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魔王候補になりました。  作者: みぬま
第3章 魔王討伐
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56. 関所の悲劇

 無事レスティとシグリルが契約を結んだので、そのことをモルト砦の魔術師団団長やアズレーさんに報告した。最後にハルトにも報告すると、ハルトからも明日の昼頃に出発する予定であることが伝えられた。

 よしよし、今後はアールグラントのちょっとした魔物トラブルならレスティが解決してくれるはずだし、ここからはびゅんびゅん進んじゃおう!



 などと意気込んでいると、せめて出発までの間でいいからと魔術師団の面々に捕まってしまった。どうやら私が使っていた魔力操作の光が気になっていたらしい。

 しかし生粋の詠唱派だらけの魔術師団にあれを教えるのは骨だよなぁ……。


 そう思いつつも、あれは単純な魔力操作によって魔力を光らせていただけだと説明したら、全員から理解不能と言わんばかりの視線を向けられてしまった。

 なので魔術を思念発動できるようになれば理解できるようになると説明すると、団員たちの目に光が戻った。詠唱派からすると未知の技術である魔力操作よりも、知識として知っている思念発動の話になったことでやる気を取り戻したようだ。



 その後は思念発動の特訓だ。

 思念発動さえ使えるようになれば、先日のように詠唱で喉を痛めた場合を想定してスクロールを用意する必要もなくなる。何せ発音しなくても思い浮かべるだけで魔術が発動するのだから、喉の痛めようがない。


 というわけで、思念発動は是非とも身に付けてもらいたい技能だ。

 私は張り切って魔術を思念発動するための講習会を開催した。


 翌朝も時間が許す限り指導するつもりで魔術師団に顔を出したのだけど、あとからやってきたレスティが「それならば我が教えてやろう!」とやる気満々で請け合ってくれたので、レスティに任せることにした。

 あんな感じではあるけれど、レスティも知識の宝庫たる竜だしね。きっとうまくやってくれるだろう。

 ……うまくやってくれる、よね?



 魔術師団の面々をレスティに任せたあと、私は自分の支度を始めることにした。

 と言っても砦に着いてからは慌ただしくて鞄の中身は手付かずだし、持ち物のチェックくらいしかやることがない。


 鞄の中身は……よし、問題なし!

 さて、出発までまだ時間はあるけど……砦内をうろつく気になれないな。


 私は部屋に備え付けられているベッドに仰向けに寝転んだ。

 アールグラント城に充てがわれた部屋のように天蓋はついていないけれど、上等な柔らかいベッドに身を沈めていると自然と瞼が下りてくる。


 アールレインを出発して以降、色々あり過ぎてさすがに疲れた。それでもまだ旅は始まったばかりだ。

 でも一方で、ハルトが言っていたように敵の姿が大分はっきりしてきたのも事実。

 あとはその敵をなんとか捕まえて──。






 コンコン、と扉を叩く音がした。どうやら軽く寝落ちしていたようだ。

 目を開くと同時に気配を探ると、部屋の外、扉の前にフレイラさんの気配を感知した。


「フレイラさん……?」

「あ……ごめんなさい、起こしちゃったかしら」


 体を起こしながら寝起きの掠れ声で問いかけると、扉の向こうにいたフレイラさんは申し訳なさそうに謝りながら扉から顔をのぞかせた。


「大丈夫、むしろ起こしてくれてありがとう」


 危ない危ない。今何時くらいだろう?

