84-2-1. シグリルとレスティ(前編)
* * * * * シグリル * * * * *
私が彼と出会ったのは、天歴2422年。冬が始まって間もない日の事だった。
その日は数日前にあった魔物の群れによる襲撃を退けた後、魔力を使い果たした魔術師団全体に与えられた休息日が明けて、最初の訓練日だった。
私は普段の訓練通り、的に向かって得意の火弾を打ち込んで命中精度を上げる訓練をしていた。
放った火弾はかなり高い確率で的の中心を射る。しかし外れる事もある。なので集中して成功した時の感覚とイメージを徹底的に脳裏に焼き込んで行く。
成功のイメージが強くなれば命中精度も自然と高まっていく事は、これまでの経験から学んだ事だ。
しかし集中力はそう長くは続かない。
集中力が切れ始めた頃合いを見計らってそろそろ休憩を入れようかと思ったタイミングで、背後から声をかけられた。
「こんにちは」
声を聞いた瞬間、誰から声をかけられたのか確信すると同時に背筋がぴんと伸びた。
その声は今やモルト砦の全魔術師団員のみならず、兵士たちからも尊崇の眼差しを一身に浴びている御方のものであり、私もその方を尊敬しているひとりだ。
聞き間違えるはずがない。
魔物の群れが襲来した際、その愛らしい外見に反して目の前の脅威に怯える事無く堂々と立ち向かう姿勢を見せ、凛とした声で団員たちを鼓舞し、勝利へと導いた女性。
急いで振り返ると予想通り、そこには我がアールグラント王国の元王太子であり魔王を打倒した現勇者であるハルト殿下の婚約者、リク様が立っていた。
眩しい白銀色の長い髪を緩く束ね、不思議な虹彩を持った美しい紫色の瞳が真っ直ぐ私を見ていた。
私が振り返るのを待ってからちらっとリク様が視線で振り返った先には、目をまん丸にした美丈夫が立っている。
薄水色の髪と、瞳孔が縦長になっている金色の瞳を持つ、一見すると青年にしかみえないその人物。
間違いない、魔物の群れが襲来した時に途中からこちらの味方になってくれた、水竜様だ。
「あ、こ、こんにちは、リク様、水竜様」
緊張しすぎて吃ってしまった。
は、恥ずかしい……!
しかしリク様は気にした風もなく──と思ったら、穴が空きそうなほどじっと私を見ている水竜様の脇腹に一撃を見舞った。途端、水竜様は蹲って苦悶の唸り声をあげ始める。
え、あれ、大丈夫なのかな。というか人の姿をしていても水竜様は竜族だから……え? リク様、一体どれだけ強く叩いたの?
啞然とする私。
一方、リク様は何事もなかったかのように、ちょっと申し訳無さそうな表情を浮かべる。
「ごめんなさい、私、あなたのお名前を知らなくて……お伺いしても良いですか?」
そう問いかけられて、私は一瞬迷った。
水竜様を心配すべきか、リク様の問いに答えるべきか。
えぇっと……とりあえず今は、リク様の問いに答えるべきだよね?
「は、はいっ! 私は魔術師団、攻撃魔術兵のシグリルと申します」
水竜様の事は一旦頭の片隅に追いやって居住まいを正して名乗ると、リク様はにっこりと柔らかい微笑みを向けて来た。
「シグリル。可愛らしいお名前ですね」
その言葉を聞いた瞬間、一気に顔が熱くなった。辛うじて「ありがとうございます」とお礼を口にする。
さすが“騎士様”。その異名はただの飾りではないらしい。リク様はこんなに可愛らしいのに、何故か名前を褒められた瞬間、格好いいと思ってしまった。
褒め方も自然で、嫌味を覚えない。思わず“騎士様!”と言いそうになった。
「シグリル。あなたにお願いと言うか、聞きたい事があるのですが」
ひとり悶々としていると、再度リク様から言葉を投げかけられた。
私は慌てて思考を現実に引き戻し、真っ直ぐリク様を見返した。
「何でしょうか?」
「実は今、この水竜……レスティの契約主を探しているのです。彼はこの砦とこの国を守護してくれると約束してくれたのですが、守護して貰う為に召喚竜として契約を交わす事になりまして。召喚竜の契約にはどうしても契約主となる人間が必要なのです。そこで、シグリルに契約主になって貰いたいと思って。私の見立てだとシグリルなら十分素質があるのですが」
そう前置きして、リク様は私に竜と契約する際の知識を幾つか教えてくれた。
契約すると水竜様──レスティ様を召喚したまま維持する必要がある為、召喚を維持する為に常時魔力を消耗してしまう事。その結果、私がこれまでのように魔術が扱えなくなる可能性がある事。
それを踏まえた上で、私さえよければ是非レスティ様と契約を結んで欲しいと言われた。
私は戸惑った。
竜との召喚の契約なんて古い書物に書かれているような伝説上の物であって、現実にある物だとは思っていなかった。それ程までに、竜族は他種族との交流を一切持っていないのだ。
