんに何か、送れるような写真はあっただろうか。

 一つだけ思い当たるものがある。

 しかしその写真は、わたしのスマホの中には存在しない。


 おそらくそれは、矢島くんのスマホの中にもない。

 あの日、矢島くんには写真を撮っている様子はなかったし、そんな余裕だってなかったはずだ。

 それでもわたしは、そのチャンスを試してみることにする。

 少なくとも矢島くんに話しかける理由にはなるし。


 お昼休みになってから、わたしはいつものグループの中に混ざって話している矢島くんに近づく。

 わたしの向かう気配に気づいたのか、矢島くんがこちらに目を向ける。


「あのさ、矢島くん」


 そういうわたしに、柔らかい笑みを矢島くんはみせる。

 彼の笑顔はいつも柔らかく、優しい。


「去年の、年末のこと、覚えてる? ほら、あの……迷子を助けた日のこと」


 わたしはもちろん、一瞬たりとも忘れたことはない。

 しかし矢島くんはどうだろう。

 すっかり忘れてしまっている可能性もある。

 矢島くんにとっては、何のことはない、日常の一コマだったかもしれない。

 しかし矢島くんは、少しもためらわず、すぐにうなずいてみせた。


「ああ、覚えてるよ。浦下がいてくれて、助かった」


「本当に?」


「もちろん。ああ見えて、俺だってあのとき、不安だったし」


 助かった、なんて言われて、わたしはついニヤニヤしてしまう。

 その喜びに浸っていたいところだったけれど、そういうわけにもいかない。

 いま、わたしには別な目的があった。


「それでさ、矢島くん。あのとき、何か写真とか撮ってないよね? 実はあれ、結構いい思い出だったな、ってたまに考えるんだ。思い返せるような写真があったらな、って思うんだけど……」


 わたしのその言葉は、ほとんどダメ元だった。

 あるわけないよな、と思っていたのだけれど、矢島くんは、意外な答えを返してきた。


「あるには、あるよ。変なのだけど」


「……え?」


 わたしの妙な顔にうなずき返し、矢島くんはポケットからスマホを取り出した。

 しばらく画面を操作してから、わたしにその画面を見せる。


「ほら」


 そう言って見せてくれたのは、あの女の子の写真だった。

 ただし頭上から見下ろすようなアングルで、うつむいているために顔は隠れている。


「あの子を見つけたとき、あの子から話を聞きながら、どこに連絡すればいいか探そうと思って、いろいろ検索してたの。でもなんか変なとこ押しちゃって、シャッター音がした。後で見たら、そんな写真が残ってた」


 わたしはじっとその写真を見つめた。

 ぱっと見せられただけでは、何が何だかわからないその写真は、わたしにとっては理想的なものだった。


「何となく消さないで放ってあったんだけど……こんなのでも、よければ」


「それ、欲しい。……わたしのスマホに送ってくれない?」


 わたしの、本当の目的を叶える一言は、思っていたよりもあっさりと言えた。


「いいよ。浦下、QRコード、出して」


 やがてLINEでメッセージが来た。

 画面には、矢島くんの名前が表示されている。


 そうして送られてきた写真を、わたしは見つめた。

 あなたはわたしにとって、本物の恋のキューピッドかもしれない。

 うつむくその子の写真を見ながら、わたしはそう考える。

 そしてわたしは感謝をした。

 今頃わたしから感謝をされているだなんて、彼女は夢にも思わないだろうな、なんて考えながら。

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