 そう思いながら窓の外を見れば、いつの間にか空が暗い雲に覆われていた。

 黒っぽい雲。雨でも降るのかな。


「気付いた? 雨が降りそうなの。ルースたちは雨が降るなら出発を遅らせた方がいいって言ってるんだけど、マナのことを考えると早めに出発した方がいい気がして」

「雨……」


 確かに雨が降ると視界も悪くなるし、道もぬかるむ。

 馬車で移動するならこの上なく悪条件だ。


「タツキ、いる?」


 反射的に呼びかけると、精霊石からタツキが姿を現した。

 私の前に降り立つと、ちらりと窓の外を見る。


「何とかならないかって話?」

「そう」


 さすがタツキ、私が言おうとしていたことはもう予想済みだったようだ。

 タツキは一度首を捻ると、「何とかなると思うよ」と言った。


「どうすればいい?」

「リクが結界で馬車と進行方向に降る雨を弾いて、僕が地面を乾かす」

「なるほど、じゃあそれで行こう」


 あっさり方針を決めてベッドから立ち上がると、フレイラさんは苦笑した。

 こういう結論が出ることはある程度予測していたようだ。もしくは、期待されていたのかも。

 ただ具体案なしでルースたちを説き伏せられなかっただけだろう。


「じゃあ、皆にも説明して貰える? 今ルースもハルトもエントランスにいるから」

「了解!」


 私は素早くベッドを整えて荷物を背負うと、部屋を出た。フレイラさんとタツキが後ろに続く。

 今いるのは砦の三階。廊下をしばらく歩くと現れる階段を下り、一階のエントランスに向かう。

 エントランスにはハルト、ルース、レネ、アレア、ウォル、マナが勢揃いしていた。


「リク! 話は聞いたか?」

「聞いたけど、タツキからいい案が出たから出発できるよ」


 こちらに気付いたハルトの問いに、私はすぐさま応じた。

 そしてタツキの案を説明すると、私やタツキの魔力量を把握していないルースやアレア、ウォルがぎょっとした顔になった。


「そ、そんなのリク様とタツキ様の魔力が持たないんじゃないの!?」

「あのね、アレア。私もタツキも魔力量は竜並みあるから大丈夫なの。むしろ私は有り余ってるくらいだから」


 どうも私、魔王種だってことを忘れられてないかね。

 そう思いながら問題ないことをアピールする。


「そうか……? なら、行けるのか?」


 ルースが半信半疑の声を上げた。


「行けるってことなんじゃないですかね……?」


 続いてウォルが首を傾げながら応じる。

 うーん、信用ないなぁ。




 そんなやりとりを経て、私たちはようやくモルト砦を出発した。

 外はすっかり雨が降り始め、地面が濡れていた。


 出発の際にはアズレーさんを筆頭としたモルト砦の主立った面々とレスティ、シグリルも見送りにきてくれた。

 彼らに手を振りながら、私はさっそく結界魔術を展開する。同時にタツキも土属性、火属性、風属性を混合した魔術で道を整えていく。土属性で水がたまりやすいへこみを均し、火属性と風属性で乾かしているようだ。

 さすがタツキ。三属性同時行使ってどういうことなの。


 馬車には物資を多めに積んでいるので、調査隊の面々は馬車二台に分乗している。そしてそのさらに後ろに、モルト砦の騎士と物資を積んだ馬車が五台続いていた。

 雨対策の関係上、『飛竜の翼』の面々が乗っている先頭の馬車の上にタツキが、その後ろを走る馬車の上に私が乗っている状態だ。私が乗っている馬車にはハルトとフレイラさん、マナが乗っている。


 モルト砦の騎士たちが乗る馬車五台に関しては、ハルトが懸念していた現在無人の関所を管理する人員とフォルニード村への救援隊──その先遣隊が乗っている。御者を含む騎士たちは先行して関所やフォルニード村の状況を確認し、報告書をまとめる役割を担っているのだ。




「フォルニード村はどんな村だったの?」

「とても賑やかな村だった。色んな人型魔族が、種族に関係なく集まってた」

「人型魔族ってそんなに種族が多いの?」


 幌の中からフレイラさんとマナのやり取りが聞こえる。

 ハルトの声は聞こえないけれど、和やかに交わされている会話を見守っているのだろう。伝わってくる空気は穏やかなものだ。


 そんな穏やかな会話を聞きながら、私はそっと自分に火属性付与した結界を張った。

 はぁ、あったかい。




 やがて馬車は先日魔物の群れと戦った付近に到達した。しかしそこにはところどころ焦げた地面があるだけで、レスティが凍りつかせた形跡も、魔物の亡骸も残っていない。

 恐らくモルト砦の面々が対処してくれたのだろう。討伐した魔物は相当数いたはずだけど、よくこの短期間で片付けられたものだと感心してしまう。


 それにしても、あまりにも綺麗さっぱり片付けられているのがどうにも気になった。

 これは、もしかして……。

 そう思いながらタツキを見遣ると視線に気付いたのだろうか、前方を行く馬車の上のタツキが振り返った。そして親指をグッと立ててみせる。


 やはり御主(おぬし)の仕業であったか……!


