10.バレンタインデーでチョコ、渡すから
帰り道にわたしの思い付きを聞いて、絵美里は二度、驚いた。
「藤村早紀に会いに行く? なんで?」
「わたしも矢島くんに、バレンタインデーでチョコ、渡すから」
「え? なに、それ」
ふざけているわけではなかったし、実現不可能なアイデアでもなさそうに思えた。
矢島くんに告白をする。
それ単体では、とても無理なことだった。
想像することすら怖い。
だいたい、どうやってそこに行き着けばいいかわからない。
これまで一つも飛び越えたことのない、多くの、しかも高いハードルを乗り越える必要がある。
だけども、バレンタインデーなら話は別だ。
うまく話ができなくたって、チョコを渡しさえすれば、すべてが伝わる。
そりゃ、もちろん、恥ずかしい。
だけど、教室でドギマギして話もできず、そのままやがてクラス替えを迎えてしまうより、ずっといい。
ひらめいたそのアイデアの利点をわたしは絵美里に熱弁したけれど、彼女のいぶかしげな眼は消えなかった。
「私、反対だな。だいたい、ゆりか。ここ、ノベ高なんだよ。わかってる? 忘れちゃった? 恋に溺れ、記憶すら失った?」
「うるさいな、覚えてるよ」
「私立ノベラギ高校は、バレンタインデー禁止です。停学になりたいわけ? その、藤村早紀みたいに」
もちろんわたしもわかっている。
藤村早紀は、バレンタインデーの禁を破って、一週間の停学を食らった。
わたしは素早く首を横に振る。
「いや」
「じゃ、どうするのさ。登校中とか、下校のときに渡すの? いやまあ、それならそれで、反対はしないけど……私も新町くんにそうするつもりだし……」
そう言いながらも、絵美里の目が持つ疑いの光は、去っていかない。
もちろん彼女はわかっている。
わたしがわざわざ、バレンタインデーでチョコを渡す、ということを口にしている意味を。
「ううん。学校で、渡す」
「何でよ」
わたしはその理由を口にしない。
青春として、最高だから。
矢島くんがそう言ったから、と伝えてもきっと絵美里には理解されないはずだ。
その瞬間に居合わせなければ。
だからわたしは少し話題を変える。
そうして、わたしも抱いていた疑問を口にする。
「絵美里、藤村早紀は本当に、バレンタインデーでチョコを渡したぐらいで停学になったんだろうか」
「……そうなんじゃないの。新町くんだって、そう言ってたじゃない。それに、何しろ校則を破ってるんだし」
「校則なんて、完璧に守っている人なんかいないでしょ。絵美里だって少しだけど、髪、染めてる」
今の絵美里の髪の毛は、うっすらと茶色い。
校則によれば、髪の毛は学生生活にふさわしいものでなければならず、そこには染めてはならないことがはっきりと書かれている。
もちろん、茶髪というほど茶髪じゃない。
ほとんど黒に近いこげ茶だ。
でも彼女はファッションとしてそれを行っている。
その程度に髪を染めている人は多くいるし、そして教師からは注意もされない。
「これはまあ、常識の範囲内?」
「バレンタインデーにチョコを渡すのは常識の範囲外?」
「うーん……」
わたしの反論に、絵美里が言葉を詰まらせる。
そのタイミングを見計らい、わたしは説得の言葉をつむぐ。
何しろ絵美里の協力が必要だった。
「だからさ、藤村早紀にはそのへんの話を聞きたいわけ。彼女が本当にバレンタインデーにチョコを渡しただけで停学になったのか。もしそうじゃなければ、一体何をしたのか」
「それに引っかからないように、ゆりかもチョコを渡そう、ってこと?」
「そ」
絵美里はしばらく、わたしの顔を口を尖らせて見つめた。
それからバッグの中からスマートフォンを取り出した。
「藤村早紀のこと、調べろっていうんでしょ」
「さすが絵美里。わかってんじゃん」
彼女の人脈は、わたしよりもはるかに広い。
この高校には彼女の中学校時の同級生が多数存在した。
大抵のことは、絵美里に頼み、人づてに調べてもらえばわかる。
「週末の間、いろいろ聞いてみる。週明けにでも教える」
そう言いながらも、すでに彼女はスマートフォンを操作し、じっと画面を眺めている。
きっと誰に聞けばいいのか、考えているのだろう。
「友よ、ありがとう」
わたしのふざけた感謝の言葉を聞き流し、絵美里はわたしにたずねてきた。
「今週末の部活はどうする?」
三学期のはじまった今日は、始業式の日のくせに、金曜日だった。
あと一日、冬休みが欲しいところだったけれど、仕方がない。
「土日はやろう。月曜日の祝日は休み」
「いいね」
わたしの提案に、絵美里は親指を立ててそう言う。
その週末の間、わたしは部活で顔を合わせた絵美里に、藤村早紀については聞かなかった。
たぶんまだ調べているのだと思っていたし、週明けに教えるというのなら、間違いなくそうなるのだと考えていた。
土日の午前中に実施した部活の間、わたしは矢島くんのことも忘れ、藤村早紀のことも考えず、ただひたすら弓を引いた。
わたしの手から放たれ、次々に的を射抜く矢を見ながら、わたしはにやりと笑っていた。
日曜日の練習で、最後の矢を放ったわたしの背後で絵美里が言った。
「調子、戻ってるね」
わたしは小さくうなずいてみせる。
主観的にもそうだし、的中率自体も、金曜日とは大違いだ。
バレンタインデーも、この調子だ。
そんなことを考えたわたしに、絵美里が呆れたような声で言う。
「私、マンガの中だけだと思ってた」
「何が?」
「……他のことで頭がいっぱいなせいで、矢を外す人」