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魔王候補になりました。  作者: みぬま
第3章 魔王討伐
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57. 悪夢から醒めて

 水の中に落ちた。

 暗く深い水の中に。


 何かに引っ張られるような早さで深く深く沈んでいくのに、まるで底が見えない。

 果たして底なんてものはあるのだろうかと考えて、ぞっとした。


 見上げればキラキラと光る水面が遠くに見えて、これ以上引きずりこまれる前に戻らなければと思った。

 けれど、どんなに手足を動かそうとも全く意味を成さず。

 無情にもただただ沈んでいく一方だった。



 やがて一筋の希望のように見えていた水面の光が、紅い光に変わった。

 ぎょろりとその光が動き、こちらを見る。


 光だと思っていたものは、目玉だった。

 紅い目玉がこちらを見ている。

 近付くでもなく、遠ざかるでもなく、ただ一定の距離からこちらを見てくる。


 いつの間にか、ただの目玉だと思っていたそれが人の形になっていた。

 白い肌、白い髪、赤い瞳をした、黒い神官服を身に纏った青年の姿に。


 青年は相変わらずじっとこちらを見ていた。


 怖い。

 逃げなきゃ。


 そう思うのに、もがいてももがいても沈み込んでいくばかり。

 私と同じく青年も沈んでいっているはずなのに、彼は焦っていなかった。

 ただ無表情に、こちらをじっと見ていた。



 そんな状態のまま、どれくらいの時間を過ごしただろう。

 私は全てを諦めた。


 もがいても戻れない。

 逃げたくても逃げられない。

 もう、疲れた……。


 今の私を支配しているのは、虚無感だけだった。

 何もかもが意味を成さず、何もかもがどうでもいい。

 もう何もしたくない。

 このまま消えてしまいたい……。


 そう思った時。


 目の前の青年が手を差し伸べてきた。

 しかし私の心は全く動かなかった。

 今さら助けようとされても、もう遅い。

 私はもうどうしようもなく深く沈み込んでしまって、元の場所には戻れないのだから。


「元の場所に戻りたいのか? ならば、戻してやろう」


 不意に声がして視界がぶれる。

 目の前では先ほどの青年ではなく、豪奢な服を着た初老の男性がこちらに手を差し伸べていた。

 鋭いけれど、どこか優しい光を湛えている瞳が印象的だ。


「その代わり、私に力を貸して欲しい」


 ぼんやりと考えごとをしていると、いつの間にか私は男性の手を取っていた。

 視線の動きも行動も、自分の意志とは違う意志によって動かされているように感じる。


 ふと視線を、初老の男性に伸ばした自らの手に移す。

 すると、視界には白い肌と黒い服の袖が映った。

 妖鬼も色白な種族だし、自分も日頃から黒い服をよく着ているから何の違和感もない──はずが、なかった。


 その手はどう見ても男性の手だった。

 私の手よりも大きくて、細いけれど男性特有の骨ばった手だ。

 いや、さっきまでは幼児のような小さな手だったはず。


 そのことに気付くと先ほどまでの虚無感が消え去り、混乱が生じる。

 しかしそんな私の心情など無視して、周囲の様子はどんどん変わっていく。


「私は仇をとりたいのだ。妻を、娘を、息子を私から奪った輩に、一矢報いたい」


 初老の男性がそう言いながら振り返る。

 景色が一変して、初老の男性は殺風景とすら感じられる書斎に立っていた。

 その書斎の景色もまたすぐに切り替わる。

 今度はどんよりと重くのしかかる雲に覆われた、荒れた大地が広がる。


「奴は多く命を奪い、自らの望みを叶えた。我々から家族を、居場所を、幸福な日々を奪い、奴は自らの下らぬ望みを叶えたのだ……! 私は、奴が許せない!」


 ギリッと音を立てて歯を食いしばる初老の男性の姿が視界に入る。

 爪で皮膚を破ってしまったのだろう。力一杯握られた拳からは血が流れ落ちた。


