14.【ハルト】十歳 森での遭遇
ハインツのおかげで俺は無事、王都から脱出することができた。
当初の予定では王都の外へと続く下水を通る予定だったけど、予期せぬ助力が得られて安全な上に快適に外の世界に辿り着く。本当にハインツには感謝してもしきれない。
どうか俺を助けたことで彼に不幸が降り掛かりませんように……。
古井戸から出ると、爽やかな夜風が頬を撫でた。
目の前に広がるのは月に照らされた草原。北方には北部山地──というのは城から出たことのない俺の勝手な呼び名で、正式名称・グラル山地のシルエットが見える。
何とも言えない開放感だ。前世でだってこんな開放感を味わったことはない。
そもそもこんな自然豊かな景色もあまり残ってなかったしな。
何気なく、アールグラント城擁する首都アールレインを振り返る。
城にいる時は広くて大きい街だと思っていたけれど、外から見ると何となく小さく見えた。
……なんて、感傷に浸っている時間はないか。
脚力強化の効果が残っているうちに、早いところグラル山地まで移動してしまおう。
のちに人伝に聞いた話だけど、俺の不在が判明したのは翌朝のことだったらしい。
夜が明けて城が大騒ぎになっていた頃、俺は徹夜でグラル山地内を川沿いに北上していた。まだ安心して休めない。そう思っていたからだ。
しかし動き続けていれば疲れもするし、腹も減る。太陽が天頂に差し掛かる頃、脚力強化の効力も切れたので目立たない岩場の影で昼食を摂った。
干し肉は……常々疑問だったんだけど、これ、何の肉なんだろう? 店頭に置かれている札には「干し肉」とか「高級干し肉」とかしか書かれてなくて、材料が何なのか不明なんだよな。
とりあえず、少し臭みがあるけれど食べられないこともない。
しかしこの干し肉、やたらと喉が渇く気がする。
そう思って鞄からコップを取り出した。左手でコップを持ち、右手をコップの上に翳す。
「総ての根源たる力よ、我が声を聴き、応えよ。
其は恵みそのもの。
水よ、杯を満たせ。
“湧水”」
たぷん、と音を立てて、コップの中が水で満たされた。
水属性魔術“湧水”は魔力を向けた箇所から注ぎ込んだ魔力分だけ水を湧き上がらせる魔術だ。
魔力がそのまま水に変換されているけれど、別に変な味がすることもない。普通においしい水になる。
本当、何度やっても感動するな、魔術って。発動する時の魔力が体から流れ出ていく感覚も、慣れはしたけど未だに不思議な感覚だ。
俺はコップに満たされた水を飲み、干し肉を食べ、また水を飲み……と繰り返して食事を終えると、軽く体を解す。
それから治癒魔術で疲労感を和らげて、すっかり効果が切れてしまった脚力強化のスクロールを一枚取り出した。
予想では三日以内に国外に出なければ国境を越えるのが難くなるはずだ。特に今日はできるだけアールレインから離れる必要がある。
あと三日と考えている根拠は、念話が使える魔術師は大きな街にしかいないため、末端の村には伝令を走らせる形になるからだ。
なので実際はもう少し早くにタイムリミットがくるかも知れないし、もう少し時間に余裕がある可能性もある。
いずれにせよ、急ぐに越したことはない。
俺は手早く片付けて荷物を背負い直し、スクロールに魔力を流すと移動を再開した。
この日の夜。通常三日かけて慎重に越えるのが定石のグラル山地を無事に抜けることができた。
通常の半分の時間での踏破だ。自分で自分を褒めたい。偉いぞ、俺。
山地を抜けた先にはちょっとした森があった。今夜はここで休み、明日に備えることにする。
俺はほどよい広さが確保できる場所を見つけると、夕食の用意を始めた。
昼の食事は本当に味気なかったし、ちょっとだけ干し肉に手を加えてみようと思っていたのだ。
用意するのは干し肉を半分と乾パンをひとつ。そして鞄から取り出したるは、小さな鍋。
野宿の場所探しをしながら拾い集めてきた枝を一束置いて、土属性の魔術で周りを囲うように石壁のドームを作り、上面には鍋より少し小さいくらいの穴を、側面にも適当な大きさの穴を開けておく。簡易竃だ。
上に鍋を置き、魔術で水を注ぎ、枝の束に魔術で火をつける。
魔術様様だな。
二年前から野宿で使えそうな魔術の詠唱を積極的に頭に叩き込んでおいた賜物だ。
本当、初級とは言え使えたらこの上なく便利なんだよな、魔術って。
