84-3. 父親の自覚
* * * * * ハルト * * * * *
天歴2523年。夏。
婚約からおよそ1年を経て、俺はリクと結婚した。
王族から独立する上で新たな家名を父王から賜り、やっと名実共にリクを伴侶に迎え、フレイラのオルテナ帝国皇太子との婚約問題も無事解決。
リッジたちが抱えているアルトンの問題は残っているけれど、まだ自分がすべき役割が定まっていない現状ではしばらくの間手持ち無沙汰になる事はわかっていたので、その余暇をリクとゆっくり過ごそう。
……そう考えていた。
全く予想もしていなかった出来事は、エルーン聖国からアールグラントの王城に戻ったその日の内に起きた。
リクが妊娠している事が判明したのだ。
どうも医務室で治癒術師に告げられる前から確信を持っていたらしいリクは、俺の反応を楽しんでいるようだった。
対して俺は状況を上手く理解出来ず、間抜けな反応しか出来なかった。
確かに子供が欲しいとは思っていたしリクにもそう言ったけど…リクの言を借りるなら、リクは希少種で俺たちは異種族婚だ。当分子供は出来ないだろうと思っていたから、結婚早々こんな状況になるなんて全く想定していなかった。
子供が出来るまでの間ふたりで過ごす新婚生活を楽しむつもりでいた身としては、正に青天の霹靂だ。
でも。
そんな目論見は外れたものの、リクの妊娠が聞き違いでない事がわかるなり一気に嬉しさがこみ上げてきた。
いても立ってもいられずリクを抱きしめると、自然と溢れ出るように感謝の言葉が何度も何度も口を突いて出てきた。
しかし、やはり異種族婚。困難が立ちはだかった。
治癒術師エイクリーナの話を聞くうちに、万が一リクが魔力切れを起こすと、子供のみならず母体であるリクの命も危険な状態に陥る事がわかった。
エイクリーナが陛下に事情を説明すると、すぐさまエイクリーナ主導の下、リクの出産をサポートするチームが組まれる。
そしてリクの周囲には常時リク付きのメイドたちが囲い込むようにして、リクに付き従うようになった。
彼女たちはリクを守るという使命に燃えるあまり、俺すら近寄らせてくれそうにない気迫を放っている。
やっと魔王ゾイ=エンに関するあれこれが一段落したから、久々にリクと一緒にゆっくり過ごそうと思っていたのになぁ……。
それどころではなくなってしまって、子供が出来た事が嬉しい一方で、俺は肩を落とさざるを得なかった。
「すっかり蚊帳の外ですね、兄上」
面白がるような声の主は言わずもがな、異母弟であり現王太子のノイスだ。
「全くな」
俺はノイスに結婚式の後から敬語で対応していたけれど、ついに耐えられなくなったらしいノイスが陛下に「兄上の私に対する敬語を何とかして下さい!」と訴えたそうだ。
その結果、俺は陛下から呼び出された。
陛下は疲れた表情で半ば投げやりに、俺に対して王命を下した。内容は「ノイスへの態度を以前の態度に戻すように」といったものだった。
なので、今は敬語を使っていない。
次期国王とは言え、こんな事で現国王に王命まで使わせるとは……ノイスは一体どれだけ俺の敬語が嫌だったのだろうか。
「そんな傷心の兄上に朗報です。兄上の暫定的な任地が決まりましたよ」
思い出してどっと疲れを覚えた俺に反して、にこにこと楽し気に告げるノイス。
ノイスがこういう顔をしている時は大体、ノイスが想定している中で最も自分の希望に近い結果が出た時だ。そこからノイスが言わんとする事を予測する。
「王城で、ノイスの補佐か」
「あっ、わかっちゃいましたか」
「顔に出てるからな」
「私の表情から意図を読める人間なんて、父上と兄上くらいしかいませんよ」
自分の口で言いたかったのに先に言われてしまって不満なのだろう。珍しくノイスは口をへの字に曲げてつまらなそうな表情を浮かべた。
この弟をあの胡散臭い笑顔から違う表情に変えるのはとても難しい。
そのせいかこうして違う表情を引き出せると、ちょっとした達成感が得られる。
「まぁ、でもそういう事ですので、明日から宜しくお願いしますね。筆頭補佐官はクレイですよね?」
「クレイ以外に務まらないだろう」
「ですよね! では、クレイ経由で明日までに仕事を回しておきますね」
そう言い残して、ノイスは上機嫌で去って行った。