 それをじっと見ている。

 隣にも、周囲にも、同じようにその様子を見ている気配が幾つもあった。

 その場にいる初老の男性以外の全員が、目の前で怒りと憎しみに身を投じているその男性を静かに見つめ、遣る瀬無さを抱え込んでいた。

 悲しくて、苦しくて、間違っていると叫びたいのに、それを口にすることができない。


 この人はかつて、家族もそれまでの生活も──全てを失った人だ。

 同時に、同じように全てを失い、この世界の理不尽さで命を落としかけ、何とか生き延びたものの途方に暮れていた自分たちを救ってくれた人でもある。

 優しい瞳で手を差し伸べ、我が子のように自分たちを育て、この世界での生き方を教えてくれた人なのだ。


 そんな人が、長い年月苦しみ続けたせいで壊れ始めている。


 それに気付きながらも、誰も何も言えなかった。

 だからせめて、この人の望みを叶えるべく任務を遂行する。

 そうすることで少しでもこの人の苦しみが和らげばいい。

 この人を守るためなら、何だってできる。


 そんな強い、確固たる思いが心を満たしていた。


 しかしこれは私の感情ではない。

 この記憶を私に見せている誰かの感情だろう。


 これは一体誰の記憶だろう?

 私はなぜ、こんな夢を見ているのだろう?


 そう、夢。

 これは夢だ。


 そう認識してしまえば、元の場所に戻れないわけではないこともわかる。

 夢の続きは気になるけれど、引きずられるようなこの夢の中にいては本当に戻れなくなりそうな気がした。


 だから私は自らに目を覚ませと念じた。

 何度も何度も、必死に念じる。


 このままここにいたらきっと私は戦えなくなる。

 恐らく母の仇であり、今後敵になるであろうこの人たちと、戦えなくなってしまう──!




 ◆ ◇ ◆




 唐突に視界が開けた……ように感じた。

 同時に意識が覚醒する。


「あ、あれ?」


 視界に映ったのはあの鬱々とした光景じゃない。

 オフホワイトの幌の天井が視界一杯に広がっていた。


「起きたか……よかった。気分は悪くないか?」


 さらりと髪を撫でられ、視界の中にハルトが顔を出した。優しい手つきで、慈しむように触れられてほっとする。

 よかった。あの悪夢のような過去視からも、正に悪夢としか言いようのない夢からも逃れられた。


 そのことを噛み締めるように実感しながら、緩慢な動作で視線を動かした。

 そして改めてハルトを見上げ──自分が一体何に頭を乗せているのかに遅れて気がついた。


 ひっ、膝枕かっ!?


 慌てて起き上がろうとするも、すぐに頭を押さえられてしまい起き上がること適わず。


「もう少し横になっていた方がいい。自分が倒れたこと、覚えてるか?」


 私が、倒れた……?

 首を傾げつつ、記憶を辿ってみる。


 ついさっきまでは恐い夢を見ていた。それは覚えてる。

 その前は確か……過去視で関所の過去を見てたんだっけ。その時──そう、あの時、恐ろしい思いをして、私は恐怖のあまり急いで過去視を切ったんだ。


 関所で起きた惨劇。あの過去を見たからあんな恐ろしい夢を見たんだろうな……。

 もうすでに悪夢の記憶は薄れつつあるけど、夢の中に関所を襲った青年が出てきたことはうっすらと覚えている。


 何だろう。自分の得意分野だからか、何となく自分が誰かから干渉を受けていたことがわかる。

 過去視の恐怖。あれにつけ込まれたのか──



 ……おっと、思考が逸れた。

 自分が倒れた時のことを覚えてるか、思い出してるところだったっけ。


 えーと。

 私は過去視を切って、現実に意識を持ち帰ることに成功して。

 ああ、そうだ。その時の疲労感と恐怖から逃げ切った安心感で意識を手放しちゃったんだっけ。


「倒れた……そっか。ご心配をおかけして申し訳ない限り」

「いや。俺の方こそ申し訳なかった。どうしてこう、俺は反省を活かせないのか……」


 ハルトは額を押さえ、歯を食いしばる。

 反省……?