 全部ではないだろうけど、大半の魔物はタツキが分解して片付けたのだろう。

 そう言えばセンザ手前の森でもそうだったもんね。いちいち焼いて片すよりずっと効率的だわ。

 あれ、それを言ったら私も手伝った方が早かったのかな?


 なんて今さら気付いてもあとの祭り。

 終わってしまったことはさっさと忘れることにした。




 この大陸で、平地での長雨は珍しい。珍しいけど、ないわけではない。

 今回もその珍しい雨のひとつだろう。


 そんな雨の中を進んでいくと、だんだんと空が暗くなってきた。晴れている日よりも暗くなるのが早い。

 これ以上進むのは難しいだろうと思ったところで先頭の馬車が道から逸れた。道端にほどよい岩場があったので、そこで夜を明かすことにしたのだろう。

 後続の馬車も先頭の馬車に続く。


 岩場に馬車を止めると、私はひときわ大きな岩の上に登った。結界をどれくらいの範囲で張ればいいのか確認するためだ。

 馬車七台分だから……と目星をつけて、広めに結界を張る。

 眼下ではタツキが結界内の地面を整え、結界間際に土嚢代わりのちょっとした土壁を構築していた。


 ほかの面々は夕食の支度を始めている。

 今回から同行している騎士たちはハルトとフレイラさんがあれこれ言い合いながら食事の支度をしている光景におろおろしていたけど、ルースに「殿下たちはこれまでも自分たちで食事の用意をしてきたんだ。あんたたちは気にせず自分らの分だけ作ればいいさ」と声をかけられてほっとした表情で頷き、自分たちも食事の支度を始めた。