その背中を見送りながら思う。確かに俺が王太子補佐になるのはノイスの希望に沿っているんだろう。けれどその裏で、確実に父上の意図も絡んでいる。
婚約の時すら余計な気を回してきていた父の事だ。恐らく今回も、リクが無事子供を産むまで王城に留め置こうと考えているだろう。
そしてリクを留め置くために、俺に王城での仕事を回すつもりでいたはずだ。ノイスの希望は、父上にとって渡りに船だったに違いない。
まぁ、ノイスもそれくらいの事はわかってて、敢えて進言したんだろうけど……。
わざわざそんな風に手を回さなくても逃げやしないのに。
本当、面倒くさい家族だな、と、心底思う。
その後、フォルニード村への赴任が決まったフレイラがアールレインを尋ねてきた。ゆっくりして行くのかと思いきや、翌朝にはフォルニード村に向けて出立してしまった。
あまりに急な出立だったので、仕事の合間を縫って出迎えた時に交わしたほんの一言二言しか話せていない。
全く、今世でも相変わらず落ち着きがないんだな、五十嵐は……。
オルテナ帝国に関してはリクが持ち込んだ似顔絵と、オルテナ帝国側から送られてきた脅しとも取れる書状に悩まされたけれど、どちらも現状では対処のしようがないという事で一旦保留される事となった。
その一方で、アルトンを戦禍から守る件に関しては無事解決した。
父王が断られる事も覚悟の上で、モルト砦のシグリルとレスティにアルトンの守護をして貰いたいと依頼した結果、シグリルたちが快く任務を引き受けてくれたのだ。
リクは申し訳無さそうな顔をしていたけど、当のシグリルとレスティは使命感に燃えているように見えた。
一体何が彼女たちをそこまでやる気にさせているのかはわからないけれど、嫌々引き受けた様子ではなかったのでほっとする。
正直シグリルたちには全くメリットのない話だから、ほぼ確実に断られると思っていたのだ。
もし断られたらタツキがアルトンに向かう手筈になっていたが、その場合、ほぼ確実にリクが不安がるだろうと予想していた。
何故ならば先日、リクとタツキが守護精霊の契約を解除したからだ。
守護精霊との契約を解除する事がどれほどの事なのかは俺にはわからない。
けれど年相応に成長した姿になったタツキは、リクがいない時を見計らってわざわざリクの事を頼みにやってきた。
「あのね、ハルト。僕はもうリクの守護精霊ではなくなったから、リクの危機を察知出来なくなっちゃったんだ。リクの傍にいられる時間も今までとは比べものにならないくらい少なくなると思う。その分、リクは不安に思うかも知れない。だからこれからは今まで以上に、ハルトが僕の分までリクの傍にいて、リクを守ってあげて。頼むよ」
真剣な表情で頼み込んでくるタツキ。
俺はその真剣さを正面から受け止めて、「元よりそのつもりだ」と答え、請け負った。
実際、精霊石を失ってからリクは、時々タツキの名を呼んではもう呼びかけるだけで応えてくれる存在がいない事を思い出して、どことなく寂しそうにしていた。
それに、こんな事も言っていた。
「これまで危ない時は必ずタツキが助けにきてくれたけど、もう頼れないんだから私もいい加減しっかりしないとね」
この言葉がリクの不安を顕著に表しているように思える。
故に、俺としてもまだタツキには遠くに行って欲しくないという思いがあった。
リクは何でも無いように振る舞ってはいるけれど、寂しくない訳がない。
こうして、フレイラに続いてシグリル、レスティ、リッジたちまでもが遠い地へと旅立った。タツキも今はアールレインを離れている。
だからこそ俺は少しでもリクと共に過ごす時間を増やそうと……思っているのに、あの食えない弟は容赦なく仕事を次々と振ってきた。
おかげでリクの出産サポートチームが定期的に開催している、見守りと記録を行う会議にもまるで参加出来ない。
もちろんノイス自身も俺と同じかそれ以上の仕事に追われているのはわかる。わかるが、これはちょっと話し合う余地があるんじゃないだろうか。
「ノイス! ちょっと話がある!」
たまらず王太子の執務室を訪問すると、書類の山に埋もれるようにして机に張り付いていたノイスが顔を上げた。
常にあるあの胡散臭い笑みに力なく、目の下にも隈がある。
「あぁ、兄上。どうかしましたか?」
声にも覇気がない。