 疑問に思ったのが顔に出たのか、ハルトはぽつりぽつりと話し始めた。


「ブライと戦ったあと、俺はリクの直感を信用するって決めたんだ。あの時もリクは紫蟻の巣の先に行くのを嫌がっていたのに、俺が楽観的に考えていたせいで危ない目に遭わせただろ? だからリクの意見を尊重しようって……なのに、関所の過去視はいらないんじゃないかっていうリクの言葉を聞いていながら、俺はまたリクに無理をさせてしまった。本当に、申し訳ない」


 沈痛な面持ちで謝罪してくるハルト。そんなことを気にしていたのか。

 私は内心ため息をついて、よいしょっと起き上がる。反省中のハルトは反応が鈍っているのか、今度は押し止めるようなことはしなかった。


「あのね、ハルト。確かにあの関所の惨状を見たら過去視の時にどれだけ凄惨な光景が見えるかなんてある程度予測できたし、それがわかっていたからこそ見なくていいんじゃないかって言ったのも事実だよ」


 ハルトと向き合うように座ると、私は真っ直ぐその琥珀色の目を見て言った。

 今の言葉であからさまにハルトが落ち込んだのがわかる。たまにしか見られない、弱ってるハルトだ。

 可愛いけど、今はちょっと可哀想でもある。

 なので私はすぐに言葉を続けた。


「でもね。ハルトの願いを聞いて過去視をしたのも私なんだからね。本当に嫌だったら絶対に見なかったし、そのための説得だってしたよ。でも私は拒否しなかった。だから、ハルトが気に病む必要はないんだよ」


 そう励ましてみるけれど、ハルトの表情は沈んだままだ。

 そんなに思い詰めているのか……。

 私は気休めになればとハルトの手を取り、両手で包み込んだ。


「……実際、過去視で見た光景はすごく悲惨な光景だったし、怖い思いもしたよ。でも、意識を現実に引き戻した時、ハルトの声が聞こえて安心したの。ハルトの傍にいると、何も怖いものなんてないような気持ちになる。すぐにハルトがきてくれたからもう大丈夫だって思えたんだよ」


 そう語りかけながらハルトの顔を覗き込む。

 するとハルトは弱ったような表情で、けれど口元に小さな笑みを浮かべながら私の手を握り返してきた。


「ごめん……ありがとう。俺もリクが傍にいると安心する。守ってるつもりでいて、いつも守られてる気がするよ。本当は俺がリクを守りたいのにな……というか」


 一度言葉を切り、ハルトはやや恨みがましい目つきで私を見た。


「そもそもリクは、俺に守られるつもりがないだろ」


 付け加えられた言葉に、思わず笑ってしまった。


「だって私もハルトを守りたいんだもの、ハルトに守ってもらってたら本末転倒でしょ」


 私はちゃんとハルトを守れてたんだ。

 それがわかって嬉しい。だから口許が際限なく綻んでしまう。


 するとハルトが握っていた私の手をそっと引いた。その表情はいつの間にか影のない全き笑顔に変わっている。

 ほっと安堵の息を吐くより早く、私はハルトの腕の中に収められていた。そのままぎゅうっと強く抱きしめられ、長い長いため息が耳の傍から聞こえてくる。


「ああ、今言いたいな。言っちゃうか」


 まるで考えてることが知らず口から漏れ出たような呟き。


 ハルトはそっと腕から力を抜くと少し体を離し、私の目を真っ直ぐ見据えてきた。

 こういう顔をするハルトを見るのは三回目だ。すごく真剣で、どこまでも真っ直ぐで。

 けれど今回は、心なしか懇願するような心情も混じっている……気がする。


 どうにも落ち着かない気分になってあれこれと思考を巡らせていると、ハルトが切り出した。


「リク、今回の件が片付いたら……」


 ハルトは一度言葉を切り、私を正面から見つめた。

 そして表情を緩め、優しい微笑みを浮かべ──


「今回の件が片付いてアールグラントに帰ったら、結婚しよう」


 はっきりと、そう告げてきた。


 私は顔どころか全身が真っ赤になった……ような気がした。

 ハルトの表情も婚約を申し込んできた時のような悲壮さはなく、柔らかな表情で──。


 その表情を見た瞬間、自分の手に負えないほどの愛おしさが込み上げてきた。

 もちろん答えなど決まりきっていて、けれどうまく言葉が出てこなくて、私はこくりと頷くことで応じた。途端にハルトの笑顔に喜びが色濃く表れる。


 私も嬉しい。

 こんな風に喜んでもらえて、私も嬉しくて、こんな幸せなことはないと思う。


 ただ、たとえこの喜びに水をさすことになろうとも、言わねばならないことがあった。


「あ、あのね。条件を出してもいい?」

「条件?」


 私が受諾したことで目が潰れそうなくらい眩しい笑顔を浮かべていたハルトに、受諾する条件について口にする。


「そう。その……ちょっと言いにくいんだけど……」


 言おうと決めたのに、つい口籠る。言いにくい。本当に言いにくい。

 でも結婚を考えてくれているのであれば──というか、本来ならもっと早くに気づいて話しておくべきことだったのだ。


 逡巡したのはわずかな時間。

 私はすぐに覚悟を決め、意を決して口を開いた。


「希少種が希少種たる理由は色々あるんだけど、そもそも出生率が低いせいでもあるの。それに、異種族同士だとさらに出生率が下がるから……その、たぶん子供を授かるのは難しいと思うんだ。そこは、覚悟しておいて欲しいというか……なんというか」