「どうでしょう?」
「ど、どうでしょう、と言われましても……私に、本当にそんな事が出来るのでしょうか?」
何とかそう問いかけると、リク様は小さく首を傾げて隣にいるレスティ様に視線を向けた。
そして私の言葉を繰り返すように「出来るのでしょうか?」と、レスティ様に問いかける。
するとずっと蹲って唸っていたレスティ様は脇腹を押さえながらゆっくりと立ち上がり、改めてその金色の目をこちらに向けて来た。
「その娘なら召喚魔術への適性も高いし、魔力量も十分だ。合格点だな」
「……と言う事なのですが」
レスティ様の言葉を受けて、リク様は再び私に視線を移してきた。
確かに、私は生まれつき保有魔力量が多かった。
両親は平凡な人たちだけど、私の先祖を辿るとひとりだけ割と強力な魔力を持つ魔術師が存在する。私はその先祖返りなのだろうと言われていた。けれどそれが、竜と契約するに値するほどのものだとは思っていなかった。
なのでその事に心底驚いている。驚いて……ふと、ある事に気がついた。
リク様はこう言った。
レスティ様はこの砦とこの国を守護してくれると約束してくれた、と。
そのために、召喚竜として契約を交わす事になった、と。
思い出すのは、先日の魔物の群れ。
リク様が魔力操作で魔物の群れの中に投げ入れた光の筋が、夜闇の中で蠢く魔物たちを浮かび上がらせる。地平を覆い尽くさんばかりのその数に私はただただ恐怖し、足が竦んだ。
リク様の鼓舞と、恐怖など感じさせないその立ち姿がなければ、声が震えて詠唱もままならなかっただろう。
万が一、再びあのような恐ろしい事が起ころうとも、レスティ様がいればこの砦は……この国は、守られる。
そう思い至った瞬間、私は驚きと戸惑いから抜け出して心を決めた。
「──わかりました、私でよろしければ、水竜様と契約させて下さい。それでこの砦も、この国も守って頂けるんですよね?」
私は念を押すように、リク様とレスティ様に順に視線を向けた。するとレスティ様が不敵な笑みを浮かべて「任せておけ」と、どんと自らの胸を叩く。
あまりにも人間臭いその動作に私は脱力してしまい、知らず知らずのうちに口許に笑みが浮かぶ。
この水竜様なら信頼できる。そう確信した瞬間でもあった。
私はレスティ様に手を差し伸べた。
竜との契約方法は知らないけれど、精霊や魔獣との契約方法と同じなら握手と共に魔力情報を交換し、そのまま互いの魔力を強固に結べば契約が成立するはずだ。
「なら、大変光栄な事です。宜しくお願いします、水竜様」
「こちらこそ、宜しく頼む。シグリル」
どうやら私の予測は合っていたらしい。
レスティ様は私の手を取ると、掌を伝って自らの魔力を私に流し込んで来た。
私も自らの掌に魔力を集め、手を伝って魔力を相手に送り出すイメージを頭に思い浮かべる。私の魔力は無事レスティ様へと流れ込んでいった。
すると一瞬、繋いだ手から青い光が舞う。
同時に、急激にレスティ様が身近な存在に感じられるようになった。
あぁ、契約するのってこういう感覚なんだなぁ……と、温かい気持ちに満たされながら思う。
今はちょっと、この手を離したくないような……。
「ではリクよ。我はシグリルに召喚魔術や竜族に関して色々と話があるのでな。ここで失礼する」
と、あっさり私から手を離したレスティ様がリク様に向き直ってそう告げると、リク様は満足そうに頷いた。
「うん。じゃあ、不在の間、この国を宜しくね」
「了解した」
そう言って、レスティ様は片手を上げて何やらじっとリク様を見つめた。
一体何を……と思う私とは裏腹にその意味を理解したらしいリク様は苦笑する。そしてレスティ様の手に自らの手を打ち付けた。
健闘を称え合うようなその行為に満足そうに頷くと、レスティ様は私の背中をぐいぐい押して、砦の中へと移動した。
「良いか、シグリルよ。契約をしたからには、我らは運命共同体だ。特に我側からしたらシグリルが主となるからな、我にとってシグリルが最優先の守護対象となる」
「そうなのですか」
リク様と別れた後、レスティ様は勝手に砦の応接室に陣取って早速召喚魔術の心構えのようなものを語り出した。
私は真剣に耳を傾けながら頷く。
「もう一度言う。耳の穴を搔っ穿じってよぉっく聞け。シグリルが我が主となったのだからな」
「はい、レスティ様」
念を押すように言われてそう返すと、ガタンッと音を立ててレスティ様は椅子から立ち上がり、つかつかと私の横まで歩いてきた。
そして──
「っきゃーーー! 痛い痛い痛い!!」
私は悲鳴を上げた。
レスティ様が握り込んだ自らの両手を、私の左右のこめかみにぐりぐりとねじ込むように押し当てて来たのだ。
痛い。地味に痛いっ!