「……いや、ケインもイリエフォード領主に決まって、間もなく年齢的にも成人になるだろう? 家名授与式典の準備は進めているのか? 俺の時はノイスと同日に結婚式をしたから他国の王族や要人がいたけど、あれは本来国内の王侯貴族のみでやる式典だから、今回はマリクにその手配を任せてみたらどうかと思って」
「あぁ、そうですね。マリクももう14ですか。来年はマリクも成人して家名授与になりますからね。その裏でどのような手続きが為されているのか、直接関わって学ばせるというのはいい案だと思います」
……言えない。仕事量を減らしてくれなんて、今のノイスにはとてもじゃないが言えない。
なので代替案を提示する。少しでも人手を増やす作戦だ。
疲れ切った様子のノイスもこの案には賛成してくれて、すぐに近侍の文官に声をかけると陛下に今の提案を伝えるように指示を出す。
王族を政務に駆り出す最終決定権は父上にあるので、この提案を採用して欲しいと願い出て許可を得なければならないのだ。
「兄上にも大事な時に負担をかけてしまって申し訳ないです。まさかこうも面倒ごとが重なってくるとは思いもよらず……」
面倒ごとの最たるものは、オルテナ帝国の存在そのものだ。
それに加えて国内のイリエフォード領主交替手続きも重なり、更に言えば通常の国内や外交に関する政務も当然のように存在する。
優雅なように聞こえる王族の生活も、政務に関わる者たちは皆同じようにやつれた顔をしていた。
もちろん、優秀な臣下たちも奮闘してくれているけれど……とにかくオルテナ帝国が厄介なのだ。
オルテナ帝国への対応や監視、水面下で進行しつつある状況分析に人員を多く割かねばならず、結果的に全体が大きな負担を強いられる事になっている。
もしやこれはオルテナ帝国がアールグラント上層部を過労死させて国を乗っ取る作戦なのでは……と言われたら、ちょっと信じてしまいそうな状況だ。
「いや、こればかりは仕方がない……」
「ですね……」
ふたりして深いため息をつくと、俺はそのままノイスの執務室から退室した。
まだまだ終わりが見えない。これはもう、サポートチーム会議への参加は諦めるしかないかな……。
そんなある日。
日々遅くまで執務室に籠って仕事をしているせいで寝顔くらいしか見れていないリクが、珍しく遅くまで起きて待ってくれていた。
「こんな遅くまで起きてて大丈夫なのか?」
「ハルトだって遅くまで働いてるじゃない。それに、ちょっと寝たからって魔力回復量に大差はないからね。それより、見て!」
そう言ってリクは椅子から立ち上がり、肩にかけていたショールを下ろしてお腹を突き出すようなポーズを取った。
思わずリクの腹部に視線を向けて、気付く。
「お腹が膨らんできた!」
そう、リクの腹部が明らかに膨らんでいた。その事を、リクが何故か自慢げに言ってくる。
俺は俺で驚きのあまり完全に固まっていた。
「こうなってくるといよいよ実感が湧くよね。本当はもうちょっと前から気付いてたんだけど、見てわかるくらいじゃなかったからさ、ハルトを吃驚させようと思って黙ってたんだぁ」
そう言いながら、柔らかい表情で愛おし気に膨らんできた自らのお腹を撫でるリク。あぁ、母親なんだなぁと、その顔を見て思った。
本当は俺ももっと自覚を持たなきゃいけなんだろうけど、恐らくリクほどには実感が持てていない。
俺はリクに歩み寄ると、「触ってもいいか?」と問いかける。リクはとびきりの笑顔で「いいよ!」と、腹部を撫でていた自らの手を退けた。
恐る恐るリクの腹部に触れる。以前に触れた時とは違って、内側から押し出されているからだろう。ちょっと固いように感じる。
「楽しみだね」
「そうだな。っていうかリク、本当に楽しそうだな」
リクは、タツキが傍にいなくて不安がっているかもなどと考える事が杞憂に思えるくらい、常ににこにこと微笑んでいる。
「そりゃあね。前世今世合わせて初体験の事だからね。こんな風になるんだなぁって、ちょっと不思議。だけど新鮮で楽しいかも。……なんて言えるのも、体調が悪くならないからなんだろうけど。イサラのあのつわりの酷さを見てるからさぁ、私本当に妖鬼で良かったなって思ったよ」
リクの言葉を聞いて、初めて気付く。
そう言えばリクは全然つわりのような症状を訴えていない。魔力こそ削られてはいるけれど、それ以外の不調は全く見受けられない。
「調子は……」
「ふふっ」