 これは言いにくいことではあるけれど、絶対に言っておかなければならないことでもあった。

 何せ私は種を繋ぐことを掟に定めるような種族。人族以上に命を繋ぐことへの執着があるのだから。


 だからこそ、こんなことを考えてしまうのだ。


「だからもしハルトがどうしても子供が欲しいと思ったら相談して? ほかに奥さんが欲しくなったとしても、私は否定しないし拒否もしない。ただ、黙ってるのだけはなしの方向で!」


 言い切ってからちらりとハルトを見ると、ぽかんとした顔をしていた。

 全く予想外の話だったのだろう。


 でもね、本当に大事なことだと思うんだよ。

 私が希少種でハルトとは異種族である時点で、子供に関しては絶望的だと思う。だからこそ、私と結婚したせいでハルトが子供が欲しいと思っても言い出せなかったりするのは嫌だと思った。

 幸いアールグラントは一夫多妻を認めてる国だし、私も国王夫妻の仲睦まじい様子を見ていたらそういうのもありかなと思えるようになったし──


「色々と言いたいことはあるけど」


 しばしの間を置いてそう呟くと、ハルトは表情を引き締め、強い眼差しをこちらに向けてきた。

 どこか鋭さを伴ったその視線に気圧される。

 脅そうという感じではなく、何かちょっと……怒ってる?


「俺は前世の記憶がある分、どうしても前世の倫理観に引っ張られているところがある。だから、ほかの女性を娶ろうとか全く考えてないから。そりゃ子供は欲しいけど俺はリクとの間に子供が欲しいのであって、ほかの誰かとの間に子供が欲しいわけじゃない。だからリクが出した条件を呑んでもいいけどそんな約束をする必要性を感じないし、リクにはもっと俺のことを信用して欲しい」


 全く揺らぐことのない眼差しにハルトの本気度がうかがえる。

 そしてハルトの言葉に嘘偽りがないことを理解すると同時に、そんな風に考えてくれているハルトに対して失礼なことを言ったのだと理解して、「ごめんなさい……」と謝罪した。

 するとハルトは脱力しつつ安堵の表情を浮かべた。


「わかってくれたならよかった。これで結婚については問題ないな?」

「う……は、はい」


 しっかり頷くと、ハルトはさらに肩の力を抜いて長いため息を吐いた。

 そして再び柔らかい微笑みを浮かべる。


「ありがとう。どうしても今、確実な約束が欲しかったんだ」


 どことなく切実さを感じさせる声音が耳朶を打つ。

 動揺しながら改めてハルトを見れば、温かな眼差しと目があった。


 惜しみなく注がれる愛情に、言外に告げられるハルトの想いに、自分の内から衝動がこみ上げる。

 そうして体の奥底から()り上がってきた言葉が、自然と零れ出た。


「私も、ハルトが好き。これからもずっとそばにいたい」


 特に意識せずに口にした言葉。

 けれど口から出してしまえば意識せずにはいられない。


 自分の言葉に動揺しはじめた私を尻目に、ハルトは幸せそうに微笑みながら私の頬に触れ──人の気配が近付いてくることに気付くと、「いいところだったのに……」と呟いた。

 余裕だな、ハルト! やっぱり私、免疫力低すぎないか!?


 動揺している私が滑稽に思えるほどの余裕を見せながら、ハルトはさらりと私の頬にキスを落とした。

 一瞬にして頭の中が真っ白になる。


 完全に硬直した私の視界の中でハルトは仕方なさそうに立ち上がり、幌の外に顔を出した。そして近づいてきた気配──ルースに声をかけて何やらやり取りをしている。

 しかしそんな会話が頭に入ってこないくらい、我に返った私は羞恥心に震えていた。

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