ちなみに俺の火属性と水属性の適性は中級程度で、思念発動させるには至っていない。それでも多様な魔術への適性が一定以上備わっているんだから、勇者補正って凄い。
どうせなら物理職なんだから付与魔術の適性の方が欲しかったところだけど……贅沢は言っていられないか。
ともあれ夕食だ。
鍋の水を温めながら、頃合いを見計らって適当に調味料を加えて干し肉をちぎって投入し、味見する。
具材が干し肉だけだから味を整えただけだけど、前世での自炊の経験が思わぬところで役に立った。嬉しいやら嬉しくないやら。
いや、役には立っても嬉しくはないか。正直、自炊にあまりいい記憶がないもんな……。
そもそも自炊するに至った原因がなぁ。
……嫌なことを思い出してしまった。忘れよう。
それにしても、その辺に生えている草や木の実は食べられるんだろうか。こんな時、鑑定スキルとかあったらいいのにと思いつつ、できあがった干し肉スープをコップに移して飲む。
うん、悪くない。
固いパンをスープに浸して食べながら、地図を広げて明日以降のことを考える。
このまま北へ行けば港町ティリだ。でも人目を避けたいからティリに行くのは却下。北東に行けばアールグラントで魔族領に一番近い砦、モルト砦がある。
地形的にティリの北側は入り江になっていて、入り江沿いに東に行くとモルト砦があるような位置関係だ。
さらに入り江を回り込むようにモルト砦から北上すると、魔族領とアールグラントとの国境、関所がある。モルト砦は大きく東に迂回すれば回避できる。関所も西側が入り江になっているから回避するなら東へ行けばいい。
が、魔族領との国境ラインには長くて頑強な壁があり、壁沿いに東へしばらく行くと騎士国ランスロイドとの国境に切り替わってしまう。時間的猶予がない今、国境壁区間に魔族領へ抜ける道があるか身を隠しつつ探るとなると……正直、厳しいか。
そうなるとやっぱりモルト砦を東に迂回しつつ魔族領との国境に近づき、適当な場所を見繕って国境壁越えをするしかなさそうだな。
そう結論付け、食事を終えて片付ける。
昨日徹夜したこともあって、片付け終わると同時に眠気に襲われた。今日はもう休もう。
俺は睡眠不足を解消するべく、マントにくるまって目を閉じた。
眠りについてどれくらい経っただろう。警戒していて眠りが浅かったせいか、その気配にはすぐに気が付いた。
ガサ、ガサ、と草を踏む足音が近づいてくる。それも複数。音の大きさから相手は大人の集団だと判断する。
山近い森の中。この状況。
盗賊か、人攫いか。
そういえば半年くらい前に父王が言ってたな。最近希少種の誘拐が魔族領で頻発している、とか。
神位種の子供も過去に一人攫われたことがあるとかで、くれぐれも気をつけるようにと言われた。
思えばあの時にはもう、父は俺が神位種だって知ってたんだろうな。何せ神殿から頻繁に司祭が派遣されてきていたのだから。
でも、何でそこで俺にも気をつけろなんて言ったんだろう? 俺は城から一切外に出ていない……と思われるように立ち回っていたはずなのに。
もしかして、だけど。父は、俺が城下街に下りていたことを知っていたのでは。
もしくは、今回こうして出奔することに気付いていた?
いやいや。
前者はともかく後者を悟られていたのだとしたら、父の洞察力が人間離れしすぎている。
仮に城下街に下りていたのがバレていたのだとしても、出奔のことまではさすがに……。
と、今はそんなことに気を取られている場合じゃなかった。今は得体の知れない集団が迫っているのだ。
盗賊、人攫い、どちらにしても自分にとって歓迎すべき相手ではない。
そう判断してマントを羽織り直して荷物を手繰り寄せ、スクロールを一枚取り出す。
脚力強化で逃走して衝突を回避する。これで行こう。
鞄を背負い、発光が相手から見えないようにマントの下でスクロールに魔力を流す。足が一瞬熱を帯びた。
よし、脚力強化、完了だ。
まだ目が夜闇に慣れていないが、音はよく聞こえた。
方向感覚も……大丈夫だ。音がしている方が西だ。なら、東へ逃げればいい。
決めるや否や、俺は地を蹴った。東へ。
すると後方から「へへへ」と、嫌な笑い声が聞こえ──唐突に、前方に人の気配を感じて急ブレーキをかけるように地面に踵を立てる。
東方向にも複数人の気配。後方……西方向も、先ほどの足音が迫って来ている。
南方は山だ。なら北かと思えば、そちらからも人の気配。
囲まれた!