つい癖のように問いかけようとすると、すかさず笑われてしまった。
リクの魔力が削られるようになってから、ちょっとこの問いかけをし過ぎている自覚はある。なのでそこに続く言葉はひっこめて、頬を掻いた。
でも心配なものは心配なんだからしょうがない。
「いつも心配してくれてありがとう。でも大丈夫だから、そんなに心配しないで? むしろ私はハルトの方が心配だよ。毎日休みもほとんど取れないで遅くまで仕事してて、体調崩したりしてない?」
「それは大丈夫だけど……いや、そりゃちょっとは疲れてるけど、俺よりもノイスの方が危ないかもな。いつ倒れてもおかしくないぞ、あれは」
「そっか……うん、わかった。任せといて」
何を?と問うより先に、
「そう言えばお父さんが明日、再婚相手のミアさんと会わせてくれるって。ハルトもちょっとだけ時間空けといてね」
リクはそう言ってさっさとベッドに潜り込んだ。それからちらっとこちらに視線を向けてくると、「今日は一緒に寝る?」と問いかけてくる。可愛い。
いつもは寝顔を見たら自室の方で眠っていたけれど、あんな風に言われたらリクの言葉に甘えたくなってしまう。けれど自分がこういう気分になる時は、疲れを溜め込み過ぎている時だという事も自覚している。
今は自分よりもリク優先だ。身重のリクが楽に眠れる方がいいだろうと思い、「いや、自分の部屋で」と言いかけた。
しかし。
「たまには一緒に寝ようよ」
そう言われてしまうと、心身共に参っている身としては断れなくなる。誘われるがままにベッドに向かい、リクの隣に潜り込む。
するとリクが嬉しそうに笑いながらくっついてきた。
「あー、やっぱりハルトがいるとあったかいね」
「俺の方が体温高いからな」
「そうそう。エイクリーナさんからね、体をあまり冷やさないようにって言われてるんだけど、そもそも私の体温が低いから難しい注文なんだよね。だから本当はね、ハルトが一緒に寝てくれた方が温かいから体にはいいんだよ。……多分」
「多分、なのか」
取って付けたように言うリクの言葉に、笑いがこみ上げてくる。
くっついているからリクの表情はわからないけれど、ぎゅっと服を掴まれた。
「ハルトが何を遠慮してるのかわからないけど、私は傍にいて貰った方が安心するよ。だから、明日も、明後日も……一緒に……」
「リク?」
ささやくような声音でそう言いかけたまま、リクはすぅすぅと寝息を立て始めた。どうやら眠ってしまったようだ。
その穏やかな寝息を聞いていると、こちらまで眠くなってくる。まるでリクの寝息に引き込まれるようにして、俺は襲ってきた睡魔に逆らわずに目を閉じ、眠りに落ちた。
イムの再婚相手に驚いたりしながらも、相変わらず仕事に追われる日々が続いた。
しかしある変化がきっかけで、仕事に追われると言っても以前のように休憩も取れないような状態ではなくなった。
イムの再婚相手と対面した後、リクが母上とイサラを経由して、何とイサラの夫…俺からしたら義理の兄であるルカルトスを雇う手筈を整えてくれた。
引き抜く際、ルカルトスは伯爵家から独立して独自の伝でとある公爵の補佐官をしていた為、その公爵家とのやりとりは母上が陛下に一任されて行った。
そして半月ほどのやりとりの末、無事ルカルトスを引き抜く事に成功。
リクが任せといて、と言っていたのはこの事だったようだ。
ルカルトスは噂通り優秀で、既に十分な補佐官を抱えている俺やノイスではなくマリクの補佐官に付けた所、マリクの政務をこなす速度が大幅に上がった。
どうやらルカルトスは数日でマリクの性格や癖を把握し、より効率的に仕事をこなす為の段取りを独自に組み上げたらしい。それがうまく嵌った。
その結果、マリクの政務処理スピードが目を瞠るほど上がったようだ。
マリクもルカルトスが組む段取りは仕事がやりやすいと言っていた。これは掘り出し物どころではない。道理で件の公爵が手放したがらなかった訳だ。
おかげでノイスや俺の負担がいくらか減り、まともな休憩時間を取る事が出来るようになった。
リクとルカルトス、そして頑張ってくれているマリクに感謝だ。
そうこうしている内に、再びリクからサプライズ発表が為された。
「胎動が始まったよ!」
あれから毎日どんなに遅くなろうともリクと共に眠るようにしている俺は、この日もいつも通り仕事を終えて真っ直ぐリクの部屋に向かった。