「シグリルは耳が悪いのか頭が悪いのか、我の言葉を理解していないようだからもう一度言うぞ! シ・グ・リ・ル・が・我・が・あ・る・じ、なのだからな! その敬語と、様を付けて呼ぶのは止めよ!」
「は、は、は、はーいっ! わかりましたわかりました! あっ、わかったから、やめてーーー!!」
涙目になって訴えると、ようやくレスティ様……レスティは私のこめかみから拳を離してくれた。
ほっ……。
「わかれば宜しい」
「ふぁい……」
まだズキズキする。
竜の握力やら腕力やらを思えば相当手加減はされてたんだろうけど、本当に痛かった。
私は両手でこめかみをさすりながら、向かい側の席に戻ったレスティに向き直る。
「まぁ、召喚魔術と言っても契約さえ結んでしまえば喚ぶか引っ込めるか維持するか程度の事しかできぬ。リクから話があったように我側としてはシグリルには維持を望むが、もし魔力的に維持が難しくなったら我に一言“引っ込め”と言えば良い。さすれば我が竜石に引っ込むだけだ」
竜石? と首を傾げるとレスティはテーブル越しに身を乗り出してきて、私の胸元を指先で一度突いた。
あまりのことに変な声を上げそうになったけれど、どうにも触れられた感覚に違和感を覚えて踏みとどまる。
「そこに契約と同時に我の竜石が現れているはずだ。リクの額を見たか? あの黒い石は精霊──守護精霊であるタツキとの契約を示す精霊石だ。精霊石は脳に近い額に現れるが、竜石は心臓に近い胸元に現れる。精霊との契約は意志の繋がりだが、竜との契約は命の繋がりだからな。ちなみに魔獣との契約は、契約を破った場合に差し出す部位に魔獣石が現れる仕組みだ」
そうなんだ……。
感心しながら、私はレスティに突かれた箇所に触れてみる。服の上からでもわかる、固い感触。
はしたないとわかっていても気になってしまい、首元からそっと覗いてみると、胸元には透明度の高い水色の丸い石が嵌め込まれていた。
一体どういう仕組みになっているんだろう?
石の奥が赤黒い……なんて事は無く、ただただ澄んだ水色の石がそこにある。
不思議。
思わず竜石に見蕩れていると、向かい側から咳払いが聞こえた。
慌てて視線を向かい側のレスティに戻しながら、服を整え直す。
「とりあえず、召喚魔術については以上だ。続いて竜族についてだが……。まぁ、この辺は人族も良く知っているだろう。竜族は排他的種族で、異種族どころか同種でもつるむ事は無い個人主義の種族だ」
そう語るレスティはどことなく寂しそうな表情になる。
私はそこに違和感を覚えた。
確かに竜族は排他的で個人主義の種族だと教えられているし、竜を群れで見たと言う話を全く耳にしない事から、実際そういう種族なのだろうとは思う。
けれど、目の前にいるこの水竜は、どうしてもそんな風には見えなかった。
「レスティは、違うと思うけど……」
思った事が無意識中に零れていた。
私の言葉にレスティは一瞬驚いたような顔になり、それからちょっと嬉しそうな微笑みを浮かべた。
「そうか。では優しい我が主シグリルに信頼の証として、竜族にとっての宝物が何なのかを教えてやろう」
そう言ってレスティは目を細め、愛しいものを呼ぶような優しい声音でこう言った。
「我ら竜族にとっての宝は、棲み処──家だ」
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私がレスティと契約を結んで、半年が過ぎた頃。
魔族領に行っていたリク様たちが帰国した。
しかし陛下からの至上命令で、大急ぎでこの砦を通過して貰わねばならず、色々とお話をしたかったけれど泣く泣く見送った。
何故リク様たちを急かさなければならなかったのか、私やモルト砦の人々が知るのはその翌日の事だった。
王都の念話術師経由で理由を聞いたモルト砦では、ざわめきが起こっていた。
なんと国王様はハルト殿下やリク様に内緒で、ノイス王太子殿下と一緒におふたりの結婚式を行うべく、水面下で準備を進めているらしい。
「え……本人たちに内緒で?」
「それって有りなのか……?」
という疑問の声は方々から上がった。
