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6話「ゆっくりと、ゆっくりと」

 楽しくもない夢だったはずなのに気持ちが軽い。


 すっきりと目覚めて時間にも余裕があり丁寧に化粧をする。ふと口紅が気になって蓋を閉じて確認してみたが、いつも使っている自分の口紅だ。赤過ぎると感じたのは勘違いか・・・。


(なぜだろう・・・)


 気にはなったがそんな事をいつまでも考えている時間はない。


 秋穂は支度を整えて直ぐに仕事へ向かった。今日は上手くやれそうな気がする。今日もミス無く過ごせる気がして明るい気分で秋穂は家を出る。


「クマ君、行ってきます」


 クマに明るく声をかけて出掛けた。




 気分が良いと自然と物事がよく見えて来るものなのだろう。仕事が順調に進み同僚との遣り取りも上手く出来ているように思えた。


 少し席を離れて戻ると机の上にお菓子がちょこんとひとつ置かれている。


 赤いパッケージでチョコでくるまれたウェハースのお菓子。一時期、受験生へメッセージを書いて渡すのが流行ったお菓子だ。


 こんな事をするのは後輩の胡桃くるみに違いない。

 胡桃の席へ目を向けると彼女と目があった。彼女は口を真一文字にして秋穂に小さく頷いてからパソコンに目を落とした。彼女なりの励ましに秋穂の表情が和らぐ。


 うっかり食事に誘って、以前の様に濡れ落ち葉みたいに張り付かれたら困るけれど、心配していることは伝えたい。絶妙な距離感だと秋穂は思う。


(失恋した後からじゃなく、速人にも濡れ落ち葉みたいに接してたのかな・・・私・・・・・・)


 速人が最後の恋人だろうと思っていた。でも、年齢的に重い女と思われないように、結婚をちらつかせないように気をつけていたつもりだ。


 結婚するならこの人だ、後はない。この人を逃したら次はないかもしれない。そんな事を心の何処かで考えなかったと言ったら嘘になる。だからこそ気をつけていた。


 正月の帰省も秋穂から話を振ったわけではない。


「みんな結婚してだんだん友達も誘いづらくなった。親友の和毅ともき覚えてる? あいつも今度の正月、彼女の家に顔出すらしい」


 そんな話を速人から聞いたときに、羨ましそうな顔をしないように「そっかぁ」と軽く流した。


「秋穂も両親に会って欲しいと思ってる?」


 一瞬固まった。


 20代だったら「うん」と嬉しそうに言うのもいいだろう。でも、今の秋穂がそう言ったら待ってました感が強く感じられて引かれるかもしれないと思った。


 かと言って「別に・・・」は違うし、「来る?」は秋穂のキャラじゃない。


(どう言えば正解だろう?)


 と考えながら笑顔を向けた。秋穂の笑顔を肯定と受け取った速人が言ったのだ。


「じゃ、会ってみようかな」


 その言葉は渡りに船だった。

 それなのに、何がいけなかったのだろう。その後の私の手際の良さか、両親の態度か・・・。それとも両方か。



 はっとする。

 今までとは違う角度の何故なぜループが形成され始めている!


 頭を振って深みにハマりそうな思考を飛ばした。


(クマ君、私仕事します。仕事しごとシゴト)


 溜まっていた仕事に集中してその場をやり過ごす。





「浅川、精が出るな」


 香坂課長の声に我に返った。


「みんな帰ったぞ、残業代いくら稼ぎたいんだ?」


 周りを見渡すと誰もいなかった。窓の外が真っ暗になっている。目を瞬いて香坂に目を戻すと、香坂の笑顔がそこにあった。


「部下を必要以上に残業させると俺の評価が下がっちゃうんだよなぁ」


 香坂が芝居がかった困り顔をしてみせる。そして、


「・・・頑張りすぎるな」


 そう言って先輩の顔に戻って笑った。


「すいません。今日は、もう帰ります」


 素直に従う。時間を忘れて仕事に打ち込めたことを自分で誉めたい。クマ君に報告だ・・・と思う。


「ところで・・・」


 香坂が目線を外して切り出した。


「今日は元気が出たみたいだな、昨日は・・・友達と食事にでも行ったのか?」


「・・・え?」


「最寄り駅とは違う所で降りたから、友達と待ち合わせかと思ったんだけど・・・違うのか?」


 香坂の言葉を選びながらの物言いが引っかかる。そして気付いた。


(見られていた!)