 どうやらハルトたちの分も自分たちが用意するものだと思っていたのだろう。こういう時、身分が高い人間が混じってると大変だねぇ。


 しみじみ頷きながらそんな景色を眺めていると、隣にタツキが降り立った。


「リクはこんなところで何やってるの」

「いやぁ、何だか和むなぁと思って眺めてたの。ここのところ殺伐とすることが多かったからね。こういう何気ない風景に癒されるなぁと思って」

「そっかぁ。じゃあ早いところ、これが日常風景になるようにしないとね」

「……そうだね」


 そんなことを話していると、フレイラさんが私たちを呼ぶ声がした。どうやら夕食の支度が整ったようだ。

 タツキは表情を輝かせながら岩を飛び降りていった。私もそのあとに続く。


 これが日常風景になるように、か……。

 そうだね、それまで頑張らないとね。




 そんな風に過ごしながら、モルト砦を出発して三日目。

 私たちはアールグラント王国と魔族領との国境に到着した。


「これは酷い……」


 先頭の馬車の御者をしている騎士が思わずといった様子で呟いた。

 雨が止んでなお薄く曇った空の下、真っ黒に焼け落ちた関所の姿は衝撃的だっただろう。


 ハルトも馬車を降りると関所跡に近付いてその様子をじっと見つめていた。

 何も言わないけれど心拍数が上がっている。明らかに動揺していた。


「モルト砦で生き残りの人に会ったけど、恐慌状態に陥ってて話ができる状態じゃなかったのよね……。まさか関所がこんなにも酷い状態になってるなんて……」


 フレイラさんもショックを隠せない様子で、目の前の光景に釘付けになっている。


「リクさん……見ておきますか?」


 そっとレネが小声で聞いてくる。見ておくとは、過去視をしてみるかということだろう。

 私は目の前に広がる凄惨な光景に、できれば過去視をするのは避けたいな、と思ってしまった。


「原因はわかってるんだし……見なくてもいいんじゃないかな」

「そう、ですよね……」


 レネも過去視を避けたそうな様子で同意した。

 恐らく星視術師の義務として私に意見を求めたのだろう。


 そんな私たちの会話が聞こえたのだろうか。ふらり、とハルトがこちらにやってきた。

 そして私とレネを交互に見るとしばし逡巡し、しかし数拍後、ゆっくりと口を開いた。


「……頼む。見れるのであれば、ここで何があったのか、見てもらいたい……。何があってここまでの状態になったのか、知りたいんだ」


 相当なショックを受けているのだろう。

 ハルトが人前でこんなにも動揺した顔をしているのは珍しい。


 私はちらりとレネを見た。レネも私の方を見ていた。

 今後に備えてレネの魔力を温存することを考えれば、私が見るべきかな……。

 私はレネにひとつ頷いてみせるとハルトに向き直った。


「わかった、私が見る。ちょっと待ってて」


 未来視と違って過去視は『実際起こったこと』に限り、辿るべき道筋はひとつだ。

 消耗する魔力も条件が絞られている分だけ少なくて済む。その分鮮明に、遠い過去まで辿ることもできる。


 私が辿るべきは、センザで千里眼を使ったあの時よりも前。

 千里眼を使った時にはすでに関所は焼け落ちていたのだから、当然それよりも前に戻らなければ……。



 私は焼け落ちた関所に近付くと対象物を見定める。これは人でなくてもいい。この場の様子を見たいだけであればむしろ静物の方が都合がいい。

 そうして選定した対象物──焼け残った柱に意識を向け、過去視の魔術を発動する。正確には、柱を構成している魔力に意識を集中して干渉しているんだけど。

 無事柱を構成する魔力への干渉に成功すると、私は自らの魔力を伸ばして魔力同士を接続し、過去へと遡っていった。



 最初に見えたのは私たちの姿だ。

 全員がショックを受けた表情をしている。




 さらに遡る。


 私がセンザで千里眼を使うよりもちょっと前くらいだろうか。

 ちらほらと残り火が見える暗闇の中、黒い塊が周囲を駆け抜けていた。

 恐らくモルト砦に迫ってきていた、魔物の群れだろう。




 さらに遡る。


 熱い……。

 周囲は炎の海になっていた。


 その中を黒い何かが(うごめ)いている。

 魔物だろうか。


 炎の向こう──門の向こう側に、必死の形相で馬に跨がり去っていく兵士の姿が見えた。

 恐らくモルト砦に逃げ延びた生き残りだろう。




 さらに遡る。


 ここも熱い。

 先ほどよりも炎は広がっていないけれど、周囲を見渡せば関所に雪崩れ込んだ魔物たちと、それらと戦う兵士たちの姿が見えた。

 魔物の方が圧倒的に数が多い。


 責任者だろうか、この場で一番立派な鎧を着込んだ男性が何かを叫ぶ。

 柱の記憶だからか音が全く聞こえない。ただ、音の振動のようなものは感知できる。はっきりとは聞こえないけれど、誰かモルト砦に知らせに走れと言っているようだ。

 すると先ほど馬に跨がり去っていったあの兵が慌てて厩舎と思われる方向へと走った。

 なるほど、彼は上司の命令でこの関所を脱出したのか……。