そして部屋に入るなり言われたのが前述の言葉だ。
一瞬、頭がその意味を理解できずに固まる。しかし間もなく脳が再起動して、一拍遅れて理解した。
「た、胎動? お腹の子が動いてるって事か?」
「そうなの! 触ってみる? 触ってみる??」
リクはそれはそれは嬉しそうな、楽しそうな表情で近寄ってくると、返事を待たずに俺の手を取って自らの腹に宛てがった。
「ちょっと待ってね……」
言いながらリクは目を閉じて、何かに意識を集中しているような様子を見せる。
すると。
ぽんっと、リクの膨らんだ腹の裏側を叩いたような振動が手を伝って感じられた。
「わかった?」
「わかった。もう動いてるんだな……」
そう思ったら急激にそこには確かにもうひとつの命が存在していて、それが自分の子供なのだと言う実感が強くなった。
「今何かしたのか?」
「少しだけ魔力操作したの。この子に引っ張られてる魔力をね、ちょっとだけ多めに送るとよく蹴ってくるから」
「多すぎるって?」
「ふふふっ。そうだね、余分に魔力を送るから怒ってるのかも」
そうか……そうか。もうこの子には無意識かも知れないけれど、意志が芽生えてるんだな……。
じわじわと湧いてくる実感に、思わずリクの腹に触れている自らの手を凝視してしまう。
この手の先に、いるんだ。
「実感湧いてきた?」
不意に問いかけられて、はっとして視線を上げる。
その先では柔らかい微笑みを浮かべたリクが、目を細めながら俺を見ていた。
「……あぁ。もう、どうしようもないくらいに、実感が湧いてきてる。情けないけど実感が湧いたからと言って何も出来ないし、どうしたらいいのかもわからないけどな」
「今はそれでもいいよ。この子が生まれてきた時に、ちゃんとお父さんになってくれていれば」
お父さんに。父親に。
実感こそ湧いてきてはいるものの、その呼称は何だかまだしっくりこない。
けれどリクは、もう十分に母親の顔になっていた。
俺はそんなリクを、少し不思議な気分で眺めていた……。
そうして順調にリクのお腹は膨らんで、お腹の中の子も元気に動いているのを定期的に確認しているうちに、季節は冬になり、春になり、もうすぐ春が終わろうかという頃へと移ろっていき……。
リクは無事、男の子を出産した。
出産に立ち会った際、結局俺はどうしたらいいのかわからず動揺するばかりで、リクに笑われてしまった。
その後は玉のような汗を浮かべながら、これまでどんな激戦をくぐり抜けてこようが大きな怪我をする事もなく、故に痛みに顔を歪める事もなかったリクが、痛みのあまり顔を歪め、悲鳴のような声を上げていたのが印象的だった。
その事から俺は、出産には想像を絶する痛みを伴うのだという事だけ、辛うじて理解した。
生まれた子供には、セタと名前を付けた。リクの前世の苗字、瀬田から貰った名前だ。
勿論イントネーションは違う。瀬田は語尾上がりだが、セタは語尾下がりだ。
セタは現在、リクそっくりの白銀色の髪に陽光を反射させながら上機嫌で手足を動かしている。
その動きから目が離せない。その顔を見ているだけでも幸福感で満たされる。
気付けば俺は、すっかりセタから離れ難くなってしまっていた。
「あぁ、執務室に行きたくない。ここで仕事しちゃ駄目かな……」
「あのね……まぁ、それだけ可愛がってくれてたら、私も嬉しいけどさ」
セタの手のひらを人差し指で突くと、きゅっとその小さな手が俺の指を掴んだ。
あぁ、可愛い。離れ難い……。
「ハルト様、そろそろ執務室に向かいませんと……」
呆れた様子でクレイが声をかけてくる。最近毎朝この調子だから、きっとクレイもうんざりしている事だろう。
俺は仕方なく立ち上がり、そっとセタの手から自分の指を抜き取る。まだよくわかっていないのか、セタは泣くでもなければ笑うでもなく……ちょっと切ない。
「ハルト様」
再度クレイから呼びかけられて、ふぅ、と小さく息をついた。
「それじゃあ、行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい」
「昼には一度戻るから」
「はいはい」
「出来るだけ早めに仕事も終わらせるから」
「わかったから、ほら、クレイさんをあまり困らせないの」
リクからも呆れた顔でそう言われて、俺は渋々「……行ってきます」と告げて執務室に向かった。