 速人の姿を見つけて電車を降りる姿を香坂に見られていたに違いない。

 自分があの時どんな顔をしていたのかと思うと恥ずかしさが先に立った。血相を変えて慌てふためいた姿だったに違いない。


 恥ずかしさで頬が紅潮するのが分かった。その秋穂の表情を怒りと受け取った香坂が少し浮き足立つ。


「後を付けた訳じゃない! たまたま乗り合わせただけだ」


 凄く真面目な顔になった香坂が、非はないとばかりに真っ直ぐ秋穂を見つめる。その目は「信じてくれ」と言っていた。


「香坂課長は何であの電車に?」

「俺はストーカーじゃない。本当にたまたまなんだよ、たまたま」

「確か・・・逆方向だったんじゃ?」


 恥ずかしさに怒りが混ざって秋穂の声が少しキツくなる。


「今は浅川と同じ方面の電車で通勤してるんだよ」


 気まずそうに苦い顔をしながら香坂は言った。


「どうしてですかッ?」

「・・・・・・離婚して、妻と子供に家を明け渡したからな」


 そうだった・・・。


 秋穂が失恋の泥沼にハマる前、香坂課長が離婚調停をしているという噂を耳にしたことがあった。今度は秋穂が気まずい顔になる。


 秋穂の表情の変化を見て香坂は小さくため息をついて笑った。


「マンション・・・奥さんに取られちゃったんですね」

「取られたとか言うなよ、惨めになるだろ」


 香坂が苦笑いする。


「・・・・・・彼氏とは、ちゃんと話し合いできたのか?」


 ああ、この人は知っているんだな・・・と秋穂は思った。

 香坂が知っているのは秋穂が失恋して落ち込んでいるというだけではないのだ。速人とのいきさつをある程度誰かから聞いて知っているのだと感じた。誰からかは分からないが・・・。


 秋穂を見て彼を探していると察しがつく程に、あの時の秋穂の姿は必死だったに違いない。


 今更繕ってどうなるのか・・・と思い、力なく秋穂は首を振った。


「そうか・・・」


 しばらく互いに黙っていた。


「・・・きついな」


 その声音は香坂自身が体験していることのように感じられる程実感がこもっていた。


 秋穂は黙ってこくりと頷く。


 香坂も話し合いどころか会話さえ出来ない冷戦期間があったのだろうか。奥さんに避けられ気持ちをぶつけることも聞くことも叶わず離婚に至ったのか・・・。


「今、1LDKのアパートに住んでるんだ。学生みたいだろ」

「私はずっと1LDKですよ」


 香坂がクスリと笑う。


「40手前の男が1LDKなのとは違うだろ。家族を失ってからってのは落ちた感ハンパないぞぉ」


 わざと肩を落としてみせる。


「そっか・・・すいません」


 俯き加減の香坂が少し笑うのが見えた。


「・・・ゆっくりゆっくり、なんとかなるさ」


 香坂が窓の外に目を向けてそっと言った。秋穂は自分を慰めてくれているのだと思いながら聞き頷く。


「良い言葉だな。 ーーー俺も・・・救われた」


 秋穂が見つめる香坂の横顔は少し淋しげだった。


「さぁ、帰るぞ。俺は先に行くから後よろしく」

「・・・はい」


 香坂は自分に活を入れている。

 秋穂も落ち込み続けるわけには行かない。泳ぎ続けなければ沈んでしまう。ゆっくりでもいい、海面に向かって浮上しよう。


 香坂がドアに手をかけて振り返った。


「浅川、明日は休日だぞ分かってるか? ゆっくり休め、じゃあな」


 そうだ第2土曜日だ。


(ゆっくりか・・・)


 休日をどう過ごしていたのかも記憶にない。


「私・・・休みに何してたのかな・・・」


 ぼーっと考え始める自分に気付いて秋穂は首を振り、電気を消して会社を後にした。


 夜の闇よりも窓の明かりや街灯が目に付いた。暗いながらも街に明るさを感じる。


 香坂と同じ電車になってしまわないように、ゆっくりとゆっくりと時間をかけて駅に向かう。

 家に帰ってクマのぬいぐるみに今日の事を聞いてもらおう。


(胡桃ちゃんの事や香坂課長の事を話そう。隼人以外の人の事話したこと無かったな、クマ君は初めて聞く名前にどんな顔するかなぁ)


 そこまで考えて笑った。


(クマのぬいぐるみが反応するわけないじゃん)


 秋穂は空を見上げた。

 星は見えなかったが祖母が見ている気がする。ほんの少し涙腺のゆるむ目をしばたたいて見つめる。


「さぁ、帰ろう」



 クマが待っている、あの部屋へ・・・。







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