 しかしすぐにその責任者らしき男性も複数の魔物に飛びつかれ、辺りに血が飛び散った。くぐもった断末魔の叫びが振動で伝わってくる。

 それを見た周囲で戦っていた騎士や兵士たちが恐慌状態に陥った。指揮官を失い混乱状態になっている。

 そんな状態でまともに大量の魔物と渡り合えるはずがない。

 ひとり、またひとりと魔物の餌食となっていく。


 ……見ていられない。けれど、見なければ。

 私は吐き気に耐えながらその光景をしっかり目に焼き付けた。


 関所の規模を考えると、今視界の中にいる彼らが関所に詰めていた人員の全てだと思われる。

 炎がじわじわとその範囲を広げ、その向こうで騎士や兵士の亡骸を貪る魔物たち。

 魔物の数が少しずつ増えてきている気がする。


 逃げ出したい衝動に駆られる。

 でも逃げられない。


 振動で、馬が嘶くような声を感知した。囮にされたのであろう馬たちがなだれ込んでくる。

 魔物たちが現れた馬たちに群がる。

 その影から、一騎の馬が関所の外へと走り抜けた。


 あぁ、ここで繋がるのか。

 さっきと同じ光景──必死の形相で馬に跨がり去っていく兵士の姿が見えた。




 さらに遡る。


 恐らくまだ何事も起きていない。関所の人々が粛々と仕事に励んでいる光景が見える。

 ここにいる人たちが、たったひとりを残して全滅したのだと思うと胸が痛む。

 何も知らずに、いつも通りの日常を過ごしていたに違いない。


 それもやがて破られる。

 突如、一匹の中型の黒狼が関所に飛び込んできた。

 慌てながらもそれに対処する騎士。中型だったのが幸いしたのか、すぐに片付く。


 しかし。

 中型の黒狼に続くように大型を含む黒狼の群れが突入してきて、それと同時に関所に激しい振動が走った。

 小型の赤猪も関所内になだれ込む。


 ここか。

 ここが、始まりの時だったのか……。


 でもこの時点ではまだ騎士も兵士も冷静さを失っていなかった。

 うまく連携を取り、赤猪の体当たりを躱しつつ黒狼を着実に仕留めていく。

 状況が変わったのは、関所に炎が放たれてからだ。


 ……ん? 炎が、放たれた?

 おかしい。この場に火属性魔術が使えるような魔物はいない。

 ではなぜ炎が? 関所内で火を使っていたのだろうか。

 でも石造りの関所に、こんな風に炎が広がるのは不自然だ。

 何かがおかしい。


 そう思いながらも柱の視点のまま全方位に意識を向ける。


 そして。


 目が合った……ように感じた。

 思わず私は息を呑む。


 魔族領側。

 関所の門の前。


 そこには、紅の瞳、白い髪、白い肌の、黒い神官服を身に纏った青年が立っていた。

 その横には炎を纏った人型の高位精霊が寄り添っている。


 私は今、過去視をしているはずだ。

 だからこの時のこの場には存在していない。

 今の私は柱の記憶を覗いているに過ぎない……はず、なのに。


 しかしじっと、その青年が私の方を見ているように感じた。


 怖い。


 怖い、怖い……!



 本能が叫び出す。



 逃げろ、逃げろ……!



 見つかってはいけない、逃げろ!




 ひぅっと引き攣るように息を吸うのと同時に、全身から力が抜け、へたり込んだ。

 息が荒くなる。吸い込む空気の冷たさで自分が元の場所──過去視の世界ではない、現在の、現実の世界に戻ってきたのだと気がつく。


 よかった、逃げ切れた……。


 安堵とともにさらに脱力して地面に倒れ込む。

 全身が汗でびっしょりだ。冷気に晒されて一気に体が冷える。

 でも今はそれよりも、逃げ切ったことへの安心感で一杯だった。


「リク!」


 ああ、ハルトの声だ。よかった、ここなら安全だ。

 もう頭がここが安全かそうでないか、逃げ切ったのかそうでないかしか判断してくれない。

 とんでもない疲労感とその思考しか、今の私には残っていなかった。


 駆け寄ってきたハルトに抱き上げられる。温かいハルトの体温が傍にある。

 そのことに安心した途端に意識が遠のき始めた。

 何とか周囲の状況を確認すべく目を開けようとしたけれど、辛うじてレネの心配そうな顔が少し離れた場所にあるのが認識できただけだった。


「リク! 大丈夫か!? リク!」


 周囲には自国の騎士や兵士もいるだろうに、人目も憚らず焦った声をあげるハルト。


「対象を柱にしておられたので、対象の感情に引っ張られることはないと思っていたのですが……過去視で覗いた記憶に、意識や感情が引きずられすぎてしまったのかもしれません」


 冷静にそう分析するのはレネの声だ。


「それでこんな状態になるのか!?」

「……大変申し上げ難いのですが、それだけ凄惨な光景をご覧になられたのではないでしょうか」


 私に気を遣っているのか、静かに話す二人の声も少しずつ遠のいていった。

 その後も話し声は聞こえていたけれど、私は逃げ切れたという安堵とハルトの腕の中にいる安心感に身を委ね、微睡みの中へと沈み込んでいった。

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