1.バレンタインデーは、これを禁止する
黒く長い髪を撫でつけながら、先輩・藤村早紀は言った。
「きみ、その意味がわかってる? それは、いばらの道なんだ。少なくとも、この高校では」
藤村早紀のその問いかけに、わたしはゆっくりとうなずく。
「だけど……わたしには、他に方法がないんです。そうでもしないと、たぶん、わたしの初恋は、うまくいかない」
「でもきみが望むことは、禁止されているんだ。私なんか一度、停学になっている」
「ええ、もちろん知ってます。だから、話を聞きに来たんです」
「大変なことなんだよ」
藤村早紀はじっとわたしを見つめ、そうして言葉を続けた。
「バレンタインデーにチョコを渡すというのは」
※※※
わたしたちの通う高校、S県南部にある私立野辺良木高校――通称ノベラギ高校、ノベ高――は、その珍妙な名前を含め、県内でもまあまあ名前を知られている高校だ。
普通科とスポーツ科があって、普通科は県内でも有数の進学校だ。
だからわたしも学業成績は悪くないし、卒業生には有名な大学へと巣立っていく人も多い。
そしてスポーツにおいてノベラギ高校は、S県では強豪の部類に入る。
だからスポーツ科は運動エリートが多い。
普通科とスポーツ科、その二つの科の間にはあまり分け隔てはなく、運動エリートと、勉学における優等生、その間には何やら確執が生まれそうではあるが、決してそんなこともなく、当たり前の同級生として普段の生活を送っている。
そんな私立ノベラギ高校の掲げる教育目標は「文武両道」。
全国の高校でこれを採用していない方が珍しいのでは、と思えるぐらいありふれた目標ではあるが、スポーツ科と普通科、全然異なる二つの科を持つ高校にふさわしい教育目標かどうかは、わたしにはよくわからない。
とはいえこの「文武両道」は、ノベラギ高校に通うわたしたちの高校生活に、暗く重い影を落とす一因になっている。
このノベラギ高校には、地元でも有名な、ある奇妙な校則がある。
その言葉がはじめて発せられたのは、まさにこの「文武両道」という教育目標と共にだった、らしい。
むろんわたしはその場に居合わせなかったので、生徒たちの間に伝わるそのまことしやかな噂が、どこまで本当かはわからない。
だが誰も否定しないことにより、このエピソードはすでに事実を超えた、真実へと化している。
話は五十年ほど前にさかのぼる。
わたしはまだ生まれていなかったし、わたしの両親ですらまだだった。
しかしこの私立ノベラギ高校は、その頃に竣工した。
今でも全校生徒が集会をしている講堂は、その頃はまだ出来上がったばかりでピカピカだったに違いない(今では薄汚れている)。
そのピカピカの講堂のステージの上で、初代理事長である野辺良子は、こんなあいさつをした(らしい)。
「来たる四月一日より、この私立ノベラギ高校は、青少年たちの学びの場として、スタートするわけです。この高校の開校は、私の父、野辺良樹の夢でもありました。その夢がいま叶い、そしてこれから多くの子どもたちがこの場で成長していくことに、わたしは感謝と喜びを抱きつつ……」
とかなんとか、うんぬんかんぬんの後で、問題の発言があった。
「学生たちの本文は、『文武両道』。この高校のスポーツ科、そして普通科、共にこのモットーで運営をしていきたいと考えております。なので、ええ、本日がそうである、バレンタインデーなどにうつつを抜かさない、学生生活を送らせたいと思います」
この挨拶がなされた日は、ちょうど二月十四日、バレンタインデーだった。
そしてこの発言の何がそんなに重要視されたのかは、よくわからない。
野辺良子はあまり冗談を言わない人だったのかもしれない。
そもそも少し変わったセンスをお持ちな方だったのかもしれない。
この高校の開校を夢に抱いた父、野辺良樹(=ノベラギ)の名前をもじって校名にするあたりにそれがうかがえる。
ともあれ、これがきっかけで、私立ノベラギ高校には奇妙な校則が生まれた。
新入生に配られる、生徒手帳の最後のページにもそれが書いてある。
・バレンタインデーは、これを禁止する。
それが私立ノベラギ高校における、冗談のような、マジな校則だ。
※※※
さて、わたしはこの高校に通う十六歳、高校一年生だ。
名前は浦下ゆりか。
やっているスポーツは弓道。
スポーツ推薦の生徒がおらず、今や一年生だけの、二人きりだけの部活においてわたしは、エースになりつつある。
そんなわたしが恋に落ちた顛末は、長くすれば長くなるし、短く表現すればいくらでも短くできる。
簡単にいえば、その表現が正しいかどうかはわからないが、一目ぼれだ。
しかもずっとクラスメイトだったのに、わたしは彼の魅力に気づいていなかった。
彼の名前は矢島貴裕。
わたしは矢島くん、と呼んでいる。
わたしと同じ普通科に通う矢島くんは、何の部活にも所属していない。
学校が終わればただ家に帰るか、あるいは時折アルバイトみたいなこともやっているらしい。
身長は百七十センチに満たないが、入学してきたときよりも大きくなっている。
背はまだ伸びているらしい。
顔は童顔で、整っている。
そんな童顔なのに、それでいて低めの大人な声をしているため、最初に彼と話したときには、そのギャップでつい笑ってしまった。
彼はその声を気にしているらしかった。
はじめてしっかりと話したとき、わたしの表情の変化を見て取ると、矢島くんは苦笑いをした。
「この声、変だよな」
わたしは、自分でも認めてしまうぐらい、ガサツな性格をしている。
そしてそのとき矢島くんのことはまだ好きではなかった。
平気でこんなことを言った。
「顔の割りにダンディーだね」
「それ、褒めてるの? けなしてる?」
そしてわたしは最低の返事をした。
人が気にしていることに対して、そんな表現をするなんて、いま思い返しても、バカだ。
「どっちかといえば、面白がってる」
「ある日急に声変わりして、こんな声になっちゃってさ。……やっぱ、変だよな」
「変だね」
わたしがそう言うと、矢島くんはさすがに眉をひそめてみせた。
「だけど、そういうギャップが好きな、物好きな人もいるんじゃない」
それで少し、矢島くんの表情が和らいだ。
わたしは言葉を続けた。
「あるいは、顔の方が声に追いついて、ダンディーになるのかも。それなら、変じゃない」
それで矢島くんは笑った。
「どっちかな」
そういって矢島くんは、精一杯凛々しい顔をしてみせた。
それから、二人して笑った。
なにがダンディーだ、なんて言いながら。
それがまだ四月の頃の話。
実際のところは、矢島くんは少しずつ、ダンディーとは言い難いけれど、声に似あう顔に変わってきているし、わたしはそんなことは関係なく、彼のことが好きになっている。
ギャップは薄れつつあるが、そのギャップだって好きな物好きな人とは、わたしのことだった。