気付いた時には手遅れだった。
この世界で子供の一人旅ともなれば例の誘拐事件に関係なく、道中でこういう輩と遭遇することもある程度想定していた。
なのにそれが現実となった今、想定していながらまるで対処できなかった自分に歯嚙みする。
仕方なく大きめの木を背にして少しでも不利を減らそうとするが、姿を現した男たちを目にして身が竦んだ。
今まで城で人間相手に剣術や魔術の訓練をしてきたけど、そういった相手と今目の前にいる相手ではまるで違った。
訓練は結局のところ、相手がどれだけ本気のつもりでいたのだとしても、所詮は王子という身分の子供を相手にした訓練だったのだ。
そう思い至るが、だからと言って大人しくしているつもりはない。深呼吸をして何とか冷静さを取り戻し、改めて男たちを観察する。
皆が皆、薄汚れた服を着て思い思いの武器を手にしながら、野卑な笑みを浮かべている。如何にも盗賊らしい風体だ。
殺気はほとんどない。けれど、俺を獲物として見てくる視線が突き刺さってくる。
その恐怖を振り払うように短剣の柄に手をかけた。
訓練と違って一対一ではなく、相手は複数人だ。
しかも城抜けの際に邪魔になるだろうと得意の長剣を置いてきてしまっている。大人相手に短剣ではリーチが足りない。
けれど、今なら脚力強化の付与魔術も効いているし、魔術も交えればそれなりに戦える自信もある。
……でも。“殺し合いができるか”と聞かれたら、否だ。
その覚悟が自分に備わっていないのは、今、手足が震えて指先ひとつ動かせない俺自身が誰よりも痛感している。
なら、どうする。どうしたらいい……?
じりじりと狭められる包囲網。気付けば南方側にも数人が回り込んでいて、俺は完全に囲まれていた。
決断しなければと思うのに、うまく頭が働かない。睨み合っているうちに、いつしか恐怖が思考を支配していた。
「こりゃあ、思わぬ収穫だな」
「あぁ。できるだけ傷をつけるなよ。この顔なら特殊な性癖のお貴族様相手に商売できるぞ」
ひゃひゃひゃ、と耳障りな笑い声が全方向から上がり、ぞっとする。
逃げなければ。一刻も早く、今すぐにでも……!
そう思うのに、その手段がまるで思いつかない。
ただただ焦りと不安と恐怖だけが頭の中でぐるぐると回り始めていた。
その時だった。
「おいおい。子供ひとりに大の大人が寄ってたかって、何してるんだ?」
何の前触れもなく、唐突に、その声は響いた。
盗賊たちとは異なり、何の気配も感じなかった。
辛うじて視線をそちらに向けてみれば、そこには筋骨隆々という表現がぴったりの体躯をした男性が剣を肩に担いで立っていた。
年齢は二十代後半くらいだろうか。鉄色の髪。同じく鉄色の瞳には研ぎ澄まされた刃物のような鋭い眼光。平均的な身長の大人でも見上げる必要があるほどの背丈。
服装は旅人らしい出で立ちで、力を抜いて立っているようにも見えるが、俺の目にはその隙のなさと、少しでも動けば真っ二つに切り裂かれてしまいそうな幻視が見えた。
ただ立っているだけでこのプレッシャーだ。相当な手練れだと判断できる。
あまりの登場のタイミングのよさに、彼を味方と見ていいのか新たな敵と考えるべきか判断に迷う。前世の王道からすれば味方だろうが、それがこの世界でも適用されるのかは全くわからない。
結果、今下手に動くのは得策ではないと判断する。
……と、そこで先ほどまで絶望で真っ白になっていたはずの思考がまともに働きだしていることに気が付いた。
よし、冷静になろう、冷静に。
まずはここを切り抜けることに全力を尽くす。
大丈夫、落ち着けばできる。できなければ、国外逃亡どころじゃなくなる。
こういう場面で生き残っていけないのであれば、この先遅かれ早かれ俺は詰むだろう。詰んでしまった場合、何のために全てを捨ててまで出奔してきたのかわからなくなる。
俺は別に、死地を求めて城を出たわけでも、奴隷になるために飛出してきたわけでもないのだから。
方針は決まった。
方針が決まると思考がまとまりやすくなる。同時に震えも止まり、全身の感覚が自分の制御下に戻ってくる。
睨み合う男性と多数の盗賊たち。
その中でひとり、俺はそれら全てを出し抜いて逃げる算段を立て始めていた。