第2節 屋敷の主人
買物市場を横切ろうと歩く。晴れた空に小鳥の声が響いてる、こんな光景はいつ以来だろう。
この街に来てから鳥の声も聞こえなかったような気がする。
そう思いながら光が差す道の先、買物市場のある大通りに近づいて行く。すると、人の喧騒が耳に入ってくる。
「もしかして、そんなこと…ないよね」
焦っていた。確かに歩き進む度に、人の気配が強くなっていく。数人?そんな程度ではない。
きっと、これは。そう、これは。
自然と早くなる足取り。
服のことなんかどこかへ置き去りにして、私はワクワクしていた。この人の数、楽しそうな声、徐々に大きくなっていく胸の高鳴り。
そうして私は薄暗い路地を抜け、光の元、大通りへと、
足をつけた。
「すごい、こんなの。初めてかもしれない…!」
右も、左も。見渡す限り人、人。人!!まるでお祭りのように通りにごった返す街の人々。
そして、食べ物の美味しそうな匂いが私の鼻をくすぐる。日の光を反射して、その美しさを主張するガラス細工の小物。明るく陽気な音楽とともに風に乗る歌声。可愛らしいお人形に、鮮やかな色をした駄菓子。
世界が変わった。
同じ街とは思えないほど、そこには光が満ちていた。
水みたいに流れる人々も、絨毯のように通りの奥まで伸び続けるお店の屋根も、本当に。ここがあのフォグスレイブだなんて、納得出来ない。
「(もしかして、私。夢、見てる?)」
試しに、恐る恐る頬をつねってみる。
「……いひゃい、ゅめじゃにゃい」
少なくとも、ここが現実であることは確かだ。
そして、しばらくボーッとしていた私は本来の目的を思い出す。
「(そうだ!服屋に行かなきゃ行けないんだった!)」
でも、服屋に行くには目の前の壁を超えないといけない。少し不安にはなったけれど、今行かないと仕事の時間になってしまう。
「(オリヴィエ・立花。私ならやれるハズよ!そう、あんなの走って行けばそのまま通り抜けることができるわ)」
天気が良いと気分も不思議と高揚する。そう、本当に。そう。
意を決して人混みに突撃した私を待っていたのは、予想より高い壁だった。
「あのー!すいませーん!通してくださーい!あのー!」
人の流れは早く何より、厚かった。
そんな中を走っていた私だったが、急に横から強く押された。
私の体はゆっくりと、しかし確実に、地面に落ちようとしていた。
この人混みの中だ。いろんな人に踏まれてしまうだろう。今日はこんなにいい天気なのに、私。ついてないなぁ。そう思ってしまいそうに。
「あれ?私、転びそうになってたハズじゃ」
なってない。なんで?
顔を上げると、そこにはトレンチコートを着て。帽子を被り、サングラスをかけ、私の手を白い手袋をはめた手で掴む、一人の……
「顔が…無い…の?」
見た目、というか姿形は人ではあるが。普通の人間にはあって当然のものがない。
顔が無かった。
でも、帽子は被ってるし、サングラスだってかけてる。
けれど、鼻が、耳が、口が、頬が、アゴが、首が、無い。
「あ、の。ありがとう、ござい…ます」
その透明な人にぎこちなくお礼を伝えると、どこからか声が聞こえてきた。
「大丈夫かい?怪我はなかったかな」
声は…聞こえるし、喋れるんだ。
とか、思った。
私が咄嗟のことに混乱していると、透明な人はこう言った。
「ふむ、ここじゃ落ち着いて話しも出来やしない。少し、歩けるかい?」
私はまだ混乱した頭でどうにか首を縦に振ることができた。
今度こそ、服のことなんかどっかに行って、目の前の不思議な彼に手を引かれ歩き出した。
彼と言うのは、目の前の透明人間。背丈や声から男の人かな、って。
しばらく彼に手を引かれ、気づけば喫茶店の前まで来ていた。彼はそのまま私を連れ、中へと入っていく。
「おや?ジラードじゃないか、久しぶりだねぇ」
店主さんだろうか。細いフレームの眼鏡に紺色のエプロンを着た、白髪混じりの初老の男性が声をかけてきた。
ジラードとは、この人のことを言っているのだろうか。チラっと隣にいる透明人間を見上げる。
「おひさしぶりです、ヘンリーさん。今日は久々の快晴祭ですから、僕も折角だし外に出ようかな、と思いましてね」
ヘンリーさんは私を見て少し驚いたように私の隣にいる彼へ声をかけた。
「もしかして、彼女さんかね?はて、ここではあまり見かけない顔だが」
話しが変な方向になっていくのと、置いてけぼりにされていることが気に入らなかった私は思わず声を上げた。
「あ、あの!私は、アンナさんのところで働かせてもらっているオリヴィエと言います!この人には、先ほど助けてもらっただけで!そういう関係じゃありませんから!」
つい、熱くなってしまった。
「そうか、アンナのとこで働いてる外から来た人って、君のことか。話だけは聞いているよ、一生懸命働くいい子だとね」
いい子、だなんて。改めて、人に言われるとなんだかむず痒い。
私はジラードと呼ばれた透明人間にテーブル席まで案内され、飲み物はどれにする?と聞かれ、とりあえず。
「ミルクで、お願いします」
こういうところでは何を頼めばいいのかいまいちピンとこない。来たことも今回が初めて。だから、喫茶店に何があるのかとか知らなかった。
注文を終え、飲み物が来るまでの時間。透明人間は突然、自分のことを話し始めた。
ただでさえ、変な見た目なのに。いきなり、自分語りってするもの?
―――ご主人様の名前はジラード・ユースティフ。
この街では有名な透明人間です。
職業はお役人さん。いっつも大量の書類を見ては計算機を叩き、数字を書いたり。
私にはサッパリですが、時々役所の方が書類を取りに来たり、ご相談をしにくること、お金にはあまり困っていないご様子。
街の北西にある屋敷、『霞屋敷』の主人でもあります。ご友人は少ないらしく、片手で数えるほどしかいないそうです。
趣味は読書と絵を描くこと。意外にも絵は上手。
そんな人が私の雇用主―――