けれど結局ハルト殿下とリク様には直前にバレてしまったらしく、それでも陛下の意向に沿っておふたりは王太子殿下と共に結婚式を挙げた。
その日はモルト砦でも盛大に宴が催された。
何せハルト殿下とリク様は縁遠い王族ではなく、実際この砦に来て、危機を救ってくれた英雄でもある。
ただの「おめでたい」だけの宴と違い、まるで身内の結婚式のように全力で祝った。
私も、国民からの支持も厚く人望も実績もあるハルト殿下と、柔らかい物腰ながらも芯が強くて勇敢さを兼ね備えているリク様はとてもお似合いだと思うし、そんなふたりがただのお見合いによる婚約ではなく、想い合って結んだ婚約から結婚に辿り着いたのだと思うと、ときめきで一杯になった。まるでお伽噺のようだ。
魔王を打倒するだけでなく、イリエフォードの領主としても立派にそのお役目を果たされている勇者様。対して、冒険者として幼いうちから名を馳せ、妹君を守り育てながらも妖鬼という過酷な運命を切り開き、生き抜いて来た魔王種の少女。
本来なら相反する種族であるそのふたりが過酷な運命の中で出会い、惹かれ合って、結ばれる。
あぁ、素敵。
そんな話をレスティにしたら、笑われてしまった。
「何でそこで笑うかな……」
「いや……あのふたりが可哀想だと思ったものでな」
「可哀想なのに、笑うの?」
「可哀想だが、そういう捉え方もあるのかと思ったら何だか可笑しくなってしまってな」
私が首を傾げると、レスティは困ったように微笑んで言葉を選びながら話し始める。
「誰もがそうであるように、あの者たちも生きるのに必死なのだよ。恐らくハルトは信念のためにそうしているのだろうが、リクは確実に、生きる為にして来た事がそのように讃えられて困惑している事だろう」
「でも、実際リク様は苦労されてきたんだって皆知ってるよ?」
10歳にも満たない少女が両親からはぐれ、妹を守り育てながら冒険者として生計を立て、幼いながらに周囲に認められるほどの実力を発揮してきた事は有名な話だ。
私にはとても出来そうにもない事をやってのけている。リク様が魔王種である事を加味したとしても、素直に凄いと思うんだけど……。
「シグリルよ。よく覚えておくがいい。リクはちょっと変わり種だ。あそこまで人族に馴染める魔族もそうはいまい。タツキの存在も大きいかも知れんな。守護精霊がいるだけで、生存率はぐっと上がる。ただ、言ってしまえばそれだけなのだよ。人族に馴染む適性があり、妹を守り育てる才能を持ち、生計を立てて生き延びるだけの能力を持ち、たまたま守護精霊にも守られていた。リクはそれらをうまく発揮して、本能に従って生き延びて来たまでの事。その事を誉め称えて、あまりリクを困らせてやるな」
レスティの言葉に、私は口を噤んだ。
レスティの話の上でも、リク様は十分凄い事を成している。けれどもし自分がリク様の立場だったら……そんな風に言われても困るだろう。
ただリク様は必死に生きようとして来ただけで、褒められたくてやった事ではないのだから。
「まぁ、だが。あのふたりは特別だろうな。そのように持て囃される身分や立場を持っているのだから、仕方がないのかも知れぬ」
その言葉に、はっとした。
身分。立場。そんなもののために、過剰な期待や夢を背負わされてしまうなんて。
いや、私も背負わせてしまっていたのだ。
その事に──レスティが言わんとしている事が何なのかに、私はようやく気がついた。
「……ありがとう、レスティ。私があのおふたりを尊敬する気持ちは変わらないけれど、ちょっと考えを改める」
「そうか。シグリルは素直でいい子だな」
よしよし、と、まるで子供にするみたいにレスティが頭を撫でてきた。
ちらりと見上げれば、優しく細められた金色の双眸と目が合う。
私にはそれが保護者の視線のように見えた。
竜はこの世界では確実に強者だ。
だから人族に友好的な竜族であるレスティは、弱い人族に対して保護対象のように接してしまうのかも知れない。
けれど、私はそれが不満だった。
そんな風に見て欲しい訳じゃないのに。
そうは思っても覆しようがない状況へのもどかしさと自分の無力さに、私はちょっと泣きそうになってしまった。