第一話 見飽きた天井
色彩を失った視界は、世界の一割を知ることも出来ない。
とあるSF作家が十年も前に書いた小説のある一文だ。その小説はネフィリム発表前にも関わらず(開発の噂はあった)、巨大人型兵器に乗る少年少女の物語として、広く世間の注目を集めていた。決して文章力が高いわけでも無い。ストーリーに独自性が見受けられるわけも無い。ただ人々が目を付けたのは、『リアリティ』について、そのポイントだけにすぎなかった。
現実味を帯びていたその小説はフィクションと一括りにし難く、寧ろただの未来予知では無いか。そう講評した専門家も居た。
兎に角、この作品が発表されてからというものの、日夜この作品についての討論が、ワイドショーで取り沙汰されることとなっていた。
正確には、その作品が一番世間の注目を浴びたのは、それから五年後のことになるのだが。
◇◇◇
目を開けるとそこはいつもの天井だった。
それだけじゃ分からないから情報を付け足すとするならば、いつも俺が暮らしている軍の移動宿舎、その天井が視界一面に広がっていた。
「……起床の時間だ」
時計を見ることなく、俺は独りごちる。いつもの癖だ。それが有難いかどうかと微妙なところではある。仕事については寝坊知らずなので有難いところではあるが、これが休日にも適用されていることを鑑みるとプラスマイナスゼロと言って差し支えないだろう。
身体を起こし、ベッドから降りて、冷蔵庫から冷えた炭酸飲料を取り出した。朝から炭酸飲料なんて身体に悪い、と行きつけの医者がよく言っていた気がするが、そんなことまで健康のことを考えたくなかった。いくらこの世界が『平和』の側面を持っているからとはいえ、それを享有出来ているのは僅か。結局のところ選民思想は今も昔も変わらないということだ。
「……いずれにせよ、そんなことを口出し出来るのは自分の周りが平和だからこそ、なのだけれどな」
それは欺瞞だった。
或いは、利己的かもしれなかった。
そうであったとしても、医者が発言しているその環境は平和そのものであり、たとえこの場所の状況を知っているとはいえ、その発言はただ蚊帳の外からの発言に過ぎない。いずれにせよ、それがどうであったとしても、俺はそれに従うつもりは無かった。
(――ま、業務命令というのであれば、従うけれど)
シャワーを浴びてタオルで水気を拭きとると、ちょうどドアをノックする音が聞こえた。
その音の発生源は玄関からのようだった。
「ちょっと待ってくれ」
玄関に向かってそう声を出し、バスローブを素早く羽織ると玄関の鍵を開けた。
「やあ、ラルース。元気そうだね」
声をかけてきたのは同僚のアンナだった。赤い髪をダンゴのように束ねている。勝気の強い奴だった。
アンナは俺にそう声をかけると、俺の部屋を玄関から見渡し、
「あんた、まだ朝食食べていないの? 招集時間まであと十五分も無いけれど!」
「……俺は低血圧なんだ」
まさか突然そんなことを言われるとは思いもしなかった。アンナと俺は何回か同じ戦場を経験しているし、俺の仕事もある程度理解していると思っていたのだが。
「低血圧だからって関係ないでしょ……」
アンナは俺の言葉を聞いて頭を抱え、深い溜息を吐くと、右手に持っていた何かを差し出した。
それはパンだった。正確に言えば袋に入っているパンだ。朝食の時に配給されるパンであって、カリカリに焼き上げている。そんなパンだが、焼き上がって相当時間が経過しているのだろう、今は彼女の手により握られていたということが一目瞭然なほど形が残っていた。
アンナはそれを俺に見せつつ、
「低血圧だからって、朝食を食べないのはダメよ。少しでも脳に栄養を与えておかないと、午前の仕事が上手く回らなくなるから」
「いや、俺は夜型だし……」
「そんなことは関係なし!」
そう言って半ば強引にパンを俺の手に置くと、そのまま走り去っていく。
「じゃ、十五分後招集だから、遅れないようにね!」
ぽかんとする俺を他所に、そのままアンナは手を振っていった。
残されたのは俺と、アンナの手のぬくもりがまだ残るパンのみ。
「……仕方ねえな」
アンナの言うことは聞いておいたほうがいい。あの性格だから、きっと――というか、過去の経験から――何度も食べたかどうか確認してくるはずだ。そんなことしなくてもいいのに、と俺はぶっきらぼうに突き返すがその度にアンナは突き返してくる。
簡単に言ってしまえば、言葉のキャッチボールということだ。
とはいっても、ほぼあいつに手綱を握られているのだけれど。
時計の針を見ると、八時十分前。そろそろ急いで準備をせねばならないだろう。そう思った俺は、袋の封を開けるのだった。