56-2. 枯れ果てた大地にて
「ただいま戻りました」
「……戻ったか、イザヨイ」
青年が帰還を告げると、低く響く声が返される。
声の主は鋭い眼光の初老の男。その男は派手ではないものの貴族然とした質のいい服を着用している。
「成果は?」
「関所まで。村は戦闘狂に邪魔されたけど、壊滅はしました。関所も壊滅させました。でもそこまででした」
「そうか……」
予想外の少ない成果ではあったが、初老の男は感情の揺れすら感じられない声音で応じた。
一方、青年──イザヨイも身じろぎひとつしない。
「はぁ〜あ、ただいま戻りましたぁ〜」
沈黙が下りるより先に、高い声が場に響いた。だるそうな動作で二人に歩み寄ってきたのは、若い女性だ。
女性は初老の男と一定の距離を保つイザヨイの隣で立ち止まる。
「成果は?」
男はイザヨイに問いかけた時と変わらぬ調子で、同じ問いを女性に投げた。
「また逃げられたぁ! そもそも竜を生け捕りにするなんて無理だし、仕留める前に逃げられちゃうから死体すら持ってこられないわよぉ!」
イザヨイとは対照的に騒がしく報告を行った女性に、初老の男は小さくため息をつく。
「そうか……。サギリ、今日はもういいから休め」
「はぁ〜い。お疲れさまぁ〜」
相変わらずだるそうな動作で、女性──サギリはその場を辞した。
その様子を無表情に眺めていたイザヨイは、
「イザヨイも今日はもう休め」
初老の男から声をかけられて視線を戻す。
そして静かに頷くと、無言のままその場を……立派な書斎をあとにした。
扉が閉まるまでイザヨイの後ろ姿を見送った初老の男は、細く長く息を吐く。
(なかなか思うように計画が進まない。このままでは目的を達するのに一体どれほどの時間を費やすことになるのか……)
そうは思うものの、その一方で。
(しかし、彼らはよくやってくれている。彼らが協力してくれなかったら、ここまでくることすら難しかったかもしれない)
そう考えて落胆しかけた気持ちを持ち直す。
「マスター、戻りました」
不意に、気配もなく扉の前に少年が現れた。
いつものことなので驚きはしなかったが、この少年は出会った頃から変わらず気配が読めない存在だ。
「シスイか。成果は?」
「いい素材を見つけました。魔王種です。二次覚醒しているので厄介ですが、膨大な魔力を有しています」
「ほう?」
初老の男は興味深そうに耳を傾ける。
しかし、続く言葉に肩を落とすこととなる。
「ただ、高位精霊が守護しています。ただの高位精霊ではないようです。黒髪に黒目という特徴からして、例の『白の遣い』の可能性が高いと思われます。それと、覚醒済み神位種も傍にいました。ゆえに簡単ではありませんが、イザヨイやサギリ、ナギの協力があれば手に入る可能性があります」
少年・シスイの言葉に男は唸る。
シスイの見立てを疑ってはいない。きっとその魔王種は計画を早められるほどの魔力量を保有しているのだろう。
しかし、腹心の大半を動員しなければならないとなると話は別だ。
「……シスイ。とりあえずその件は保留だ。仮に今後見かけるようなことがあっても手出しはせず、やり過ごすように。皆にもそう伝えておいてくれ。危険すぎる。私にとってお前たちはなくてはならない存在だ。ひとりでも欠けたら目的を達成するどころか計画が立ち行かなくなる。もどかしいかもしれないが、地道に、着実に計画を進めることを優先しよう」
危険な橋は渡らない。目先の美味しそうな餌に喰いついて失敗し、長い年月をかけてようやくここまできた計画が破綻するのは避けたい。
それは同志を失うことも然り。
「了解しました、マスター。では僕は次のターゲットの許に向かいます」
「いや、今日はもう休め。他の者たちにもそう伝えてある。先ほど言った通り、お前たちのひとりでも欠けたら計画が頓挫する。私もお前たちのことが心配だ。だから今日はもういい。ゆっくり休んで、明日以降に備えろ」
「……了解しました」
そう応じると、シスイも書斎から辞した。
扉が閉まると、室内はしんと静まり返る。
男は窓外に視線を向けた。そこに広がるのは、荒れ果てた土地だ。
木も草も枯れ、痩せ細った魔物がうろついている。
しかしその魔物もこの館には近寄らない。近寄ってはいけないと本能で察しているのだろう。
視線を空に向ければ、重い雲がのしかかるように広がっている。
ここが、この大陸がこのような状態になって一体どれほどの年月が経過しただろうか。
大陸の中心部は深く抉れ、天候は不安定。大地は痩せ、作物は育たず、人が暮らせる環境ではなくなり──かつてこの地に国が栄えていたと言っても、誰も信じないだろう。
そしてきっと、もう誰も覚えてなどいないだろう。
彼を除いては。
「リュシェ。ネチア。ゼオセリス……」
初老の男が呟く。
苦しげに。悲しげに。
「私は、愚かだろうか」
初老の男は視線を部屋に戻し、壁に飾られている大きな額縁を見上げた。そこには何も描かれていない。額縁沿いに辛うじて画布が残っているだけの代物だ。
しかし男の目には、その額縁の中に家族の肖像画が見えていた。かつてそこにあった、幸せそうな家族の絵が。
「それでも……例え愚かであろうとも、私はもう止まることなどできない。大願を成就するために、ようやくここまできたのだ。諦めはしない。決して、諦めなどしない……!」
感情的に発せられた言葉は、虚しく静寂の中に吸い込まれていく。
再び室内に沈黙が降りた。
しばしの間を置いて、ふぅー、と男が細く長く息を吐き出した。
「あと少し……あと少しなのだ。必ず仇を討つ。例えそれが私の自己満足であろうとも。そして、あの子たちの願いを叶えるのだ。本来いたはずの場所へ帰るという、彼らの願いを……」
誰にともなく呟くと、男は踵を返して書斎を出た。
あとには耳が痛くなるほどの静寂と、額縁の下、厳重に鍵がかけられた棚の中に、主を失った王冠だけが残されていた……。




